教祖
手の中の最後の一つを袋へ戻して、俺は鉄扉に手を掛けた。
重さのわりに、音は立たなかった。蝶番が鳴るより先に、隙間から冷えた空気が下りてくる。押し切って、一歩入った。
頭上が、抜けた。
癖で下げていた頭の上に、何もない。腕の届く高さを這っていた天井が、見上げる暗がりまで引き上がっている。天井板はなく、太い梁と古いレールの影が、高いところを渡っていた。明かりは部屋の中ほどに吊られた数灯きりで、広間の作業灯より暗く、廊下の明かりよりは明るい。四隅と天井のあたりは、光の外に沈んでいる。
北の壁の高いところには、小さな窓が三つ並んでいた。夜気が、そこから細く下りてきている。この建物へ押し入ってから、外へつながる気配に触れたのは初めてだった。
透が続いて入り、折れの角に残っていた槙島と朝霧が、間を置かずに続いた。背中側の廊下は、もう何も鳴らさない。
横に長く、奥行きの浅い部屋だった。遮るものは中央の古い事務机と、西の壁際に積まれた木箱と棚くらいしかない。北面の西寄りでは、大きな引き戸が錠を下ろしたまま閉じている。足音は上へ抜けて、戻ってこなかった。端から端まで、目が素通しに通る。
机の向こうの椅子に、男がひとり座っていた。
五十前後。作業着に近い簡素な上下で、袖から出た腕は日に焼けて太い。帳面を閉じた手は指の節々が固まっていて、書き物より力仕事の年数を思わせた。祭服も、飾りもなく、上座に座ってさえいない。頂点という言葉から思い浮かべていたどの姿とも、目の前の男は重ならなかった。
男は逃げず、立ちさえしなかった。入ってきた四人へ順に目をやり、客を迎える顔で浅く頭を下げた。
「夜分に、ようこそ。……冷えたでしょう。ここは、天井が高いものですから」
低く、平坦で、柔らかい声だった。俺は距離を保ったまま問う。
「〈黎明神教〉を率いているのは、あんたか?」
「わたしは、皆さんのお世話をしているだけですよ。家で言えば、雨漏りを見て回るような役です。放っておくと、傷みは家ごと広がりますから」
「表の三十四人に、何をした?」
「何も。皆さん、目覚めの近い方たちなのです。まどろんでおられる御方が、じきにお目覚めになる。その支度を、ご一緒しているだけです」
答えては、いる。問いを外していないし、はぐらかす色もない。それでいて、集めた数も、目的も、この男が何者なのかも、何ひとつ手元に残らなかった。渡らないのではない。男の中では、いまので全部、答えたことになっている。成立していたのは、会話だけだった。
透が、俺の横まで出た。
「……お前か」
短い声だった。誰なのかを尋ねる声ではなく、長く探していた棚に行き当たり、番号を確かめる声だった。
男は透へ、俺に向けたのと同じ目を向けた。
「はい、わたしです。……お名乗りは、けっこうですよ。どなたであっても、することは変わりませんから」
初めて見る相手へ向ける声では、なかった。その引っかかりは一度きりで、続きを探すより先に、場が動いた。
合図は、どこからも出なかった。四人が横へ開く。
この部屋では、それができた。廊下で縦に並ぶしかなかった四人が、机を遠巻きに、扇の形へ散っていく。槙島が西、俺が正面、透と朝霧が東を締める。囲いが閉じる前に――椅子が、空いた。
立ち上がる動きも、駆け出す足音もない。男は西の棚の前に、あいだの床を全部飛ばして立っていた。
槙島が詰める。詰め切るより早く、棚の前は空になった。男は北東の隅、光の届かない暗がりに立っている。
「お怪我のないように。……床が、ところどころ傷んでいます」
声だけが、椅子にいたときの調子のまま続いていた。
囲いを組み直す。組み上がる端から、男の居場所が変わる。床でも、隅でも、視線の通る先なら、そこはもう男の足場だった。机の向こうも、同じだった。四人で塞げる幅より、この部屋で目の通る先のほうが多い。広間の広さは、数で押してくる広さだった。ここでは、広いことがそのまま、男の跳べる範囲になっている。廊下では、見えないことが俺たちを止めた。ここでは、見えることが男を放している。
力は、ひとつきりだった。圧も、熱も、水も来ない。見えている場所へ移る。それだけを、男は息継ぎもなく繰り返した。廊下の連中は、それぞれの一系統を大振りに振るった。この男は、同じ一つを止め処なく回し続ける。系統の珍しさではなく、回数に、桁の違いが出ていた。追う足音は上へ抜けていくのに、男は、着地の音すらほとんど立てない。
朝霧の縛りが、一度はかかった。男の膝が浅く沈む。次に目へ入ったときには別の場所で、何も引きずらずに立っていた。視線が切れれば、縛りは緩む。跳ばれるたび、朝霧は最初からやり直しになった。
透は、間合いへ入れていない。あの無効化は、目で捉えて、そのうえで数メートルの内へ寄って、ようやく立つ。寄る前に、男がいない。四人のうち唯一この男を止められる手が、距離の側から封じられていた。
一度、槙島の正面に男が現れた。強化の乗った拳が振られる。振り抜く先から男が消え、拳の線だけが残った。線の先に、俺がいた。上体を流して外す。誰かの足が椅子を倒し、机の帳面が床へ散った。詰めるほど、俺たちは互いの線を塞ぎ合う。男が抜けた瞬間、塞いだはずの線は、そのまま味方へ向いた。
追いながら、目だけは拾い続けていた。
消える側と、現れる側。空気が動くのは、現れる側が先だった。棚の前へ男が立つとき、その場所の空気が先に押し退けられ、積まれた紙の端が揺れる。消えた側は、そのあとで音もなく閉じた。行き先から、現象が立ち上がっている。一度や二度ではない。跳ばれるたびに同じ順序で、風は行き先から立った。
出どころが、術者にない。
今夜、広間と廊下で確かめ続けた偏りと、同じ向きだった。篠塚未央のときに覚えた感触は、末端の信徒でも、奥の世話役でも崩れなかった。頂点のこの男まで来て、まだ崩れない。系統も桁も違うのに、ずれる側だけが揃っている。
個体差では、ない。今夜のどこかでまだ息をしていたその言い訳が、ここで終わった。理由には、相変わらず一歩も近づけない。近づけないまま、疑いが外れた。確かめられたことが、ひとつ増えた。手は、まだ届いていない。
囲いを崩されながら、俺の手は一度、袋の口へ動いていた。動いて、宙で止まった。嵌める相手が、腕の届くどこにもいない。
確保の段取りを、頭の中で前へ送る。倒す。鎮静剤を打つ。リングを嵌める。拘束具で縛る。〈裏三課〉で叩き込まれた並びだ。並べ直して、行き当たった。どの工程にも、頭に同じ一語が付いている。近づいて倒す。近づいて打つ。近づいて嵌める。触れる距離が立たなければ、ひとつも始まらない。
腰の鎮静剤が、最初に落ちた。針は、届く腕がなければ、ただの金物だ。
袋の最後の一組は、使う使わない以前の話だった。惜しんで残した一つが、いまは布越しの硬さでしかない。手順が破れているのではない。手順の立つ床そのものが、この部屋にはなかった。道具が足りないんじゃない。道具のところまで、誰ひとり届いていない。
壁一枚向こうの廊下では、最後まで数の話をしていた。足りるか、足りないか。ここでは、その勘定がまだ始まってもいない。
背後の気配は、気配になった時点で手遅れだった。
肩口を掴まれる。厚い手だった。抗う間もなく、開いたままの鉄扉の面へ、背中から打ちつけられた。肩甲骨が鉄板を鳴らし、息が詰まる。膝が落ちかけ、扉の縁を掴んで残った。骨は、いっていない。確かめられたのは、そこまでだった。打った背中は、息を吸うたび鈍く引きつれる。動けないほどではない。動くたび、忘れさせてもくれない。
男はもう離れた床に立っていて、追い打ちは来なかった。倒した相手を見る目でも、勝ちを数える目でもない。傾きを直し終えた棚を眺める顔で、こちらを見ている。
痛みで、体が止まった。止まったぶんだけ、頭が手前へ戻った。
掴まれる寸前、あの背後には、たしかに前触れがあった。音でも、影でもない。部屋に張っていた圧が、来る前に、すっと引いたのだ。今夜ずっと肩へ乗っていた場の重さが、息ひとつ分だけ軽くなって、それから男が現れた。
次の跳びで、確かめた。男が消える間際、同じ沈みがある。張った空気が先に一拍だけ緩み、男の居場所が変わる。理屈は、何も見えない。見えたのは、来る前に一拍ある――それだけだった。
二度あった。二度は、三度目を約束しない。それでも、この足で追い続けるよりは、分のいい賭けだった。
万全の脚なら、こんな読みには頼らない。現れた先へ速さで食らいつく取り方を選べたはずだ。三十四人と四人を通ってきた足は、もうその速さを出せない。残っているもので組むなら、先回りしかなかった。
跳び先は、まるきりの無作為でもない。目の通る場所は多くても、身を置いて具合のいい場所は限られる。西の棚の前。あの陰は、こちらの視線を一度切れる。今夜、男は二度、そこを使っていた。
場の圧が、沈んだ。
考えるより先に、床を蹴っていた。男のいる場所ではなく、西の棚の前へ。外れれば、また扉まで戻されるだけの一手だ。当たるかどうかは、着くまで分からない。それでも、足は緩めなかった。緩めた瞬間に、この賭けは賭けですらなくなる。
棚の前へ滑り込むのと、そこの空気が押し退けられるのが、ほとんど同時だった。
目の前に、男が現れた。
息の届く距離だった。男の目が、わずかに開かれる。今夜、この部屋でまだ一度も起きていなかったことが、起きていた。跳んだ先に、人がいる。
間近で見る顔には、汗が浮いていた。息も乱れている。体のほうは、齢相応に疲れる体だった。目だけが、疲れていない。困りごとの続きを眺める目のまま、俺を映している。
俺は掴みにいかなかった。掴める体勢でもない。体を棚と男の間へ割り込ませ、次の行き先を目で選ばせない。取れるものは、それだけだった。
男の反復が、途切れた。
その途切れに、透が来た。目へ入ったときには、もう数メートルの内側に立っていた。小太刀にも、銃にも触れないまま、ただ立つ。あの間合いの内では、力は立たない。俺はそれを、廊下で見ている。
沈みが、来ない。
部屋の圧は張ったままだった。男は床を踏んで、立ち続けている。廊下の部屋で熱が急に絶えたときと同じ静かさの中、男が立ったまま動かない、それだけのことが、いまはもう異様に見えた。
俺は男の正面から動かずにいた。時間を作る。この位置の仕事は、それが全部だった。
槙島が、正面から入った。強化の乗った体で組みつき、棚と引き戸の側へ押し込んでいく。拳を殺したあの低い天井は、ここにはない。それでも槙島は、振らなかった。押さえるための組みつきのまま、男を床へ落とす。
西は棚、北は錠の下りた引き戸。床の上の行き先は、そこで尽きていた。二十メートルあった男の足場は、この隅の、畳一枚分まで狭くなっている。
男の背が床へ着く。朝霧の視線が、初めて切れないまま続いた。肘と膝から、動きの速さが抜けていく。男は身をよじった。日に焼けた太い腕が浮いて、槙島の固定は、それでも外れなかった。朝霧は動かない。瞬きさえ惜しむ据え方で、視線を通し続けている。
時間を作った俺から、跳びを止める透、押さえる槙島、縛りを続ける朝霧まで、指図の声は初めから終わりまで、一度も出なかった。廊下で二度あった合い方の、その続きだった。助かった、と思う。そう思った自分をどう扱うかは、今夜も決めないままにした。
押さえ込まれても、男は変わらなかった。
「床は、冷えますよ。……手短に、なさるといい」
息は上がっている。声の高さは、机の向こうで客を迎えたときのままだった。睨み返しもしない。俺たちの誰にも敵意らしいものを向けないまま、男は、力の抜けていく自分の腕を静かに眺めていた。
俺は、男の傍らへ膝をついた。帆布の袋へ手を入れる。布の底で、硬いものが指へ触れた。
最後の一組は、首輪型のリングが一つと、拘束具がひと揃いだった。廊下の突き当たりで、使わないと先に決めた一つだ。奥に何がいるかも知らないまま残した判断は、結果だけ見れば合っていたことになる。合っていたことを、喜ぶ気は起きなかった。読み切って残したわけじゃない。残した先に、たまたま、これがいた。
机の向こうで見た顔と、いま床にある顔は、同じ顔だった。名前も、素性も、何ひとつ聞き出せていない。それは、後の誰かの仕事でいい。ここで動きを止める。今夜の俺の仕事は、そこまでだ。
使える距離に、道具はいま、来ている。
手順の並びは、もう気にしなかった。朝霧の縛りと槙島の重さが乗っている、この今のうちに、動きから固める。針は、そのあとでいい。
男の腕は、力の抜けた重さで床にある。嵌めて、縛れば、終わる。押し入ってから、終わりまでの手数が数えられたのは、これが今夜で最初だった。あとは、ふた手。
男は、抗わなかった。抗わないまま、目だけは変わらず、こちらの手元を見ている。
リングを左の掌へ載せ、拘束具を引き抜いた。
革の帯へ、指を掛ける。




