名簿
地下駐車場の照明が、フロントガラスの上を等間隔に流れて、止まった。出た朝と同じ白さの蛍光灯で、天井は外の日の傾きを教えてくれない。
一号車を所定の枠へ収めて、エンジンを切る。隣へ二号車が入り、降りた八神が天井へ向けて大きく伸びをした。
「んー……戻ったぁ」
声の張りは朝の半分だった。当直明けの仮眠二時間で現場を一日歩けば、そうもなる。
エレベーターで執務室階へ上がり、装備室で外套と装具を解いた。体が半分だけ平時に戻る。残りの半分は、封筒の中身に置いたままだった。
廊下へ出ると、台車がひとつ待っていた。所轄からの荷が先に着いている。段ボールがふた箱、内偵資料の束と、被害者の捜査メモの写しだった。
「うわ、もう届いてる! 仕事はやーい」
「向こうは、待ちかねてたんだろうよ」
箱の口を覗いた隊長が、短く言った。
「執務室の卓じゃ載らんな。ブリーフィングルームを開けるぞ」
台車ごと、廊下の奥へ押していく。ブリーフィングルームの長卓は十人で囲める広さがある。五人で使えば、卓面の半分がまるごと紙の置き場になる。部屋を変える理由は、それで足りた。
扉が閉まる。この部屋に窓はない。秘匿の造りで、外の光も音も入らない。時刻の感覚は、ここから先、端末の隅の数字だけが頼りになる。
九条さんが長卓の前方寄りに着いて、内偵資料の束を割りはじめた。綴じを外し、四つの山へ分けていく。
「対象者名簿。集会の出入りの記録。街頭勧誘の観察記録。それと、聴取の記録が一件だけあります」
署の書式で積まれた紙は、日付も筆跡も揃っていた。山の頭から、九条さんが要点を立てる。
「内偵の開始は去年の夏。担当は実質、被害者ひとりです。当たっていた範囲は、集会所の出入りの張り込みと、駅前の勧誘の観察。それから、献金がらみの相談が署へ入った家庭が数件。個別の違法行為で立件するための積み上げを、一年半、ほぼ一人でやっています」
「一人で、ですか?」
「所轄の内偵はそんなものです、桐野さん。人手が付くのは、立件の目処が立ってからですので」
教団そのものの素性は、初日の引き継ぎで聞いたとおりだ。今日開くのは、その中身ではなく、死んだ内偵者の足取りのほうだった。
隣で桐野が、捜査メモの写しを卓へ並べ直していた。こちらは様子が違う。日付が飛び、略号が混じり、頁の端に矢印と丸だけが残る。他人に読ませる気のない走り書きだった。
「日付の取れる頁から、時系列に直します。取れない頁は、前後の記載で挟みます」
言い切って、一枚ずつ置いていく。並べ終わるまで、手は一度も止まらなかった。
卓の上で、署の書式と走り書きの二系統が隣り合う。同じ教団を追った紙とは思えない落差だった。俺は長卓の中ほどへ現場側の書面と写真を置き、前方のボードと二人の手元が同時に見える位置へ椅子を引いた。
隊長がホワイトボードに真間野区の地図を貼った。初日に区名と団体名を書き出したときと、同じ進め方だ。今日は地図の横へ、名前が並ぶことになる。
「桐野、メモの最後の数頁だ。当夜の動きを読み上げてくれ」
「はい。当日の夕方から、勧誘対象だった家庭を二軒。十九時台に一軒目、二十時台に二軒目。そのあとに『元世話役 再』――元世話役への再訪と読めます。終わりは二十一時半ごろ。最後の頁は、駅の名前に丸が付いているだけです」
読み上げに合わせて、隊長のマーカーが地図の上を進んだ。一軒目から二軒目、三軒目。そこから駅へ戻る道筋へ入ったところで、線が止まった。
止まった位置には、先に印が打ってある。遺体の発見位置だった。線を引き終えた隊長が、マーカーの尻でそこを二度叩いた。
「……乗ったな」
「帰り道です。最後の聞き込みを終えて、駅へ戻る途中」
誰も声を高くしなかった。見えていた筋の裏づけが、ひとつ増えただけだ。それでも、線が乗ったことで意味は変わる。当夜の被害者の行動は、教団の内偵そのものだった。〈黎明神教〉が、背景ではなく捜査線として立った。
「なら次は顔ぶれだ。直近で被害者が会っていた信徒を出せ」
対象者名簿と、メモの接触記載の突き合わせが始まった。九条さんが名簿を読み、桐野が写しから日付と名前を拾う。表記のゆれを一つずつ潰す。日付の欠けは、前後の頁で挟んで詰めた。直近のふた月で被害者が直接会っていた信徒が、絞り出されていった。
「十四名です」
「多いね。ふた月でそんなに会ってたんだ」
「勧誘の観察込みですので、立ち話も入っています。それでも、直近の顔ぶれとしては十分です」
九条さんが書き出しを立て、隊長がボードへ名前を移していく。ここまでは、手順どおりに進んだ。
次の一手も、いつもの手順だった。発現者登録と前歴者のリストへ、十四名の照合をかける。〈裏三課〉が事件のたびに最初へ打つ手で、たいていはこれで名前が三つ四つまで減る。
回答は、一括で返ってきた。
「全員、該当なし。登録にも前歴にも載っていません」
端末から顔を上げた九条さんが、眼鏡の位置を直した。
「名簿の側からは、誰も出てこないということです」
「出ないかあ」
八神が椅子の背へもたれて、天井を仰いだ。
「珍しくはないんだよねえ。珍しくはないけど、めんどくさいやつ」
「新規の発現として扱うだけです。登録は発現の把握が先ですから、載る前の人間が出てこないのは道理です」
一番早い入口が、一番先に閉じた。名簿から犯人が出ないなら、書式も精度も揃わない紙の束を突き合わせて、出てくるまで絞るしかない。部屋の空気が、根気の仕事へ切り替わった。
所在の確認に移る。ここで、手が縛られた。
教団の名簿そのものは、こちらでは押さえられない。集会所へ踏み込む権限もない。信徒ひとりの当夜の行動を確かめるにも、内偵を持つ所轄の窓口を通すしかなかった。こちらの質問は一度向こうへ渡り、向こうの担当が裏を取って、返ってくる。絞り込みの速さも精度も、他人の手の中にある。
「八神、十四名の当夜の所在だ。所轄へ回せ」
「はいはーい。……よし、投げた」
窓口役の八神は扉寄りの席で端末を叩き、送っては待ち、返ってきた分を書き足しては、また送った。待ちに入るたび席を立ち、扉際で肩を回してから戻ってくる。二往復目からは、戻りがけに給湯室のコーヒーを取ってくるようになった。
「三件返ってきたよ。当夜の集会に出てた組。世話役の証言つき」
「次の便はいつ来ます?」
「向こうの担当さん、一人しかいないの。気長に待って、じょーくん」
一往復ごとに、待ちは少しずつ延びた。向こうの担当も、こちらの照会だけを抱えているわけではない。急かす筋合いは、頼む一方のこちらにはなかった。
軽口の間隔が、だんだん空いていく。八神の席の端で、空の紙コップが二つになり、三つになった。照明の白さは最初から変わらない。無窓の部屋では、端末の隅の数字だけが、十九時を越え――二十時を越えていった。
回答待ちのあいだ、九条さんは桐野の並べた写しを、頭からもう一度読み返していた。名簿と突き合わせの済んだ接触記載の途中で、頁を繰る手が止まった。
「……書き込みに、差があります」
二枚の頁が、卓の中央へ出された。
「ほかの信徒への記載は、全部が事実です。所属、入信の時期、世話役かどうか、家族の有無。名前が違っても項目の立て方は同じで、内偵の型ができている。――ですが、篠塚未央。この名前にだけ、様子のことが書いてある」
指の先の走り書きを、俺と隊長が覗き込んだ。
『シノヅカ ミオ ようす変わった 秋口から 口数減』
事実の欄の外に、短い一行。前後の頁を探しても、続きはどこにもなかった。
「並べているときは、名前の一つとしか見ていませんでした」
「並べ直しがなければ、差そのものが見えていません。読める形にした仕事です。――内偵をやる人間が、事実の外のことを書き残すのは、引っかかったときだけです。理由まで言葉にできていれば、事実として書きます。できていないから、こういう形で残る」
「で、本人へ確かめる前に死んだわけだ」
隊長が地図の前から言った。九条さんが頷く。
「引っかかりの中身は、もう誰にも訊けません。ただ、目のつけどころは、ここに残っています」
規制線の際で、続きを頼むと頭を下げた所轄の刑事を思い出した。この走り書きの一行が、その続きの最初の頁だった。
「八神、篠塚の分だけ先に立てられるか?」
「もう向こうへ投げてある。――お、来た」
端末を覗き込んだ八神の声から、軽さが抜けた。
「篠塚未央、二十八歳。事件の当夜は非番。区内のアパートでひとり暮らしで、当夜の在宅を裏づけられる人がいない。……それとさ、統真。これ、先月の聴取と合わないよ」
「聴取では、どう答えてる?」
「『夜勤続きで、集会にもあまり出られていない』。でも所轄がいま勤務先へ確かめたシフトだと、この秋、篠塚さんの夜勤は月の半分もないの」
夜勤続きという自己申告と、夜勤の少ないシフト。嘘と決められる差ではない。ただ、説明の合わない箇所が、またひとつ増えた。
残りの回答も、夜のうちに出揃った。当夜の集会に出ていた者は五名いた。勤務に入っていた者と、家族と家にいた者が、それぞれ四名ずつだった。十三の名前へ一つずつ説明が付いて、ボードの上から横線で消えていく。
消えない名前が、一つだけ残っていた。
「並べてみろ、鳴瀬」
俺は卓の材料を手前へ寄せて、順に置いた。
「接触十四名のうち十三名は、当夜の所在に説明がつきます。つかないのは篠塚未央ひとり。被害者が様子の変化を書き残したのも、同じ一名。生活圏は現場と同じ区内で、被害者の帰路と重なり得ます。――疑わしい一名、という言い方はまだできません。ただ、この名簿の中で説明のつかない一名なら、もう決まっています」
「現場と同じやり口だな。潰して、残った一つを拾う」
隊長が残った名前を丸で囲み、マーカーを置いた。
紙の上の篠塚未央は、こうだった。二十八歳、女性。真間野区内の介護老人保健施設に常勤で勤める介護職員で、夜勤がある。区内のアパートで独居、実家は他県。教団では末端の信徒で役職はなく、内偵の対象リストにも周辺として載っていた程度。入信の経緯は、夜勤明けの駅前で勧誘に応じた、と記録に一行あるだけだ。
写真は、観察記録に写り込んだ一枚だけがあった。街頭勧誘の列の端に立っている。小柄で、肩までの髪を後ろで一つに結わえていて、画の粗さを差し引いても、疲れの色が濃い。撮られていることも知らない横顔は、名簿の中のほかの誰とも、区別がつかなかった。
加害へ向かう素地は、紙のどこにも書かれていない。職場の評判は真面目で通っている。書かれていないことを不審の材料にはできないし、除外の材料にもできない。俺たちの手元にあるのは、当夜の説明がつかないという一点だけだった。
「勤務先と自宅の位置、来たよ。地図に足すね」
ボードの地図へ、施設とアパートの位置が加わり、通勤の経路が引かれた。最後にシフト表の写しが届く。九条さんがそれを確かめて――顔を上げた。
「今夜、篠塚は夜勤に入っています。施設を出るのは、明朝です」
「確認させてください」
桐野が手を挙げた。
「集会所には、入らないんでしょうか? 篠塚の周辺を洗うなら、教団そのものを調べたほうが早いように思います」
「入らん」
隊長の返しは即だった。
「うちの獲物は警官殺しの一件だ。超能力の行使が立ったから、うちの所掌になる。そこまでだ。教団を叩くのは所轄と公安の仕事で、一年半の内偵の積み上げは向こうの財産だ。横からうちが踏み荒らしたら、この事件が片づいたあとの立件が飛ぶ」
「篠塚の件で、集会所に用ができた場合は?」
「所轄の同行を付けて、参考聴取まで。それより先へは踏まない」
所掌の線引きとしては、それで全部だった。今日一日、手を縛っていた壁の正体でもある。桐野が手帳へ書き取って、閉じた。
「よし。決めるぞ」
隊長が地図の前へ立ち直った。
「篠塚未央の身柄を確保する。仕掛けは明朝、夜勤明けの動線だ。段取りはこれから詰める。長丁場になったが、ここからが本番だ。頭を切り替えろ」
「了解です」
返事が重なって、椅子が一斉に鳴った。八神がいくつ目かの紙コップを潰して、立ち上がる。
「あたし、段取りの前に顔洗ってくる。寝ないよ? 寝ないけど洗ってくる」
「終わったら今夜こそ寝ろ」
俺が返すと、ひらひらと手だけが振られた。
俺は写しの束を揃えて、卓の上へ目を落とした。内偵資料の束は、まだ半分も開かれていない。
被害者が靴底で積んだ一年半は、こちらの事案が閉じたあとも、開かれないままこの部屋を出て所轄へ帰る。俺たちが連れて行くのは、その端に載っていた一人だけだ。




