猶予
朝、エレベーターの区画を抜けると、廊下の突き当たりの扉越しに、暖房の送風音が先に聞こえてくる。
執務室は乾いた熱で満ちていた。コートを椅子の背に掛けて、端末を立ち上げる。隣の席では九条さんがもう画面に向かっていて、九鬼隊の島からは打鍵の音と低い話し声がしていた。
そういう朝が、続いた。
日中は割り振られた案件で埋まる。聞き込みに出て、戻って、報告を打つ。冬の外光は日ごとに詰まって、打ち終える頃には、窓の外はもう街灯の色になっている。
当直の順番も、そのあいだに回ってきた。仮眠室の毛布の冷たさから夜が始まり、明け方に引き継ぎを書いて、いったん帰って、昼からまた出る。順番が来れば誰かが座る席に、その週は俺が座った。
暖房は朝いちばんが強い。昼に誰かが弱めて、夕方にまた戻る。誰が触っているのかは、知らない。外回りから戻る頃には島の照明が半分に落ちて、窓が黒くなり、部屋の中を映しはじめている。
上へ送った事案の話は、島に上がらなくなっていた。誰かが避けているわけじゃない。片づいた場所へ次の仕事が届いて、隊はそれを順に開けているだけで、手を止めている者はどこにもいなかった。
俺も開けながら、前の中身をまだ覚えているのは自分くらいか、と思う瞬間が何度かあった。口にはしなかった。
どの日も、終わってみれば同じ形をしていた。同じ形の日を、俺は初めて、数えるように過ごしていた。
その何日目かの朝、九条さんが振り分けの綴りを島の中央に置いた。
「今週の新規です。発現がらみが、また増えていますね。先月の同じ時期より、はっきり多い」
「師走だなあ。駆け込みで能力が出るわけでもあるまいによ」
隊長が笑って、綴りは四つに分かれた。増えた理由の話は、誰もしない。理由を調べるのは実働の仕事じゃなく、増えたぶんを回すのが実働の仕事だからだ。
俺の取り分は三件だった。机に置いて、上から開いていく。
どれも、開けば手順は同じだ。現場、聞き取り、確保か保護、報告。終わりまで行けば綴りは閉じて、上へ渡っていく。渡った先のことを書く欄は、書式のどこにもない。
昼過ぎに、二つ隣の席から声が飛んできた。
「ねー統真、引き出しのうさぎ、最後に外の空気吸ったのいつ?」
「吸わせる必要がない」
「あるよ! ぬいぐるみだって換気しないと湿気るんだから」
「湿気たら考える」
「出た、統真の塩メンテ! じょーくんも言ってやってよ、これ飼育放棄だよ」
「私に振らないでください。……ですが八神さん、他人の引き出しより、あなたの机の未処理の山のほうが湿気は深刻だと思いますよ」
「うぐ」
八神が机に突っ伏して、九鬼隊の島から短く笑いが漏れた。俺は引き出しを開けなかった。開けなくても、うさぎが奥の定位置にいるのは分かっている。
夕方、視界の端で桐野が席を立った。
島を回り込んで、こちらへ来る。書類は持っていない。用件のある歩き方だった。
机まであと数歩というところで内線が鳴って、取ったのは桐野だった。はい、確認します、と応じながら自席へ戻っていく。受話器を置いたあとは、こちらを見ないまま画面に向かった。
来かけたことには気づいていた。気づいていて、俺は呼び止めなかった。
定時が近づいた頃、隊長席から声が上がった。
「おーい、年末年始の当番割るぞ。希望のある奴は今日中に言えよ」
毎年同じ、割り振りの季節だった。
「あたし大晦日はやだ!」
「はいはい。九条は?」
「例年どおりで構いません」
「桐野は初めてだったな。当直っつっても、大半は書類番だ」
「はい。どこでも大丈夫です」
「鳴瀬は?」
「どこでも入ります」
返事が来るまでに、わずかな間があった。
「そうか。なら調整で使うわ」
それだけだ。紙に何か書き込んで、隊長は次の話へ移った。今の間に意味があったのかは分からない。気のせいで済む長さで、済ませてほしそうな長さでもあった。
話は年明けの体制まで延びた。八神が休みの希望を三つ出して二つ却下され、桐野が決まったぶんを手帳に書き留めていく。島の空気は、年の瀬のそれになっていた。
聞きながら、思い出していたのは割り振りじゃなかった。いつだったか、この人は俺に、復讐を目的の場所へ置くなという意味のことを言った。正確な言い回しはもう思い出せない。意味だけが残って、抜けない。
受け取ったとき、俺は答えなかった。黙っていられたのは、あの頃の俺に、破る機会がなかったからだ。守るも、破るもない。呑み込むだけなら、いくらでもできる。あの人がそれを口にしたときの顔は、いま思い出しても、笑っていなかった。
あれは正しい。今でもそう思っている。間違いだと思えたなら、ずっと楽だった。正しいと分かっているぶん、いま自分がそこからどれだけ離れた場所を見ているのかも、嫌でも測れる。
俺には、断ると決めた話が一件、庁舎の外にある。決めたはずの人間が、あの戒めからいちばん遠い場所のことを考えたことがある。年末の当番の希望を訊かれる、この島に座ったままで。
隊長は割り振りの紙をキャビネットの上へ置いて、九鬼隊の島へ何か言いに行った。笑い声が返ってくる。いつもの執務室だった。
考えた事実は、もう消せなかった。
その日の定時明け、コートを取って扉へ向かった。廊下へ出たところで、後ろから足音がついてくる。
「鳴瀬先輩、あの」
「今日の分の報告は上げてある。引き継ぎの残りは、明日九条さんに確認してくれ」
「……はい」
短くない沈黙のあとで、桐野は言った。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
エレベーターの扉が閉まって、一人になる。
言いかけたのが引き継ぎの話じゃないことくらい、分かっていた。分かった上で、訊かれる前に答えを置いて塞いだのは俺だ。そういう閉じ方は、教えた覚えのない閉じ方だった。
地下へ降りるあいだ、この数日の勤務を振り返っていた。
手を抜いた者はいない。滞った案件もない。増えたぶんまで含めて、仕事はすべて正しく回った。
正しく回った日々のどこからも、あの言い分を崩せる材料は出てこなかった。探しに行ったつもりはない。ただ、転がっていれば拾う気で四日いて、拾える物は落ちていなかった。
断る。それは変わっていない。
変わらない決意を載せている床のほうが、日ごとに薄くなっていく。
◇◆◇
部屋は冷えていた。
玄関の扉を閉めると、外の音が廊下一枚ぶん遠くなる。靴を脱ぎ、暖房を入れて、コートを掛けた。袖口のボタンを外す。その数手で、職務の側の一日が終わる。
窓の外には、夕方の色がまだ薄く残っていた。掃き出し窓の下は敷地の駐車場で、いつもの区画に、停めたばかりの自分の車が見えている。
六畳の部屋には、座る場所と寝る場所くらいしかない。片づける物も点けるテレビもない部屋は、こういう夜に逃げ込める作業をくれなかった。
ローテーブルの前に座る。考えることは、決まっていた。
断る理由は二つある。あれは、まゆりを殺した男のいる組織だ。超能力で罪を重ねる者たちの組織でもある。どちらも事実で、あの組織に入らない理由として、今も揺らいでいない。
揺らがないまま、当たっていない。
持ちかけられたのは所属じゃなかった。一つの作戦への、一度きりの加勢だ。入らない理由をいくつ積んでも、入れという話がそもそも来ていない。積んだものは、ぶつかる先を持たずに立っている。
なら、行かない理由はどれだ。
犯罪組織との共闘は、それ自体が職務に反する。これは使えるはずだった。だが、この数日で俺が確かめてしまったのは、その職務の枠が確保から先を持たないという事実のほうだ。
守り抜いても、俺の目当てには一歩も近づかない。その枠を守れという理屈は、俺に対してすでに重さを失い、根拠はもう擦り減っていた。この誘いに当たる理由は、ほかに見つからない。見つからないことに、俺はもう驚かなくなっていた。
そこへ、隊長の戒めが重なってくる。
復讐を目的の場所へ置くな。置けば、いつか職務ごと自分が壊れる。意味としては、そういう話だったはずだ。
守るのは難しくない。この部屋で寝て、明日も庁舎に出て、回ってくる仕事を順に片づけていればいい。それで戒めは守られる。守られたまま、まゆりの件には、おそらく一生届かない。
届こうとするなら、示されている道は今のところ一本きりだ。その一本は、戒めを踏み抜いた先にしか延びていない。守れば届かず、届こうとすれば破る。あの人が間違っているなら簡単だった。間違っていない。届きたいと思うことも、間違いだとは思えない。
窓の外から色が抜けきって、部屋が暗くなっていた。立って、照明を点ける。
座り直したとき、ローテーブルの上で私用の端末が短く震えた。
手を伸ばせば届く位置にある。伸ばして、画面を点けた。差出人の表示はなく、本文は二行だった。
『今夜22時』
『真間野区 旧道沿い 資材置き場前』
それだけだった。
宛名も署名もない。来いとも書いていなければ、気が変わったら、の一言もない。返信を求める文言も、どこにもなかった。
真間野区。柏木川を渡ってすぐの、あの教団の施設がある区だ。合流地点は拠点のそばだと分かる。分かるのはそこまでで、作戦が何をどうするのかは、一行も書かれていない。
画面を見たまま、しばらく動かなかった。
説得される支度をしていた、と気づいたのは、そのときだ。
来い。知りたいだろう。枠の中では届かない――そういう言葉が並んでいれば、一つずつ潰せた。潰した先で、断れた。
この二行は、押してこない。断りは、押してくる言葉があって初めて形になる。数日かけて用意しかけていた「断る」は、ぶつかる相手を持たないまま空を切った。
行くか行かないかは、まだ選べる。断れるか断れないかは、もう選べなくなっていた。断りの言葉の置き場が、初めから用意されていなかった。
行かなければ、届かない。まゆりの件へ近づける機会は、今夜、この二行のほかにない。
決めるまでは、長くなかった。
この作戦に限って、共闘する。所属は移さない。〈影環〉に入るわけでもない。今夜の一件が終わったら、この線は切る。
一度だけ、という条件を自分の内側に書き込む。書き込めば通してしまえる手続きを、自分で自分に対して踏んでいる。その自覚はあった。自覚ごと、条件は本物のつもりだった。一度で終える。そう決めた。
隊には知らせない。それも決めた。
立ち上がって、クローゼットを開ける。職務の外へ持ち出す物を出して、支度を済ませた。照明を消すと、窓の下に外灯の明かりだけが残った。
部屋を出た。
◇◆◇
外灯の下で車に乗って、エンジンをかける。行き先は、乗る前から決まっていた。ナビに入れて、駐車場を出る。
夜の道は空いていた。葛尾区を北へ抜けるまでは、四日前になぞった道筋と重なっている。堤防が見えてくる手前、あの夜は川沿いの管理道へ折れた。今夜は折れない。そのまま橋へ上がる。
柏木川を渡った。対岸に、住宅地の灯りが低く広がっている。指定された場所は、あの灯りの奥だ。




