確保
十二月の、夜も明けきらない時刻に、隊はまたブリーフィングルームへ集まっていた。昨夜の解散から、まだ半日と経っていない。
無窓の室内は、昨夜と同じ白さで照らされている。ここにいると、いまが朝だということも分からない。
昨夜まで紙で埋まっていた長卓は、片づいていた。出ているのは真間野区の地図の出力と、配置図が一枚。誰も椅子を引かず、全員がホワイトボードの前へ立って、ゆるい半円を作った。
「自宅には踏み込まない」
隊長が、最初にそう切った。
「部屋の中で始まると、被害の読みが立たん。間取り次第じゃ人質も作られる。ドアの内側で暴れられたら、隠しようもない」
マーカーの先が、地図の上で施設からアパートまでの経路をなぞり、途中で止まる。
「押さえるのは外だ。ここ、工場と倉庫の並びの通り。仕掛けは今朝の一度きりで、夜勤明けを外せば、次は何日も先になる」
「操業は八時からです。それまで通りは無人。両側は塀とシャッターで、外から視線は通りません。南北の交差部を塞げば、外周は完結します」
九条さんが、地図の二か所を指で押さえた。手配は済んでいる、と隊長が引き取る。ガス漏れ点検の名目で、支援・規制要員が交差部の外側を閉めることになっていた。
印の打たれた区画を、俺も地図で確かめた。施設から南へ下る通勤路の途中で、周りは工場と倉庫ばかり。操業前なら人気はなく、外の建物から通りへ目は届かない。確保の場所としては、申し分がなかった。
配置は五人分、隊長が割った。
「制圧は鳴瀬。八神は北で、施設側の退路を塞げ。九条は南から監視。俺は現場で指揮を執る。桐野は後方待機だ」
「はい」
桐野は手帳へ配置を書き取り、顔を上げた。問い返しはなかった。
「監視の半径は三百メートルです。通りの全域と、周辺の街区まで収まります。対象が北の交差部へ入った時点から、逐一流します」
九条さんが言い添えた。
「言っておくが、相手の系統は割れていない。分かっているのは、水のない場所で人が溺れたという結果だけだ。だから原則へ戻る。被害を出さないのが最優先。間合いを取れ。行使を長引かせるな。『たぶんこの系統だろう』で動くのもなしだ。見えたものだけで判断しろ」
「声を掛ける位置と間合いは、こちらで決めさせてください。相手が見えてから詰めます」
俺が言うと、短い頷きが返った。
「任せた。八神、目は覚めてるか?」
「ばっちり寝ました! 今朝のあたしは遠くまでよく見えます。北はお任せを」
張りのある声だった。昨夜の途中から抜けていた分まで、ちゃんと戻っている。それで打ち合わせは終いだった。
装備室では、誰の手も速かった。装具を締める音と点検の短い声が行き交い、列はすぐに動いた。エレベーターで地下へ降りると、駐車場の空気は外と変わらないくらい冷えている。二台の公務車両が、低い排気音を残して庁舎を出た。
◇◆◇
通りへ着いたときも、空はまだ暗かった。
南北へまっすぐ伸びた、片側一車線の道だ。西側は倉庫の壁とトラックヤードで、東側には工場の塀が続く。シャッターはどれも閉まり、街灯はまばらで、路面の大半は薄暗がりに沈んでいた。
西側の路側帯には、荷積み待ちの中型トラックが一台、頭を南へ向けて停まっている。その南隣に、資材のパレットが胸元に届く高さまで積んであった。俺はその陰へ入る。篠塚の通勤の動線は、この西側を通る。
八神は北の端寄りの車道上。九条さんと桐野は、南の交差部の外に停めた一号車の脇。隊長は車道の東寄りで、工場の塀を背にしている。交差部の外側では、支援・規制要員が点検の看板を立て終えていた。
あとは、待ちだった。
目の前のトラックは、荷台に幌を掛けたまま朝を待っている。運転席は無人で、荷主が来るのは操業のあとだ。車体七メートルぶんの鉄板が、この通りでいちばん大きな遮蔽だった。
段取りは決めてある。声を掛けて、応じれば同行、応じなければ制圧へ移る。どちらでも、篠塚を通りの外へは出さない。北は八神が締め、南は車両と人で塞いである。逃げ場の計算は済んでいた。相手の力の計算だけが、白紙のまま残っている。
操業前の通りは、物音を立てない。遠くの幹線の音が、ときどき薄く届くきりだ。息が白い。指先の冷えは、外套のポケットの中で指を折って逃がした。
空の色が、藍から灰へゆっくり薄まっていく。配置についてから、じきに一時間になる。内線は静かなもので、九条さんの定時の報せが規則正しく乗った。
『北の街区、動きありません』
『交差部の封鎖、両側とも完了しています』
やがて、その声の質が変わった。
『対象を拾いました。北から徒歩、一人です。動線どおり、南下しています』
応じたのは、隊長だった。
『全員そのままだ。鳴瀬、間合いはお前が計れ』
「了解です」
声を落として返す。パレットの角越しに、動線の先を見た。
足音が先に届いた。硬い靴ではない、布底の軽い音だ。
街灯の下へ、篠塚未央が出てきた。
制服の上に薄手の上着を重ね、鞄を肩へ提げている。髪をひとつに結わえ、小柄な姿だ。足取りには、夜勤明けの重さが乗っている。紙の上の情報と、目の前の実物のあいだに、落差はない。通りを歩いてくるのは、どこにでもいる朝帰りの介護職員だった。
トラックの脇を、篠塚が抜けてくる。俺は膝の向きを変え、踏み出す足の置き場を決めた。声掛けから制圧までの段取りを、もう一度たどる。
十メートル、八メートル。
俺はパレットの陰から、動線の上へ出た。
「篠塚未央さんですね」
足が、止まった。
「朝早くにすみません。お伺いしたいことがあります。ご同行いただけますか?」
所属は名乗らない。手順どおりの、任意の形の声掛けだった。
篠塚は足を止めたまま、俺を見ていた。逃げる素振りはない。ただ立って、俺の顔を見ている。
「……大丈夫ですよ」
返ってきたのは、静かな声だった。口だけが動いて、立ち姿はそのままだ。
「苦しいのは、いまの世だけのことですから」
同行の返事ではなかった。問いのどこにも、掛かっていない。声は返って、会話は始まらなかった。
始まりは、足元からだった。
路面と、脛のまわりの空気から、水が湧いた。
張りついてくるのは膜だ。冷たさより先に重さが来て、脛を包み、厚みを増しながら膝へ上がってくる。振っても切れず、持ち上げた足へそのまま付いてきた。
水は澄んでいる。土の匂いも薬品の匂いもない、ただの水だ。それが注ぎ手もなしに、路面の上で増えていく。
「やめろ。何をしている」
「……祈っているんです」
制止のほうは、素通りだった。声は静かなまま、続きを継ぐ。
「祈れば、まどろみからのお目覚めが、早まりますから」
(……水系)
現場報告にあった「溺死」の二字が、初めて実物と繋がった。だが、言葉のほうは意味が取れない。〈黎明神教〉の教義か何かだろうか。
考えるより先に、体が出た。膜を蹴り割り、二歩でトラックの車体の裏へ跳ぶ。鉄板を背にした。篠塚からの視線は、これで完全に切れている。
足元で、また水が湧いた。
同じだった。路面と空気から膜が立ち、膝を包み直し、腿へ上がってくる。発生点が、俺と一緒に動いていた。
膝が水の芯まで沈むと、歩幅が半分になる。重りを提げるのとは違う、四方から均等に押さえてくる重さだった。
物陰に、意味がない。
軸線を外して、死角から詰める。俺が現場で通してきた抜け方は、この相手にははじめから成立していなかった。理屈を組むより先に、脚へ絡む重さがそれを教えてくる。二度目は試さなかった。
車体の角から、通りへ目を戻す。
篠塚は、一歩も動いていなかった。手は鞄の持ち手に掛かったきりで、上がってもいない。指も差していない。立ち姿は、声を掛けたときから何も変わっていなかった。
それでも水は、俺のまわりから立ち上がる。
出どころが、違う。
感触はそこまでで、先へは届かなかった。考えている時間ごと、水が腰を越えてくる。
音が遠くなった。靴が路面を擦る音も、イヤホンで俺を呼ぶ声も、厚みの向こうへ下がっていく。応えて出した自分の声すら、水に吸われて薄かった。
息を吸い、止め、吐く。その順番を、水が上がりきる前提で組み替えている自分がいた。動ける余地は、まだ胸から上に残っている。
残った突破口は、覆いが仕上がるまでの数秒。
俺は車体の陰を捨てた。
覆いから逃げるのではなく、覆いの主へ向かう。遮蔽が使えない以上、賭けられるのは、仕上がるまでの遅さとこの脚の速さの差し引きしかなかった。
まっすぐ篠塚へ走る。一歩ごとに腿で膜を割った。腰から下は水中を行く重さで、蹴った力の半分しか前へ進まない。それでも一歩は出る。二歩目も出た。
「――世は、作り直されるのです」
水に濾された声が、薄く届いた。
覆いが胸へ上がってくる。息を止めた。視界の下半分が、水の厚みで揺れて歪む。
六メートル、四メートル。
足は、まだ出る。
届いた。
腕を取った瞬間、覆いが崩れた。全身を包みかけていた水が形を失い、まとめて路面へ落ちる。水音と一緒に、遠のいていた朝の音が戻ってきた。
そこから先は、いつもの仕事だった。肩越しに腕を極め、体を割り込ませ、頭を打たせないように路面へ組み伏せる。教本どおりの、生かして押さえる形だ。
抵抗は、ほとんどなかった。押し返す力も、逃れようとする捩れもない。膝で背を制しながら、その軽さに一瞬だけ指が迷った。組み伏せているのは、夜勤明けの、疲れた二十八歳の体でしかなかった。
組み伏せたまま、両腕を背へ回して固める。篠塚の息は乱れていない。俺のほうは、肩で息をしていた。
「……祈りは、届いています。まどろむ御方がお目覚めになれば、苦しいことは、みんな終わるのです」
耳のすぐ下から、抑揚のない声が言った。押さえられている側の、言い方ではなかった。
拍子抜け、という言葉が浮かんで、手順の下へ沈んだ。
「確保。制圧、完了」
内線で短く送った。今度の声は、ちゃんと通った。
路面では、崩れた覆いの水が薄く広がり、冬の空気へ湯気を立てている。濡れているのは、俺の立った場所と、走った跡の上に限られていた。篠塚の足元から北の路面は、乾いたままだ。水の引き際も早い。路面の傾きに沿って側溝へ流れ、湯気のほかに残るものがなかった。
通りにあるのは、側溝の点検蓋と倉庫の散水栓ぐらいのものだ。この量の水を賄える水源ではない。持ち込みも、散水も、水利もない――現場で潰した線と同じ確認が、今度は目の前で済んでいる。その先を考えるのは、いまの手順の外だった。
最初に走り込んできたのは八神だった。
「統真、無事!? ……うわ、びっしょびしょ」
「押さえてる。先に打ってくれ」
「はいよ」
八神が携行の鎮静剤を出し、篠塚のうなじへ針を入れた。効きは早い。二十秒ほどでまぶたが下がり、掌の下の強張りが解けていく。
鎮静を確かめた八神が、首輪型の拮抗抑制具を頸部へ回して固定した。留め具の噛む音が、乾いて鳴る。拘束具を併用して、確保の手順が閉じた。
隊長が車道を渡ってきて、俺と篠塚を順に見た。
「怪我は?」
「ありません。濡れただけです」
「上等だ。引き渡しまで身柄はお前が持て。収容班を入れる」
南から九条さんが歩いてきて、端末を確かめた。
「記録は取れています。映像、音声とも。被疑者の声は、最初の声掛けから確保まで、全部残っています。……ただ、鳴瀬さんが水に包まれてからは、内側の音がまるで拾えませんでした」
「充分です」
「あたしも最後まで撃てなかったよ。ずーっと統真が真ん中にいるんだもん。射線、ゼロ」
八神が唇を尖らせ、それから声を軽くした。
「一号車にタオル積んであるから、帰りに使いな。濡れた男を乗せるの、あたしは構わないけど、じょーくんが嫌な顔するし」
「あとでもらう」
桐野が駆け寄ってきたのは、拘束具が締まったのと同時だった。指示は出していない。篠塚の傍らへ膝をつき、口元と手首へ順に手をやる。
「呼吸、安定しています。脈も触れます。意識レベルは鎮静域です」
「ん。搬送まで頼む」
「はい」
言葉はそれきりで、桐野は被疑者の顔の向きを直し、上着の襟元を整えた。後方から一部始終を見ていた新人の手つきに、迷いはなかった。
収容班の搬送車が、南の交差部から通りへ入ってきた。降りた二人は口数少なく動く。担架を固定し、車内を検め、引き継ぎの書式を読み合わせる。運び慣れた動きだった。
「ここから先は収容班の仕事だ。中継拘禁場まで約五十分。うちの手は、ここで離れる」
扉が閉まり、搬送車が動き出す。車体は南の交差部を折れて、テールランプごと見えなくなった。
入れ替わるように、通りが目を覚ましはじめる。支援・規制要員が点検の看板を畳み、封鎖が解かれていく。どこかでシャッターの上がる音がした。北の端を、通勤らしい自転車が一台、ペダルを鳴らして抜けていく。八時が近い。朝が、現場の上へかぶさってくる。
ここから先、あの身柄に俺たちが触れることはない。取り調べも、処遇も、上の管轄だ。現場の仕事は、通りを朝へ返すところまでだった。
制圧の手応えは、本物だった。誰も傷つけていない。秘匿も保った。身柄は生きて押さえた。確保としては、文句のつく余地がない。
ただ、あの水がどこから来たのかという一点は、まだ説明が立たないままでいる。篠塚の手からでも、視線からでもなく、俺のまわりから立ち上がった。この目で見た事実のはずなのに、報告書のどの欄へどう書けばいいのか、載せる言葉のほうが見つからなかった。
濡れた袖が、腕に貼りついて冷たい。
搬送車の消えた交差部の先を、俺はまだ見ていた。




