背中
最初の一手は、前から来た。
九鬼さんの腰が沈む。爪先が床を噛む。見えたのは、そこまでだった。
埋込灯の白い列が視界の端で流れて、瞬きひとつの間に、九鬼さんは目の前へ来ていた。
速い。だが、乗る前の構えまでは消せない。沈み込みの向きが、突っ込んでくる線を先に教えていた。
廊下は一直線で、逃げ込める分岐が無い。速さで潰すには、いい地形だ。九鬼さんもそれを知っていて、最初の一手に、いちばん速い自分を選んでいた。
半身をひらく。打撃装備ごと伸びてきた腕を、掴まずに外へ流した。
加速の乗った身体は、急には止まれない。九鬼さんは俺の南側を擦り抜け、ずっと西の床で靴底を鳴らして、ようやく止まった。
前列の中央に、穴が空いた。
踏み込もうとした足の先へ、戸坂さんの身体が滑り込んでくる。肌の色がくすんで、質感が石に寄った。廊下の真ん中に、壁が一枚増えたのと同じだった。
北寄りから、瀬戸が踏み込んでくる。特殊警棒の先が細かく震え、空気の鳴る音が高くなった。刃を纏う予兆だった。
同時に、後ろで熱が膨らんだ。
振り返るより先に、床を炎が這ってくる。低く、広く、足首の高さを舐める火だった。前と後ろが、同じ呼吸で来ている。合図の声は、どこからも聞こえなかったのにだ。
「統真!」
八神の声だった。いつもの跳ねる調子が、どこにも無い。
「そこで止まって。……お願いだから」
火は俺の爪先の少し手前で薄く千切れて、消えた。焼くためではなく、止めるための火だった。
「鳴瀬!」
隊長の声が、火の消えた側から飛んでくる。
「拳を下ろせ! 事情は後で幾らでも聞いてやる。だから今は止まれ!」
声の位置は、最初から変わらなかった。後ろの、間合いの外だ。前後が締まっていくあいだも、隊長の足音は一度も近づいてこない。動かないまま、声で隊を動かしていた。
攻めの線は、重ならなかった。合図も無いのに、誰かが踏み込めば誰かが引く。五人の呼吸が、一つに揃っていた。
そのあいだも、飛んでくる言葉に罵声は混ざらない。どれも、止めるための声だった。
俺は答えず、足も緩めなかった。火で足が止まれば、挟まれて終わる。割るなら、火の届かない前列の側だった。
瀬戸の警棒が来る。高い唸りを曳いて、袈裟に落ちた。
内へ踏み込み、柄に近い側を掌で受け流す。刃がどれだけ鋭くても、纏っているのは警棒の間合いだけだ。中へ入れば届かない。
その腕を取りかけたところで、鎖が来た。瀬戸を落とす一手は、宙に浮いたままだ。
右の手首に巻き付いて、後列へ強く張られる。鵜飼さんの鎖だ。引かれた体勢へ、正面から戸坂さんが組み付いてきた。石の重さに押されて、南の壁際まで下がる。背中の打撲が、押し込まれた拍子に軋んだ。
「やめるなら今だぞ、鳴瀬!」
耳のすぐ横で、戸坂さんの声が鳴った。
「誰もお前を、こんなとこで潰したかねえんだよ!」
硬化した胴は、殴っても意味が無い。ただ、関節までは硬くならない。曲がるための場所は、石にはならないのだ。
組み付いてくる腕を、肘の内側へ指で辿る。石の質感が途切れて、人の硬さに戻る境目が、指の下にあった。
押し込む力を受け流しながら、膝の裏へ足を差し込む。その境目へ、体重ごと捻りを掛けた。折れない角度は、確かめてから掛けた。極まる寸前でわずかに力を逃がし、抜けられないことを分からせてから、崩しへ移る。
石の巨体が床へ落ちる。硬化は、衝撃そのものには強い。それでも受け身の取れる向きへ崩して、後頭部は打たせなかった。
床の上で、石の色が人の肌へ戻っていく。落ちた重さは、掌に残った。
「……っ、の、野郎……鳴瀬、やめろって……」
床の上の声には、答えなかった。巻かれたままの鎖を、逆に手繰る。
鎖は拘束の道具で、引き合いになれば、ただの綱引きだ。操作へ集中を割いている鵜飼さんの身体は、綱引きには向いていない。
「坊や、聞き分けなさい……! 一人で背負って、どうにかなる話じゃないでしょう……!」
張り合う声ごと、手繰り寄せる。
「この……坊やっ……!」
引き寄せた勢いのまま、伸びた腕を抱えて足を払う。床へ導き、肩の関節を極めて動きを止めた。極めた位置から先へは、締めない。関節は動きを縛るために取るもので、壊すために取るものではない。
腰の捕縛具を抜き取って、遠くへ滑らせてから、頸へ落とすための腕を回した。血の巡りを短く塞いで、意識の側から落とす。息の道には、触れなかった。鎖が、床で音を立てて緩んだ。
「坊や……聞き分けの無い子は……嫌い、よ……」
意識が落ちる寸前まで、声は続いていた。
瀬戸が、もう一度来る。
「鳴瀬、まだ間に合う!」
唸る先端が、突きで伸びた。
「武器を置いて、話すだけでいい! それなら誰も――」
言葉の途中で、俺は懐へ入った。突きが伸びきれば、もう間合いの内側だ。纏った刃がどれほど鳴っていても、間合いの内には振れない。
手首を押さえ、指の腱を浅く押して、警棒を床へ落とさせる。唸りは、床で途切れた。首の付け根の、骨からも太い脈からも外れた場所を選んで、加減した短い打撃を置いた。
瀬戸の膝が落ちた。倒れる身体を壁際まで送ってから離したのは、火の通り道から外すためだ。
揉み合いは、南側へ寄っていた。
その脇、北の壁際を、何かが東へ抜けた。
白い光の下を、影が走った。視界の端で、それだけだった。追う余裕は無い。後ろには、まだ二人いる。
二度目の火は、まだ来ていなかった。
俺は確かめずに、前へ戻った。
東への線が、通っている。
踏み出しかけた足の後ろで、空気が熱を持った。
「統真」
振り向くと、八神が立っていた。掌をこちらへ向けたまま、火はまだ出ていない。
「戻って。隊長と話して。……ね?」
声は静かだった。ボケも、茶化しも、何ひとつ乗っていない。
「あたし、統真の事情は分かんないよ。分かんないけど……これが駄目なことだけは、分かる」
毎朝、机を挟んで軽口を投げてくる声だ。掛け合いなら、幾らでも続けてきた。その声が今日は跳ねないまま、まっすぐ届いてくる。
「みんな倒して、あたしも倒して……それで、どこ行くの? ……戻ろうよ、統真」
八神のそういう声を聞くのは、これが初めてだ。
俺は答えなかった。答えずに、東へ身体を向けた。
火が来た。
床を這うそれまでの火と違って、腰の高さを薙いでくる。俺は東へ進む足を止めて、西へ――火の来た側へ、逆に踏み込んだ。
範囲の火は、出どころから遠いほど広い。寄るほど、薙ぎの幅は狭くなる。背中で貰いながら走るより、間合いを潰すほうが早かった。
前腕で顔を庇い、火の薄いところを割る。袖が焦げ、熱が布を抜けて皮膚まで通った。焼けた、とはっきり分かる熱さだった。それでも足は通っている。
「統真っ……!」
火越しに、声が割れた。火を張りながら、八神はまだ俺の名前を呼んでいた。
焦げた匂いの向こうで、間合いへ入った。手首を取って捻ると、掌の火が途切れる。体勢はもう崩してある。あとは首の後ろへ、三人と同じ加減を置くよりほかに、することは無い。
落とすための最後の一手が、他の誰のときよりも遅く出た。
「……とう、ま……」
崩れる身体を腕で受けて、床へ横たえた。火は、もうどこにも無かった。
西の奥で、床を蹴る音がした。
九鬼さんが、まっすぐ来る。二度目の加速は、最初のそれより明らかに鈍い。続けて乗った反動が出ている。足は速いのに、細かい調整が追いつかない走り方だった。それでも並の速さではない。遮るものの無い廊下で、線は一本しか無い。
「戻りや……! まだ戻れるんやで……! 鳴瀬くんっ……!」
声ごと、突っ込んでくる。
線の上から半身だけ外し、伸びてきた腕を抱えて、加速の勢いを縦へ逃がした。自分の速さに、自分で振り回される形になる。速い身体ほど、落とし方は選んでやらないといけない。畳んだ身体を床と平行に近い角度で受け、頭から着かせない向きへ返して、衝撃を殺しながら落とす。床へ着くまで、九鬼さんの手は俺の袖を掴もうとしていた。
打たせたのは、背中の広いところだけだった。
それでも、九鬼さんは喋るのをやめなかった。
「……なんで、や……」
床の上から、声が追ってくる。
「うちら、あんたの敵とちゃうやろ……。飯食うて、酒飲んで、しょうもない話で笑うた仲やろ……。なあ……こんなん、間違うとるよ、鳴瀬くん……。行ってもうたら、あかんて……戻ってきぃや……」
言葉は、最後まで俺へ向いていた。
俺は、答えなかった。
五人が、床にいた。
装備室の扉の前あたりに、固まって倒れている。誰の呼吸も続いていることだけは、一人ずつ目で確かめた。
ブリーフィングルームの扉口に、九条さんが立っていた。動く様子は無い。名を呼ぶ声も、そこからは来なかった。
東端のセキュリティ扉まで、遮るものはもう無い。
歩き出す。
「鳴瀬!」
背中に、隊長の声が当たった。
追ってくる足音は無い。最初からずっと、声だけが追ってきていた。その声との距離が、開いていく。
「戻れ! 話は、それからだろうが! ……聞いてんのか、鳴瀬!」
扉の認証へ手を掛けた。
「鳴瀬ェ!!」
開いた扉を抜ける。閉まりきる瞬間まで、声は続いていた。
エレベーターの箱に入り、地上階を押す。扉が閉じると廊下の全部が消え、あとには機械の駆動音しか無い。
降りていく箱の中で、焼けた前腕が今さらのように熱を持ちはじめた。
◇◆◇
地上階で、扉が開いた。
音が、無かった。一斉呼び出しが人を払ったあとの表向きフロアは、東側の受付カウンターまで無人で、明かりだけが点いている。
正面の遠くに、硝子の自動扉。その向こうが、もう暮れかけていた。窓の無い部屋と廊下を通ってくるあいだに、外は勝手に日が落ちていた。
隣の箱の扉が、開いたままになっていた。
誰も乗っていない。開いたまま、止まっている。
視線を戻すと、ホールの中ほどに、桐野が立っていた。
俺と表玄関を結ぶ線の上だった。どちらの箱で降りても正面になる場所に、小柄な身体がまっすぐ立っている。白い顔の中で、目だけがこちらを見ていた。
廊下の北側を走り抜けた影の正体を、俺はここで知った。
「鳴瀬先輩」
声は、最初から揺れていた。
俺は歩みを緩めずに近づいていく。距離が詰まっても、桐野は動かない。道を空ける気配も、追いすがる構えも無く、立った場所から言葉だけを出してくる。
「待って、ください。……お願い、します」
息を吸う音が、静かなホールにそのまま聞こえた。
「事情が、あるんですよね。……あるなら、皆に話してください。話してくれたら、隊は、絶対に力になります。隊長も、八神さんも、九鬼さんたちも……あんなふうに先輩を止めようとするくらい、皆……」
声が、一度つかえた。それでも続いた。
「私も、協力します。何でもします。できることなんて、少ないですけど……それでも。だから……一人で行くのは、やめてください」
言い切って、桐野は目を逸らさなかった。非戦闘員は退避が決まりの場面で、その決まりの外に、一人きりで立っている。声の震えは、最後まで消えていなかった。
俺は、足を止めた。
廊下では、誰の声にも止めなかった足だった。
手を伸ばしても届かない間合いで、桐野と正対する。上の階で九鬼さんたちと向き合ったときと、同じほどの距離だった。
俺は少しだけ声を落とした。この場に二人しかいなくても、この一人へだけ向ける声にした。
「……復讐だ」
桐野の肩が、揺れた。
「今回のことは、そのために動いた。だから――隊には、頼めない」
それ以上は、足さなかった。誰を、とも。いつから、とも。
桐野は、しばらく黙っていた。
黙って、言葉を探して、見つけた順に出してくる。
「……月城さんの、ことですか」
俺は答えなかった。答えないことが答えになるのは、分かっていた。
「恋人を、殺されて……その辛さは、私には分かりません。分かるなんて、言っちゃいけないと思います。……でも」
語尾が崩れ、また立て直される。声は大きくなり、消えかけ、それでも途切れなかった。
「でも、駄目です。復讐は……駄目、です。そんなことをしたら、先輩が……先輩じゃなくなる、って思うんです」
言葉を探す間が空いて、続きは、ずっと小さい声で来た。
「先輩と、影山さんと、月城さんは、親友だったんですよね。海で、話してくれたじゃないですか。三人で、ずっと一緒だったって……。親友同士が争うことなんて……月城さんが、望むはず、ないじゃないですか……!」
最後は、叫ぶ声になっていた。
正しかった。
どこにも、間違いは無かった。
俺は、何も返さなかった。反論はしなかった。する気が、無かった。
桐野のほうへ、歩き出す。
桐野は動かない。一歩も退がらず、道を譲りもしない。目だけが、近づく俺を追って揺れていた。
この言葉は全部、俺のために持って来たものだ。規定のためでも、隊のためでもなく。それが分かる声で、桐野は最初から喋っていた。
手が、先に動いた。
届く距離まで来て、俺は桐野を軽く抱き寄せた。片腕で、力は入れない。小柄な頭が、肩の下に触れた。
「俺がいなくても、桐野は大丈夫だ」
腕の中の身体は、動かなかった。腕も上がらず、声も出ない。
「……あとは、頼んだ」
それだけ言って、腕を解いた。
桐野の東側を回り、表玄関への直線に戻る。硝子の自動扉が開いて、外の冷気が流れ込んできた。
外は、冬の夕闇だった。吸い込んだ空気が、喉の奥まで冷えて通る。街灯が点きはじめた道の先、空の色は、藍から黒へ沈みかけている。
背後の建物から、硝子越しに、泣き声がかすかに届いた。
俺は足を止めず、振り返りもしなかった。
暮れきる前の空の下を、歩き続けた。
ストックが無くなってきたので、少しの間お休みしたいと思います。すみません。
そこまで期間は空かない予定です。一週間とか・・・くらいに抑えられたら。
引き続き、よろしくお願いします。>(´∀`(⊃*⊂)




