溺死
真間野区に入ると、道は細くなった。低い家並みのあいだに、小さな工場と倉庫のトタン塀が挟まる。日は正午を回っても高くならないまま、乾いた路面の白さだけを増していた。
規制線は、住宅街を南北に抜ける生活道路に張られていた。二号車が先に減速して、交差点寄りの路肩へ寄せる。俺は一号車を後ろへ着けた。
エンジンを切ると、幹線の音は遠かった。どこかで換気扇が低く唸り、電線を風が渡っていく。発見から一日あまり、野次馬はもういない。平日の昼の生活道路は、テープの一本がなければ、通り過ぎるだけの道だった。
車を降りる。冷気が外套の裾から入ってきた。風は強くないぶん、乾きが肌に張りつく。吐いた息が横へ流れて消えた。胸の内ポケットで、乗る前に割ったカイロがようやくぬるくなってきている。指先までは届かない熱だった。
「しおりん、カイロ生きてる?」
「はい。胸の内側に入れています」
八神の声は、移動中に車内スピーカーの内線で聞いていたときより低い。当直明けの軽口は、降りる前にどこかへ置いてきたらしい。
交差点の角には、消火栓の標識が一本立っていた。足元の舗装に、黄色い地下式の蓋。そこから北へ目をやると、規制線のテープと、内側に立つ立番の制服警官が見えた。
テープの内側から、コートの男が出てきた。歳は隊長より上に見える。テープを片手で押さえてくぐり、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「警察庁の室伏です。公安第三課から来ました」
隊長が手帳を提示した。男も所属を返す。被害者と同じ署の、刑事課だった。
「ご足労いただきまして」
頭の下げ方に、角がなかった。協力的で、こちらを疑う目もない。目の下には、夜を跨いだ色が残っている。それでも、書類鞄から封筒を抜く手だけは、事務の速さになりきらなかった。
「検視と鑑識の書面、それから発見時の現場写真です。現場保存は継続中……規制線は南北の二か所、倒位置にマーカーが一本。ご遺体は、昨日のうちに搬出しています」
「被害者の捜査メモは?」
「署で押収済みです。精査用の写しは、内偵資料と一緒にそちらへ送ります」
隊長の質問の先を読んで、余計な確認をさせない受け答えだった。現場の長い男だ。それが、かえって重かった。同じ受け答えを、死んだ同僚ともしてきたはずだった。
封筒が隊長の手へ渡る。男は指を離しかけて、離さなかった。
「……資料は、あいつが靴底で積んだものです。内偵の途中で、こうなりました。――続きを、お願いします」
それだけ言って、指を離した。声は最後まで事務の高さのままだった。下げた頭の深さは、事務のそれではなかった。
「確かに預かります」
隊長も、それ以上の言葉を足さなかった。慰めも約束も、この場では嘘になる。俺たちは、名乗ったとおりの公安ですらない。偽った身分の分だけ、返せる言葉は短くなる。
「割りを言う」
封筒を小脇に、隊長がこちらへ向き直った。
「水利の実地確認は八神と九条。蓋の一枚から当たり直せ。倒位置と書面の突き合わせは鳴瀬と桐野。俺は立ち会いに残る」
「了解です」
九条さんが端末を起こした。八神が携行ライトと巻尺を袋から出す。
「統真、そっちは頭を使う側だね。こっちは力仕事」
「頼んだ」
桐野は、もう俺の隣で封筒の中身を受け取る位置に立っていた。書面と写真の束が、隊長の手から桐野の腕へ移る。初任務の日は、役割をもらってから、ようやく足の置き場が決まっていた。いまは、持ち場のほうが先に決まっている。
「行くぞ」
規制線へ向かって、隊が動き出した。
◇◆◇
南のテープを、立番の地域課員が持ち上げた。目礼を返して、くぐる。所轄の刑事はテープの内側の南寄りに留まり、隊長がその横に立って立ち会いを受けた。
道は南北にまっすぐ延びていた。北の先は、〈黎明神教〉が集会所を置く一角へ続いている。有効幅は五メートルほど。西側は工場と倉庫のブロック塀にトタン塀、東側は戸建ての塀と生垣が続く。足元には、蓋つきの側溝が一本延びていた。挟まれた路面が、規制線の内側で乾いていた。
古いアスファルトだった。補修の継ぎ目が幾筋か走り、目地が欠け、全体に薄いほこりを被っている。十二月の乾きが、ほこりを白く軽くしていた。
何もない。それが第一印象だった。
水を撒いた跡も、洗い流した跡もない。こすった跡も、争った形跡もない。あるのは、道の中ほど、やや西寄りに立てられた鑑識の黄色いマーカーだった。一本きりだ。
俺はマーカーの南脇に膝を落とした。しゃがむと、路面の冷えが膝から上がってくる。胸のカイロは、ここまでは効かない。
近づいて、はじめて見えるものがあった。マーカーを中心に、路面のほこりが外へ押しやられて、薄い輪をつくっている。長さは人ひとり分。幅も、横たわった人ひとりに収まる。輪の内側は外より色が濃く、縁に寄せられたほこりが乾いて盛り上がっていた。
ペンライトを浅く寝かせて、縁へ当てる。押しやられたほこりが、低い段になって影を引いた。掃いたのでも、拭いたのでもない。内から外へ、均等に押された段だった。
「発見時の写真を」
「はい。時系列で並べてあります」
桐野が倒位置を挟んだ向かい側へ回り込み、膝の上で束を開いた。引きで撮られた一枚が、俺へ向けられる。
写真の中では、この輪の内側がはっきり濡れていた。うつ伏せの人の形と、その形のとおりの黒い濡れ。輪の外の路面は、写真の中でも乾いている。
流れ出た跡も、滴りも、飛沫もない。引きずった痕は、輪のどの方向にも続いていなかった――南の交差点、北の集会所、東の側溝、西の塀、そのどこにも。
路面には勾配がある。雨水を東の側溝へ逃がすための、わずかな傾きだ。人ひとりを溺れさせる量の水がここへ出れば、水は勾配なりに東へ走って、側溝へ落ちる。俺はその帯を目でなぞった。乾いたほこりが、途切れずに続いているだけだった。
街灯は、南北の端に一基ずつ。倒位置のあたりは、夜には光の切れる位置だ。目撃が出ないのも、配置のとおりだった。
水は、この路面に出ていない。
「開けるよー」
東の側溝で、八神が最初の点検蓋に手を掛けた。ガコン、とコンクリートが起こされ、縁の砂が乾いた音で落ちる。ライトの光が中へ差し込まれた。
「底、乾いてる。泥がひび割れてる。水、当分流れてないねこれ」
「蓋の縁は?」
「目地に砂が噛んで固まってる。動かした形跡なし。ここしばらく、誰も開けてないよ」
八神は蓋を戻し、次へ移る。一枚起こしては照らし、縁を確かめ、戻す。重い音が、区間の北へ等間隔に進んでいった。手を抜く間隔ではない。区間の蓋を、全部起こすつもりの音だった。
九条さんは東側の家並みに沿って歩いていた。門扉ごとに足を止め、端末の地図と敷地を突き合わせる。生垣の向こうでカーテンが動いた。住人の目だ。九条さんは会釈だけ返して、次の門へ移った。イヤホンの内線に、抑えた声が乗る。
『散水栓は、この並びはどの家も門の内側です。道路側から使うには、夜中に他人の敷地へ入ることになります。物音の通報は、当夜一件もありません』
『水道局の照会結果も出ています。当夜、この区画の使用量に目立った動きはなし。どの家の栓からも、人を溺れさせるだけの水は出ていません』
八神が最後の蓋を戻して立ち上がり、腰を伸ばした。
「残り、消火栓。南の角のやつ見てくる」
テープをくぐって、交差点の角まで80メートル。赤い髪が遠ざかり、黄色い蓋の前でしゃがむのが見えた。しばらくして、戻ってくる。
「だめだね、あれ。蓋が錆と砂で固着してる。こじ開けた傷もないし、開栓金具の痕もない。当分、誰も触ってないよ」
「側溝の点検蓋、各戸の散水栓、消火栓。この区間で使えたはずの水利は、以上で全部です」
戻ってきた九条さんが、端末の地図をこちらへ向けた。打たれた点が、一つずつ消し込まれている。
見当たらない、ではない。一つずつ当たって、全部潰した。それでも、この道で人が溺れている。
「所見を読みます」
桐野が書面の頁を繰った。
「死因は溺死。肺と気道から、相当量の水。……吸引水から、珪藻もプランクトンも検出されていません。溶存成分は、区内の水道系統とも、周辺のどの水源とも一致しない、とあります」
「一致しない、というのは?」
「川や池の水でも、水道の水でもないんです。この方が吸い込んだ水の出どころは、検査の照合先のどこにもありません」
俺は写真の束へ目を戻した。桐野は、写真から目を外していない。遺体の写った頁でも、めくる手が止まらない。初日に喉を鳴らした新人は、そこにいなかった。俺のほうにも、紙面を伏せてやる理由がもうない。
「鳴瀬先輩。所見の、この二か所なんですが」
桐野が頁の一点を指で押さえて、俺のほうへ向けた。
「手指と足底の浸軟が、ごく軽度、とあります。皮膚のふやけです。水に浸かると、指先の皮膚から白くふやけていきます。この程度だと、水に浸かっていた時間は……分の単位に、届いていません」
「短いってことか」
「短すぎます。どこかの水槽や浴槽で溺れさせて、引き上げて、ここまで運んだのなら、浸かっている時間はもっと長くなります。溺れて死ぬまでにかかる時間だけでも、この所見より深くふやけるはずです」
語尾は、最後まで落ちなかった。頁がもう一枚めくられる。
「もう一か所。死亡推定時刻と、発見時の体温です。濡れた身体は、乾いた身体より速く冷えます。冷えた路面に接していれば、なおさらです。この下がり方は、濡れたまま、この路面に横たわり続けた冷え方です。乾いた遺体を運んできて置いたのなら、数字がここまで落ちません」
桐野の顔が書面から上がった。
「別の場所で溺れて運ばれたのなら、浸軟はもっと深く、体温はもっと高く残るはずです。所見は、両方の逆を指しています。……私に言えるのは、ここまでです」
言い切って、判断はこちらへ渡された。推理ではなく、専門知の提示だった。だから、動かせない。
「九条さん」
「聞いていました」
九条さんが端末を提げたまま寄ってくる。眼鏡の奥の目が、書面と桐野のあいだを往復した。
「第一報の卓で、私が残した線です。机の上では消せませんでした。――いま、消えましたね」
「浸軟って、そんなところまで見るんだ……。しおりん、いまのすごくない?」
「……検視官の所見の、受け売りです。読み方を、覚えていただけで」
束を揃え直す桐野の手が必要より長く動き、八神はそれ以上は言わず、ライトを袋へ戻した。
隊長が立ち会いの位置を離れて、こちらへ来た。所轄の刑事は規制線の南寄りに残っている。ここからは、誰に言われるでもなく声を落とす。この先の組み立ては、封筒の外へは出ない。
「まとめてくれ、鳴瀬」
俺は立ち上がって、膝のほこりを払った。順に並べる。
「水の持ち込みは初動で潰れています。大量散水の痕もなし。いまので、この区間の水利も全部潰れました。側溝、散水栓、消火栓。どれも当夜使われていません。そもそも路面に水が出た形跡がない。勾配の先の側溝の底まで、乾いたままです」
「運びの線は?」
「桐野の指摘で潰れました。浸軟が浅すぎて、よそで溺れた時間がつくれない。体温は、濡れたままここで冷えた数字です。遺体は運ばれていない。この場所で溺れています」
「で、肝心の水は、どこにもない」
「ありません。吸った水自体、どの照合先とも一致しない水です。残る説明は一つだけです。この場所で、外から持ち込まれていない水に、全身が包まれた。人の手の犯行として組むなら、もう、それしか残りません」
口に出すと、あらためて筋が通らなかった。その通らなさだけが、一本の筋になっていた。
「超能力の行使。現場判定は、それで立てる」
隊長が短く言った。異論は出なかった。挟める材料が、この道のどこにもなかった。
第一報を聞いたときから、引っかかりはあった。現場に来れば、見落としの種のひとつも拾えると思っていた。逆だった。拾えるものを全部拾い、潰せる線を全部潰して、残ったのは、起こり方の説明がつかない、その一点だった。解けたのではない。逃げ道が、なくなった。
「引き上げるぞ。詰めは庁舎だ」
隊長が手袋を外しながら、所轄の刑事のもとへ歩いていく。現場は返す、規制の解除はそちらの判断で――短いやり取りだった。刑事は、こちらの検分の中身を訊かなかった。訊いても返らないと弁えている相手に、俺たちは今日も身分だけを置いていく。借りの増える仕事だった。
テープの際で、桐野が足を止めて倒位置を振り返った。手帳は出さなかった。書き足すことは、書面の側にもう揃っている。
立番の警官がテープを持ち上げ、俺たちは規制線の外へ出た。日はわずかに傾いて、乾いた道の上には、俺たちの靴の跡さえ残っていなかった。
「乗って乗って。あっためとくから」
八神が二号車のドアを開けながら言った。声の軽さが、少し戻っている。
一号車に乗り込む。ハンドルは、また冷え切っていた。
水のない場所で、人がひとり溺れて死んだ。それはもう、引っかかりではなかった。
エンジンをかける。ミラーの中で規制線のテープが揺れて、遠ざかった。
庁舎まで、来た道を四十分。詰めるものは、助手席の封筒の中で増えていた。




