呼び出し
北へ向かう道は、進むほどに灯りが減っていった。
羽鳥区の住宅地を抜けて、葛尾区へ入る。庁舎へ通う朝と同じ道を途中まで重ね、いつも東へ折れる交差点を、今夜は直進した。ここから先は、走ったことのない道だ。
対向車のライトが間遠になる。沿道の店はシャッターを下ろし、自動販売機の白い光が等間隔に流れていった。信号は青が多い。夜の道は、距離のわりに速かった。
フロントガラスの右上に、欠けた月が低く出ている。追い越す車はなく、ついてくる車もない。バックミラーは、ときどき確かめた。
この三日、勤務はいつもどおりに回った。当番があり、書類があり、朝が来て夜が来た。管理簿から消えた名前を、隊の誰も口にしなかった。俺も、しなかった。
メールに、返信の手段はなかったのだ。行くとも行かないとも伝えないまま指定の日が来て、日が暮れて、俺は車を出した。
赤信号で停まるたび、手が確かめに行く。腰の後ろ、上着の内側。順番も、指を当てる場所も、確保に出る夜と同じだった。
職務じゃない。今夜のことは、どの記録にも載らない。載らない夜のために、手が職務の手順を踏んでいた。
待ち伏せがあるなら、場所は絞られる。車を降りる瞬間。堤防で視界が切れる登り口。それから、河川敷そのものだ。相手の人数が読めない以上、先に高い場所から全体を見る。潰せる想定はそれで潰せる。潰しきれない分は、そのまま先へ送った。
相手は指名手配の重要犯罪者で、こちらは一人。分の悪さは、数えるまでもない。
警戒は尽くす。尽くして、それでも最悪の目が出るなら――その先を、俺は考えていなかった。考えていない自分を、変だとも思っていない。
なぜ行くのか、と自分に訊いた。
確かめるためだ、と答えが出かかって、その先で止まる。確かめて、どうする。透の口から何を聞くつもりで、聞いたあと、俺はあの男をどうする気でいる。問いは形にならず、ならないうちに、車は葛尾区を縦に走り抜けていった。
隊にも、桐野にも、伝えていない。伝えれば止められる。止められると分かっているから、伝えなかった。その順番でものを決めた自覚は、ある。
北へ寄るほど建物が低くなる。倉庫の並ぶ一帯を過ぎると、視界の先に、暗い帯のかたちで堤防が横たわった。時計を見る。指定の時刻まで、まだ余裕があった。早く着いて、先に場を見る。それも確保の夜と同じ段取りだった。
カーナビの音声が、目的地への到着を告げた。堤防に沿って、舗装の管理道が東西へ延びている。街灯が等間隔に立ち、そのあいだが暗い。指定の場所の少し手前で、路肩の余地へ車を寄せた。
エンジンを切ると、入れ替わりに川の音が上がってきた。低く、切れ目のない音だった。
降りて、堤防の上に立つ。管理道からは、河川敷の草地が見下ろせた。街灯の光は斜めに落ちて、草地の真ん中までは届いていない。
地形は、上からよく読めた。草地に遮蔽はなく、伏せられるのは水際の葦くらいのものだ。降り口の階段は二つ。西寄りと、東寄り。挟むならその二つを使うしかないが、どちらにも人の気配はなかった。待ち伏せに向かない場所を、わざわざ選んである。
その草地の暗がりに、人影があった。動かず、待っている。
三つ、だった。
◇◆◇
西寄りの階段は、車を停めた場所のすぐ先にあった。コンクリートの段を降りて、草地へ入る。靴の下で、霜の降りかけた草が硬く鳴った。
息が薄く白む。街灯の光の外は暗く、目が慣れるまでのあいだ、三人はただの影だった。
三人は、川を背にして立っていた。数も立ち位置も、堤防の上から見えたとおりだ。俺が降りてくるのを、動かずに待っている。
十メートル余りを残して、足を止めた。
真ん中の一人が、正面からこちらを向いている。長身で細身、肩に黒いスカーフを巻いていた。街灯の明かりは途中で弱まり、顔の細部までは照らさない。それでも、見間違えようがなかった。
透。
左後ろ、水際寄りに、がっしりした長身がひとつ。正面から打ち合ったときの膂力を、俺の腕はまだ覚えている。槙島だ。右後ろの細身は朝霧。あの夜、俺の身体を鈍らせた力の主だ。得物は、誰も出していなかった。
身体が先に構えを作った。重心が落ち、右手が腰の後ろへ動きかける。……動きかけて、止めた。誰も動かない。川の音が、三人の向こうで低く続いている。
「よう、統真」
声は、夜の川原でもよく通った。
「来ねえかもと思ってたけどよ。……いや、来るか。お前だもんな」
俺は答えなかった。口調は、〈ゲート〉の廊下で呼び止められたときと何ひとつ変わらない。変わらないまま、立っている場所が敵のものになっていた。
「用件を言え」
「せっかちだねえ、相変わらず。……ま、いいわ。単刀直入にいく」
笑いの混じっていた声から、笑いが抜けた。
「統真。お前、今の仕事を何年やった? その中で、腑に落ちる形で終わった事案が、いくつあった?」
「……」
「確保まではやれる。お前は強えから、確保までは誰よりやれるだろうさ。で、その先だ。犯人がなんで豹変したのか。どこへ運ばれて、どうなったのか。訊ける窓口、あるか? ねえだろ」
「何の話だ」
「届かねえ、って話だよ」
透の立ち位置は、最初から動いていない。動かないまま、言葉のほうが職務の内側へ入ってきた。
「〈影環〉が絡んだ案件はな、必ず上から線が引かれる。深追い不要、上層管轄、実働隊の手を離れて、それっきりだ。手元に残るのは確保の記録だけ。……身に覚え、あるだろうが」
「お前に言われる筋合いはない」
「ねえな。ねえけど、事実だろうが」
否定の言葉を、探した。探しに行った先にあったのは、俺自身の記憶だった。捜査継続を上げる前に、理由のない電話一本で止められた半年前。言うことを全部言って、何ひとつ動かなかった三日前の卓。名前は、管理簿から一行で消えた。
どの場面でも、誰も怠けていなかった。誰も嘘をつかず、筋はどこも通っていた。それでも事案は手を離れ、戻らなかった。
反論の形に、ならなかった。透の言い分を裏づける材料なら、俺の記憶にいくらでもある。
「黙るってことは、あるんだな」
「……」
「言っとくが、お前が悪いって話じゃねえぞ? 隊の連中が怠けてるって話でもねえ。枠がそう出来てんだ。枠ん中にいる限り、お前は豹変した犯人を捕まえて、届かねえ報告を書いて、それで終わる。十年やっても同じだぜ。ぜんっぜん、届かねえ」
「……」
「お前が知りてえのは、確保の先だろ。なんでそうなるのか。誰が、何のためにやらせてんのか。……なら統真、いる場所が違うんだよ。根本的に」
「なぜだ」
自分の声が、思ったより低く出た。
「なぜ、線が引かれる?」
「そこから先は、言わねえ」
即答だった。はぐらかす調子でも、勿体をつける調子でもない。言わないという事実を、隠さずにそのまま置く言い方だった。
「答えられない話か?」
「答えねえ話だ。られない、じゃねえ。ここでは言わねえって、決めてある話だ」
「……」
「知りたきゃ、こっちへ来い」
隠している、というのとは違った。語れば、俺が来ざるを得なくなる。それが分かっていて、伏せている。そういう伏せ方だった。
問いを重ねても、答えは同じ場所へ吸い込まれていく。こっちへ来い。訊くことそのものが、あいつの用意した入り口へ歩かされることだった。
機関のどこかに、俺には見せられていない線がある。それを、目の前に立つ指名手配の犯罪者が知っている。今夜いちばん否定したい一点が、いちばん否定できずにいた。
「で、本題だ」
透の声は、変わらなかった。
「〈影環〉に来い。勧誘だよ。今日は、それを言いに来た」
勧誘。その言葉が、事務連絡の速さで置かれた。冗談の響きは、どこにもない。
「本気で言ってるのか?」
「本気じゃなきゃ、この寒空の下に三人で立たねえよ」
組織として迎えに来た、という形をわざわざ作ってある。後ろの二人は、そのための同席だった。
三対一で、位置は向こうが決めた。それでも、この場の分の悪さは数と関係のないところにあった。構えは解けない。解けない構えの、向け先がなかった。
風が、草の上を渡っていく。光の及ばない薄闇で、透のスカーフの端が揺れた。
「断る」
「即答かよ」
「ああ」
「理由、訊いてもいいか?」
理由なら、考えるまでもなく喉元にあった。
「まゆりを殺した犯人の、いる組織だ」
自分の声が、川の音の上を硬く渡った。
「それに、超能力犯罪を犯す組織だ。〈裏三課〉の人間の行く場所じゃない」
言い切ってから、順番が遅れて自分へ返ってきた。組織の犯罪より先に、まゆりの名前が出た。職務の理屈より先に、あの名前が出た。選んで並べた順番じゃない。先に出るものが、先に出た。それが何を意味するかまでは、この場では踏まなかった。
透は、何も言わなかった。
「――ハッ」
短い笑い声が、左手から上がった。槙島だった。
「なあ、すげえ状況だと思わねえか? こないだ本気で殴り合った野郎と、川っぺりに雁首そろえて、勧誘だの断るだのやってんだぜ。俺ぁさっきから、笑いを堪えるので忙しいんだわ」
打ち合ったときと同じ声量だった。場を茶化してはいるが、こちらを侮っている響きはない。
「だいたい真琴、お前さっきからそいつしか見てねえじゃねえか。瞬きくらいしろよ」
真琴と呼ばれた朝霧の視線が、初めて俺から外れた。槙島へ短く向いて、何も言わないまま戻ってくる。否定も、肯定もなかった。
透は、そのやり取りへ目もやらなかった。笑いもせず、遮りもしない。視線は、こちらから動いていない。
朝霧の視線のことなら、降りたときから分かっていた。あの力は、目で捉えた相手にかかる。外さないのは、いつでも縛れる位置に俺を置いているからだ。警戒としては正しい。それ以上の意味を、探しはしなかった。
「話を戻すぜ」
透が言った。
「断られんのは、半分読めてた。だから、もうひとつ持ってきた」
「……」
「〈黎明神教〉を潰す。近いうち、こっちで作戦がある。日取りも中身も、今日は言わねえ。言うのは二つだ。作戦がある。そこに一度だけ、手を貸せ」
〈黎明神教〉。三日前に手を離れていった事案の、根にいた名前だ。実働隊の届かない場所を、こいつらは潰しに行くと言っている。俺には、問い合わせる窓口さえない場所をだ。
「入れって話じゃねえぞ? 名簿にも載らねえ、誰の指図も受けねえ、終わったら元通りだ。一度きりの共闘。それだけの話だ」
勧誘とは、別の話をしている。入れとは言わない、と先回りして言った。俺がいま断った理由の半分をかわす形が、最初から条件に刻んである。渡す情報を最小で刻んで、それでも足りるように話を組んでくる。手慣れたやり口だった。
「断る」
「これも即答か」
「ああ」
「そうかい」
押してくると思った。重ねられる言葉を待って、次の否定を用意していた。
用意は、要らなかった。
「分かった。今日は帰るわ」
透は本当に、それで話を畳みにかかった。粘る様子はなく、脅し文句も出てこない。用意した否定の行き先が、宙に浮いた。
「作戦が始まるとき、また連絡する。返事はいらねえ。……気が変わったら、来なよ」
言い終えると、透は背を向けた。合図らしい合図もないのに、槙島と朝霧が続く。
三つの影は、下流のほうへ歩いていった。こちらへ寄りもせず、足を速めもしない。来たときから決めてあった動線で、東寄りの階段へまっすぐ引き上げていく。去り際に槙島が何か言い、笑い声の形の音がこちらまで届いた。
三人が背を向けるまで、俺は動かなかった。構えを解いたのは、影が階段を上がり、堤防の向こうへ消えてからだ。追わなかった。呼び止めもしなかった。
草地に、俺一人が残った。
川の音が続いている。着いたときから続いている音が、今は、この場でいちばん大きい。
堤防の街灯が、誰もいなくなった草地を同じ角度で照らしている。三人が立っていた場所は、もう暗がりと見分けがつかなかった。
断った。勧誘も、共闘も。言うことは言ったし、声を荒らげる場面もなかった。交渉としては、これで終わりのはずだった。
終わった感じが、しなかった。
脇差は、結局一度も抜いていない。抜く場面が、最初からどこにもなかった。
作戦が始まるとき、また連絡する。透はそう言った。あの連絡が来ることを、俺は止められない。断ったはずの話の続きが、もう決まっている。
風が、水の匂いを運んでくる。指先はとうに冷えていた。車までは、堤防を上がって数十歩だ。
俺はまだ、草地に立っていた。




