虚言
帯に掛けた指のすぐ横を、白い線が落ちた。
抜き身の小太刀だった。刃は、押さえ込まれた男の首へまっすぐ下りている。柄を握っているのは、透だった。
白の出どころは、足ごと動いていた。離れて立っていたはずの透が、槙島の背の北側を回り込んで、もう内側にいる。抜く動きは、見えていない。見えたときには、抜いたあとだった。
考えは、間に合っていない。手のほうが先に開いた。
掌のリングが滑り、拘束具が続いて落ちた。硬い音と革の鈍い音が、足元でひとつに重なる。転がった先は、目で追わなかった。
押さえられた男は、力の抜けた腕を床へ投げたままでいた。仰向けの顔の先には、下りてくる白と、その向こうの梁の暗がりがあった。
空いた手が、腰の後ろへ回る。膝立ちから片足へ体重を移し、立ち上がる勢いごと、刃の線の内側へ身体を入れた。打った背中が軋む。軋んだきり、置いていった。
鋼の噛む音が、天井の暗がりへ抜けた。
脇差の腹で、小太刀を受け止めていた。切っ先は、男の首の指二本ぶん手前で止まっている。合わせた刃越しに、透の重さが腕へ乗ってきた。押し込みは右腕一本のぶんで、それでも痺れは、受けた側の肩まで一息で届いた。
刃筋は、俺に向いていない。俺の後ろへ通っている。鍔元で受けて、角度で留める。滑らせれば、行き着く先は床の男のみ。
合わせた鋼の向こうで、フードの奥の目と合った。何も、読めなかった。読んでいる間も、なかった。
槙島は、組みついた形のまま動かない。朝霧の視線も、押さえられた男から離れていない。刃の線へ入ったのは、この部屋でひとり、俺きりだった。
押し返す。
刃と刃が離れるより先に、柄ごと透の腕を掴んだ。引き剥がすというより、運んだ。組みつく槙島の横を、二人ぶんの体重が東へ流れていく。
運ばれるあいだ、透は足を突っ張らなかった。抗いらしい抗いは、掴んだ腕のどこからも来ない。それでいて、小太刀を手放しもしなかった。
擦った靴の下で、散った帳面の紙が一枚、乾いた音を立てた。机の影が、目の端を流れていく。互いの足が、ほとんど同時に止まった。
足が止まってから、掴んだ腕を離した。離しても、透は下がらなかった。俺も、下がらなかった。
正面に、透がいた。
腕を伸ばせば、襟を掴み直せる距離だった。四年のあいだで、いちばん近い顔だった。フードの奥の目がまっすぐ俺を見て、黒い布の上がり下がりが、息の荒さを伝えてくる。
小太刀は、まだ透の右手にある。俺の脇差も、下げたまま手の中にあった。どちらの刃も、それきり動いていない。
小一時間前、この男の詰めで俺は助かっている。指図なしに噛み合った四人の並びへ、透は確かに入っていた。その並びの内側から、いまの一手は出た。背中を預ける形と、腕を掴んで止める形と、同じ夜のうちに両方が来た。
槙島は西で、男を押さえ続けている。朝霧も、据えた視線を外していない。二人とも、こちらへは来なかった。止める側にも、止められる側にも加わらず、その場から動かずにいる。訊いている間は、どこにもなかった。
場の張りが、視界の端で細く引いた。
身体は、透へ向いたままだった。
物音ひとつ、起きなかった。
槙島の腕が、抱えるものを失って床へ落ちた。厚い掌が、空のまま開く――朝霧の視線も、据えていた先を失くして宙で止まった。声は、どちらからも出なかった。
振り向いた。槙島の膝の下には、床しかない。
目は、そのまま床を探した。転がった椅子の陰。棚の際。錠の下りた引き戸の前。暗がりのどこにも、作業着は無かった。見上げたのは、いちばん最後だった。
北の壁の高いところ。三つ並んだ窓の、いちばん西の向こうに、隣の建屋の屋根が見えた。夜より薄い空を背にした稜線に、男が立っていた。
窓枠いっぱいの遠さでも、作業着の形と、太い腕の下がり具合は分かった。急ぐ様子も、惜しむ様子もない。こちらを、見てさえいなかった。
立ち姿が、向きを変える。
次の瞬きの先で、稜線の上には夜空しか残っていなかった。目は開けたままだった。見ている前で、いなくなった。
誰も、走り出さなかった。
高窓は明かり取りの幅しかなく、頭も肩も通る寸法ではない。北の引き戸は錠を下ろしたきりで、今夜、動いた音を聞いていない。南の鉄扉から回る数十秒と、屋根の上の一瞬は、初めから釣り合っていなかった。
朝霧が、床の上でわずかに姿勢を崩した。崩して、立ちはしなかった。槙島も、膝をついたままだった。
部屋が、急に広くなっていた。端から端まで二十メートルの、同じ床の、同じ暗がりのはずだった。動かない四人の上へ、天井までの高さがまるごと余っている。
俺は、透へ向き直った。
向き直った先で、透も俺を見ていた。逸らしはしない。かといって、口も開かない。
訊くことは決まっていながらも、最初のひと声が出るまでに、呼吸をいくつか使った。
「……殺すのが、お前らの流儀なのは知ってる」
声は、思ったより平らに出た。張る必要が、なかった。遮るものは、二人のあいだに何もない。
「その流儀を、今夜はお前らのほうが曲げて通してきた。押さえて、動けなくして、引き渡す。……そこまで、通ってたはずだ」
あの線は、話し合いで引いた線だった。引かせたのは、俺だ。今夜ここまで、線は一度も割れていない。守らせてきたのは、そっちも同じだった。
透は、何も返さない。布の下で、息がまだ整いきっていない。
「立って暴れてる相手なら、まだ分かる。あれは、終わってた。動けなくして、あとは嵌めて縛るところまで来てた。……その相手に、線を割ってまで、お前は刃を出した」
順番が逆なら、まだ話は通る。手が付けられないうちの一刀なら、流儀の内だ。終わってから抜くのは、流儀でも何でもなかった。
小太刀の切っ先が、下げた位置で浅く揺れた。柄を握る指は、解ける気配を見せない。
「……なんで、殺そうとした」
答えは、すぐには来なかった。
布の下で、息が鳴っている。夜通し聞いてきた減らず口の調子は、その息のどこにも残っていない。
沈黙は短く、溜めの長さでもなかった。息を整えるのにも足りない間で、透は口を開いた。
「……まゆりを、殺したからだよ」
低い声だった。語尾の崩れがいつも通りなだけで、高さも速さも、いつもの透のものではなかった。言うというより、吐いた息にそのまま言葉が乗っていた。
透がその名を、自分のやったことの理由として俺へ向けるのは、四年で初めてだった。
まゆり、の三文字から先が、すぐには繋がらなかった。殺した、と続いた言葉の意味が、一周遅れて届いた。届いてから、耳の奥で自分の脈が数を増やした。
「……いつの話だ?」
訊いた声が、掠れた。
返事は、来なかった。
「どこでだ? どうやってだ?」
透の目は、動かない。マスクの縁で、息の数が増えていく。付け足しは、ひとつも来なかった。
「黙るくらいなら、最初から言うな!」
布が、短く動いた。動いて、声にはならなかった。
槙島も朝霧も、床の側から動かなかった。口を挟む声は、どこからも出ない。
意味は通り、言葉も届いていながら、そのうえで何も返ってこなかった。
口の中の乾きを、飲み下した。
「……その言葉には、何も付いてない。日付も、場所も、やり口もだ」
自分の声を、どこか遠くで聞いていた。
「……俺は、採石場で見てる」
言葉が、そこで重くなった。重くなったまま、止めなかった。
「まゆりの傍に、あの日、誰が立ってたか。……この目で見たものと、いまのお前の言葉は、どこも噛み合わない」
フードの奥で、目が動いた。言葉は、続かなかった。
「――虚言だ」
言い切った。
言い切った声は、高い天井へ昇って、降りてこなかった。
その先へ継ぐ言葉を、俺は持っていなかった。持っているつもりの続きが、口のどこを探しても見つからない。促す側だった口が、自分の番で動かなくなっていた。
透も、言い返さなかった。下げた小太刀も、フードの影も、立ち位置ごと動かないままだった。
静けさの中で、俺の息より透の息のほうが、まだ速かった。数えるつもりもなく、耳がそれを拾い続けている。息の間隔が少しずつ延びていくあいだも、布の奥の視線は俺から外れなかった。
沈黙が、まっすぐ積もった。吊り明かりの低い唸りまで聞こえる静けさが、腕一本ぶんの距離に詰まっていた。降ろした二本の刃が、その底で明かりを拾っている。切っ先の先で、床板の継ぎ目が暗がりへ延びていた。広間からも、廊下からも、物音は届いてこなかった。
沈黙を先に降りたのは、透だった。
「……統真」
呼ぶ声は、いつもの調子へ半分だけ戻っていた。半分は、戻らないままだった。
「こっちへ来い」
それきりの誘いだった。条件も理由も付かず、虚言だと言い切った俺への言い返しでもなかった。
拒む言葉も、受ける言葉も、俺は出さなかった。
透は、返事の来ない間を長くは待たなかった。背が向く。歩き出した右手の内で小太刀が鞘へ戻り、乾いた音が梁の高さで消えた。
槙島が、立ち上がった。
空いた床を見下ろし、何も言わないまま鉄扉のほうへ歩き出す。朝霧が続いた。歩幅の違う二組の足取りが、吊り明かりの下を順に抜けていく。俺の横を過ぎるとき、二人とも目だけをこちらへ寄越した。掛ける声は、どちらからも出なかった。視線は短く、足は止まらなかった。
槙島の足音が、敷居で金属を鳴らし、向こう側の床の音に変わった。朝霧は、扉の脇で足を止めた。
鉄扉の向こうから、複数の足音が近づいて、止まった。数は、二つか三つ。廊下を踏む音の硬さは、聞き覚えのないものだった。短いやりとりが、低く交わされる。中身までは、届かない。足音は、じきに広間のほうへ散っていった。
俺は数歩、部屋の中ほどへ出て、出ていく背中を見送った。自分の靴の音だけが、高い天井へ抜けて消えた。下げた脇差は、そのまま手にあった。
西寄りの床では、リングと拘束具が、明かりの端に転がっている。誰の足も、そちらへは向かわなかった。
広い床には、散った帳面と、倒れた椅子が残っている。音のするものは、もう扉の向こうにしかなかった。
透は、すぐには出なかった。
鉄扉の敷居の手前で足が止まり、フードの影が浅くこちらへ戻った。
「――返事は、預かっとく」
言い置いて、影は敷居の外へ出た。朝霧が、最後に続いた。三人ぶんの足音は、間隔を揃えないまま廊下の奥で薄れていった。鉄扉は、開ききった角度で止まっていた。廊下の冷えが、開口から静かに入ってきていた。
俺は、答えなかった。




