空白
「……あの、失礼します」
扉が開ききるより先に、声が届いた。
警備要員に促されて、女が敷居をまたぐ。入ってすぐ、誰に向けるでもなく頭を下げた。机の奥の固定椅子まで進んで、浅く腰を掛ける。背もたれとのあいだに、こぶし二つぶんの隙間が空いていた。
両手が机上の環へ通されるあいだも、されるがままだった。手首には確保のときの拘束具が、首には拮抗抑制具のリングが、そのまま残っている。
肩までの髪を、ひとつに結わえている。小柄で、頬に疲れの色が濃い。俺と目が合うと、合ったそばから外れた。警備要員が退がり、扉が閉まる。
「篠塚未央さんで、間違いないか?」
「はい。……篠塚です」
「確保にあたった部隊の、鳴瀬だ。後ろは同じ隊の桐野。今日は、確保時の状況の確認で来た」
「はい。……よろしくお願い、します」
座ったまま、また頭が下がった。下げすぎて、額が机に付きそうになる。桐野は俺の斜め後ろ、机の端から外れた位置で手帳を開いた。
「体調は?」
「……大丈夫、です。よくして、いただいてます」
言葉を選んで、選びすぎて、語尾が畳まれていく。
あの朝、この女は制止に応じなかった。組み伏せられても、息ひとつ乱れなかった。いま目の前にいる女は、俺の声の高さひとつで肩を揺らす。
部屋には窓がない。照明の白があるきりで、午後という時刻は、この中では意味を失っていた。
「〈黎明神教〉という団体について訊く。ここでも何度か訊かれているはずだ」
「……はい。昨日から、何度も」
語尾に、疲れが一枚かぶさっていた。
「承知のうえで、もう一度訊く。知っているか?」
「……知らない、です。名前だけは、もう覚えました。ここで何度も言われるので。でも、そのたびに探して……いつも、何も出てこないんです」
俺は一枚目の書類を机へ置いた。信徒名簿の写しだ。差し向けると、篠塚は環の届く範囲で身を乗り出した。
「名簿だ。この欄に、あなたの名前がある」
「…………私の、名前です」
「字は?」
「……私の字だと、思います。この、未の字の癖……私、いつもこう書くので」
「あなたが書いたものだ、ということになる」
「書いた覚えが、ないんです」
即答だった。言ってから、篠塚自身がその速さに戸惑っていた。
「ごめんなさい。自分の字なのに、変ですよね。でも、本当に覚えがなくて……名簿があると言われてはいたんです。こうして見るのは、初めてで」
二枚目、三枚目。集会所への出入りの記録。街頭の勧誘に応じた入信の経緯。日付を添えて読み上げるたび、篠塚は困り果てて首を振った。
「秋から、週に何度か通っていた記録になっている」
「通って……私が、ですか? 夜勤も多いのに、そんな……」
紙を見せられれば揺らぐかと思っていた。揺らいだのは字を認めた一点きりで、答えは、担当が受け取ったものと同じ形で返ってくる。
答えるまでの間に、隠す人間の間がない。丁寧に返されるたび、こちらの怒りは行き場をひとつずつ塞がれていった。
写真を置いた。被害者の、制服姿の一枚だ。生前のものを選んである。
「亡くなった警察官の件で、あなたが疑われている。それは聞いているな」
「……はい。伺っています」
声は落ちたが、驚きはなかった。何度も置かれた話の上に、今日また同じものが置かれただけの受け答えだった。
「顔を見るのは、今日が最初か?」
「……はい。お名前だけは、伺っていました」
「知っているか?」
篠塚の目が、写真の上を往復した。何も動かない。眉も、口元も、環の内側の指先も。
「……存じ上げない、です」
「先月、一度会っている。あなたの職場の近くで、この人から短い聴取を受けた記録が残っている」
「聴取……ええと、警察の方、ですか?」
「そうだ」
「……ごめんなさい。お巡りさんと話したなら、忘れないと思うんです。私、そういうことが、ほとんどないので……」
記録の日付を指で示す。篠塚は日付と顔写真を見比べて、それでも首を振った。写真の扱いだけが丁寧すぎた。知らない人の顔を、知らないまま、両手のあいだに置いて見ている。
「この人が亡くなったのは、あなたが確保された、その現場だ」
「……そう、伺いました。伺ったんですけど……その方と、私が、どうして繋がるのかが、どうしても」
責められている顔ですら、なかった。言われていることの筋が、何度なぞっても自分に届かずにいる目だった。
殺したのか、とは、まだ訊けていない。訊くための土台が、手前から順に崩れていく。崩しているのは、担当が昨日から同じ場所を掘ったあとの窪みだ。
「確保のとき、あなたは水を出した。それも、訊かれているな」
「……訊かれました。何度も」
語尾が、そこでほどけた。
「あの、こちらの方にも同じことを申し上げたんですけど……そのご質問だけは、意味が、分からないんです」
「あなた自身の力で、俺の全身を覆いかけるほどの量だった。そういう話をしている」
「はい。……言葉としては、分かります。でも、私はそういうものとは無縁で……水って、何のことですか? 出せるとしたら、体の、どこから……ふざけてるんじゃ、なくて。何度考えても、本当に、分からなくて」
初めて、篠塚から訊き返してきた。
「昨日から、ずっと、そうなんです。名簿も、あの方のことも、水も。訊かれていることが、私の中の、どこを探しても、ないんです」
嘘つき扱いへの怯えではなかった。問われたことが自分の中に見当たらない。何度も探させられたぶんだけ育った心細さが、声の底に差していた。
俺は手元の書類を揃え直した。所属、殺害、能力。三つとも、否認の形だけは立っている。ただ、どの否認も壁の手応えをしていない。押して崩れるものが、最初から出てこなかった。昨日から押している担当の手も、同じ空を掻いたのだろう。
机の端に、施設側が用意した再生端末が載っている。俺はそれを、机の中央へ寄せていた。
「確保時の音声記録だ。声掛けから確保まで、あなたの声は全域で残っている。音の録れていない時間が一部あるが、あなたの声は途切れていない」
「……はい」
篠塚は端末を見た。何が始まるのか分からないまま、姿勢だけを正した。
再生した。
『祈れば、まどろみからのお目覚めが、早まりますから』
最初の数秒、篠塚はよその音を聞く顔をしていた。知らない誰かの声を、礼儀として聞いている。
それが、途中で変わった。
目が端末に据えられたまま、動かなくなる。唇がうすく開いて、そのまま閉じられなかった。環の内側で、指が天板をさぐった。掴むものがないまま、指先が縮こまる。呼吸が浅くなり、胸の上下が速くなった。
「……これは、いつの」
「昨日の朝だ。あなたに声を掛けた直後から、記録は回っている」
俺は次を流した。
『……祈りは、届いています。まどろむ御方がお目覚めになれば、苦しいことは、みんな終わるのです』
静かな、抑揚のない確信の声だ。あの朝、地面に組み伏せられながら、この女は息も乱さずこれを言った。肩で息をしていたのは、押さえ込んだ俺のほうだった。
篠塚の顔から、聞いている、という状態が抜け落ちていた。自分の声で語られる知らない確信を、ただ浴びている。手の甲に、腱が浮いていた。
再生が終わっても、篠塚は端末から目を離さなかった。両手が環の許すぶんだけ持ち上がり、口元へ届かずに落ちた。
「……これ……」
「あなたの声だ。違うか?」
長い間があった。篠塚は一度、目を閉じた。開いたとき、目の縁が赤かった。
「……私の、声だと思います」
絞り出す言い方だった。
「声は、私です。話し方の癖も……この、間の取り方も、たぶん、私ので。でも、言った覚えが、ないんです。祈りとか、お目覚めとか……私、こういうものを信じたことが、一度も、ないんです」
「録音された場所は、あなたが確保された現場だ。この声の直後に、あなたは確保されている」
「その現場ごと、覚えていないんです。……ごめんなさい。声は、私なのに」
語尾が落ちて、消えた。
声の主が自分であることは、認めている。語られた中身と、その場の記憶が、どこにもない。嘘なら、どちらかへ寄せるはずだ。認否が半分に割れたまま揺れない供述というものを、俺は知らなかった。
次の質問を探した。
名簿は出した。写真も出した。声も聞かせた。突きつける札は、これで全部だ。札を切るたびに、返ってくる心当たりのなさが深くなっていった。
訊いた中身は、担当が昨日から訊いてきたものと変わらない。現場にいた俺の目で踏み直せば違うものが出ると思っていた。出たのは、同じ答えの、もっと深いところだった。
沈黙が落ちた。長くはない。ただ、それを埋める言葉を、俺は持っていなかった。
視線を感じた。
斜め後ろで、桐野が手帳から顔を上げ――目だけで、訊いてきた。
俺は頷いた。
「篠塚さん。少し、別のことを伺います」
桐野の声は、硬い敬語のままだった。
「いちばん最近のことで、覚えていることは何ですか? ここへ来る前のことを、順に聞かせてください」
「……最近の、こと」
「はい。お仕事のことでも、生活のことでも構いません。順番に、辿ってください」
素朴な問いだった。専門の言葉も、揺さぶりもない。ただ、順を追わせるだけの問いだ。
俺も、施設の担当も、昨日から何をしたかばかりを訊いていた。何を覚えているかを訊いた者は、まだ一人もいない。
篠塚は、それには少しほっとしたように頷いた。答えられる問いが来た、という顔だった。
「仕事を、しています。介護の……老健の、職員です。夜勤も、あります」
「直近の勤務は、いつでしたか?」
「シフトは……」
そこで、言葉が止まった。篠塚は机の木目へ視線を落とし、辿る顔になっていた。
「……あれ。先月……先月の勤務、私……」
「思い出せる範囲で構いません。覚えている勤務の日から、で」
「九月なら、覚えています。敬老会の行事があって、受け持ちの方の車椅子を、私が押して。それは、はっきり」
「そのあとは、どうですか?」
「そのあと……衣替えを、しようと思ってたんです。夜勤明けに、夏物をしまおうって。それで……」
指先が、天板の上で小刻みに動いた。カレンダーをめくる手つきだった。
「しまった……のかな。部屋がいま、どうなってるか……ごめんなさい、ちょっと、待ってください。十月……十月の……」
誰も急かさなかった。俺も桐野も、事実の確認より先へは、踏み込まなかった。
「お部屋のことは、どうですか? 最近、買ったものでも」
「冷蔵庫に、何が入ってるか……思い出せない。施設の、年末の飾り付けも、毎年するんです。今年のを、してない。してた覚えが、ない……買い物とか、受け持ちの方のその後とか、何か、あるはずなんです。毎日、生活してたんだから、あるはずなのに」
篠塚は黙った。辿り直して、もう一度、黙った。目が、探し物の途中の動きのまま、止まっている。
やがて顔が上がった。それまでの丁寧さの膜が、剥がれていた。
「……無いんです」
「無い、というのは」
桐野が、同じ静かさで問い返す。篠塚は、自分の胸のあたりを見下ろした。
「思い出せない、んじゃ、なくて。……探しに行った先に、何も、無いんです。九月までは、あるんです。ちゃんと。でも、そこから先が、無い」
「今日までの、あいだが、ですか?」
「今……いま、十二月、ですよね?」
誰も答えないうちに、篠塚の顔色が変わった。指を折る仕草が、途中で崩れる。
「二か月……二か月ほども、私、どこにも、いない……」
指摘されたのではなかった。誰にも教えられないまま、自分の空白に、自分で行き当たった。
「なんで。……なんで、無いの……」
篠塚が、立とうとした。両手が環に引かれる。椅子は床に固定されていて、動かない。中腰のまま、上体だけが机の上へ倒れ込んだ。
「篠塚さん」
「私、二か月、どこにいたんですか? 何をしてたんですか? ねえ……教えてください。私、この二か月で、何を――」
自分の両手を見る。環の内側で手のひらを返して、また見る。呼吸ばかりが速くなって、同じ問いが繰り返された。
暴れてはいない。攻撃の形は、どこにもない。足場の抜けた人間が、落ちていく途中の声だった。取り乱すその手の周りで、水の一粒も、生まれはしなかった。
俺は椅子を引いて、立った。机は、越えなかった。越えた先で、できることが、何もない。
背後で、扉が開いた。
「ここまでです。中止します」
取り調べ担当の男だった。画面越しに見ていたのだろう、判断までが速い。医療要員が続いて入り、机の西側を回って、篠塚の右脇へ付いた。決められた手順の速さだった。彼らは容体を見ている。それは、正しい。
桐野は、その前に動いていた。
机の東の端越しに、手が伸びている。届かない距離だった。そして、届いたとしても、あの手が塞げるのは傷だ。目の前で起きていることは、どこにも傷の形をしていない。伸ばされた手は、かざす先を見つけられないまま、宙で止まっていた。
「お二人は、退室を。廊下でお願いします」
俺は桐野を促して、扉へ向かった。閉まる間際、背中に当たった声は、もう、言葉の形をしていなかった。
扉が、閉まった。
廊下は静かだった。無窓の照明の下で、いまが何時なのか、体が分からなくなっている。
桐野は手帳を胸に抱えたまま、閉じた扉を見ていた。
俺が踏み直しても動かなかった場を、あの問いひとつが動かした。正しい問いで、正しく事件を進めた。教えることは、もう残っていない。手を出さなくても済むようになった――その認識が、この廊下で確定した。口には、出さなかった。
掛ける言葉も、出てこなかった。正しさの先にあの声があるのなら、俺の持ち合わせに、渡せるものがない。
警官をひとり殺した加害者だ。その怒りは、消えていない。なのに、机の向こうで崩れていったものを思い返すと、怒りの置きどころが、定まらなくなる。喪った側の俺が、こんな感触を抱えること自体、どこか、後ろ暗かった。
(確かめに、来たはずだった)
自分の目で、見た。三つの否認を。自分の声に行き当たる顔を。二か月の空白に、落ちていく人間を。それで、持って帰れるものが、何ひとつない。答えの代わりに、来る前より深い分からなさが、閉じた扉の向こうに残っている。
俺は、その扉を背にして、立っていた。




