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最強の非才 ―アノマリー―  作者: プリケツ星人
第4章

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冬の底

 暖房が、低い音を立てて回っている。


 執務室の窓から入る日は浅かった。向かいの建物の影が長く、九時を回っても、光は床の半ばで止まっている。十二月に入って、日はまた短くなった。


 俺は自席で、先週の案件の報告書を直していた。誤記の指摘が二か所、戻ってきている。朱を入れて、綴じ直して、決裁へ回す。それだけの仕事だ。


 急ぎはない。あの夏の旅行から、こういう朝のほうが普通になっている。


「……終わったぁ……」


 通路を挟んだ席で、八神が机に突っ伏した。当直明けだ。椅子の背には厚手の上着が掛けっぱなしで、机の端には空の紙コップが二つ並んでいる。


「仮眠は?」


「二時間。明け方に一件、持ち込みが来てさ」


 顔だけこちらへ上げる。


「ねえ統真、当直の回り、早くなってない? あたし先月、二回入ったんだけど。しかも新しく発現したっぽい案件ばっかり。最近多いよね、ああいうの」


「数えてないが、減ってはいないな」


「他人事だ……。じょーくんも何か言ってよ」


「当直明けの方は、仮眠室で休んでいて構いませんよ」


 九条さんは端末から目を上げずに答えた。


「業務時間内に机で寝られると、私が隊長へ報告する手間が増えますので」


「塩……。この隊、あたしにだけ塩……」


 八神はそれだけ言うと、机に戻った。俺も報告書に戻る。


 部屋では、端末を叩く音と、紙をめくる音だけが目立つ。桐野は資料キャビネットの前で、綴じ終えたファイルを棚へ戻していた。背表紙の並びを指でなぞって確かめ、ずれた一冊を差し替える。誰かに言われてやる手つきではなかった。


 九鬼隊の島は半分が空席だった。残った戸坂さんが、欠伸を噛み殺しながら書類の山を崩している。静かな朝は、めずらしくもない。隊はこの数か月、こういう時間の中にいた。


 窓の外は晴れて、風が強い。ガラスに手を寄せると、外の冷えがそのまま伝わってきた。街路樹はとうに葉を落として、光だけが白い。


 隊長の席で卓上の電話が鳴ったのは、そのすぐあとだった。


「はい、室伏。……ええ。……はい」


 受け答えが、途中から短くなる。隊長は手元の端末を起こし、画面へ目を走らせながら聞いていた。相槌の間隔で、内容の重さが知れた。通話は長くない。


「――受けます。資料は、このままこちらへ」


 受話器が置かれた。隊長が椅子を回し、部屋を見渡す。


「仕事だ。打合せ卓に集まってくれ。うちの隊で受けた」


 その一言で、朝の質が変わった。八神が上着を椅子に残したまま立ち、九条さんが端末を抱えて席を離れる。桐野はファイルを戻し切ってから、手帳を持って卓へ来た。


 所轄で説明のつかなくなった事案が、警察庁の窓口を経てうちへ降りてくる。経路自体は、いつもどおりだ。いつもと違うところは、このあとで分かった。


 卓を囲む。俺の隣が桐野、向かいに八神。九条さんは資料を広げやすい角に着き、隊長はホワイトボードを背にして立った。届いた資料が、卓の端末へ流し込まれていく。


「場所は真間野区。うちの北隣だ」


 隊長がボードに区名を書いた。マーカーの音が、暖房の音より大きく響く。


「昨日の早朝、区内の路上で、所轄署の警察官が遺体で見つかった。所轄が初動を回して、昨日のうちに上へ上げてきた」


「早いですね」


 九条さんが言った。


「一日で上げたということは、初動の段階で、所轄の手に余ったわけですが」


「理由は死因だ」


 隊長はボードに日時を書き足して、それから、言葉を切った。


「――溺死」


 マーカーの先が、その二文字の下で止まる。


「現場の路上に、水は?」


「ない。海も川も、貯水池もない。水場から遠い住宅街の路地だ。当夜、雨も降っていない」


「溺死の所見は固いんですか?」


「所轄の検視段階では固い。詳細はうちで詰め直すが、第一報はそう言ってる」


 卓の上で、誰かの椅子が軋んだ。


 それきり、音がなかった。八神が何か言いかけて、口を閉じたのが視界の端に見えた。乾いた路上で、人がひとり、溺れて死んでいる。資料をめくる手が、どこの席でも止まっていた。


「続けるぞ」


 隊長が資料の画面を先へ送った。


「被害者は四十代。所轄に長い、現場の警察官だ。家族は、奥さんと中学生の子どもが一人」


「中学生……」


 八神が小さく繰り返した。九条さんは端末へ視線を戻す。


「もう一つ。こっちは背景の話だ」


 画面がまた送られる。


「被害者は、警邏中の地域課員じゃない。所轄はここのところ、〈黎明神教〉という新興の宗教団体を内偵していて、被害者はその担当だった」


 ボードに、団体名が書き足された。


「真間野区の住宅街に集会所を置く団体だ。元倉庫の平屋を転用してる。信者は数百人。集会は週に数回、夜が中心で、駅前や商店街で勧誘もやってる。ここ最近、そのどれもが増えて、活発になってるそうだ」


「事件になるようなことを?」


 八神が訊いた。さっきまでの声より低い。


「いや。近所からの苦情と、行政への相談が散発してる段階だ。教義に暴力の教唆はなし。ただ、法人格を持たない任意団体でな。届出の義務も、監督する窓口もない。所轄は個別の違法行為を拾う形でしか手を出せなくて、内偵が長引いてた」


「その内偵の資料は?」


「まるごと、うちへ引き継がれる」


 九条さんが眼鏡の位置を直した。


「珍しいですね。移譲で来るのは初動資料まで、というのが通例です。前の事案のときも、所轄の継続捜査は途中で切れて、こちらには渡りませんでした。向こうが積み上げたものごと寄越すのは、初めて見ます」


「担当が死んでるからな。向こうも、内偵の継続どころじゃない」


 警察官が、職務の途中で死んだ。その事実に誰も触れないまま、卓の空気は資料が進むにつれて低くなっていった。


 桐野は手帳を開いて、ボードの字を写し取っていた。ペンを持つ手の位置が低く、頁を押さえる左手が動かない。手首から先だけで字を運んでいる。


 書く速さは、話す速さに追いついている。分からない語で手が止まることも、聞き返すこともない。手帳は見開きで使っていた。右の頁に事実だけを並べて、左は空けてある。あとから線を引くための余白だと、書き方で知れた。


 写し終えるたびに顔を上げて、ボードと隊長を交互に見る。前のめりにもならず、椅子の背にも預けず、卓との距離が最初から変わらなかった。俺は資料をめくる合間に、その手元へ目をやっていた。


「隊長。確認させてください」


 語尾は、揺れなかった。


「発見現場の路上に、あとから水を持ち込んだ線……消火栓や、給水車のような設備を使った線は、所轄側で潰れているんでしょうか?」


「九条」


「初動で当たっています」


 九条さんが資料を繰りながら答える。


「現場の半径に使える水利はなし。路面に大量の水を撒いた痕もなし、です」


「では、別の場所で溺れて、遺体だけ運ばれた線は……そちらも、薄いということでしょうか?」


「引きずった痕跡も、当該時間帯の車両の目撃も、初動では出ていません。ただ、これは所轄が机の上で当たった範囲の話です。現地の検分は、まだ誰もやり直していませんから」


 九条さんは、そこで資料から目を上げた。


「机の上で消せるのは、ここまでです。この線は、残しておきましょう」


「……分かりました。ありがとうございます」


 桐野が手帳へ戻る。潰れた線と残した線に、別々の印をつけていく書き方だった。


 口を挟む余地は、どこにもなかった。


 初任務の朝は、手帳を渡すところから始めた。肩に力が入りすぎだと注意して、息だけは止めるなと言った。あれと同じ、概要と質問の場だ。いまは渡すものがなく、注意することもない。質問は、教わるためのものから、線を潰すためのものに変わっている。


 訊く順番にも、無駄がなかった。水の持ち込み、遺体の搬入。近い順に当たって、確かめる相手は九条さんへ向ける。教えた覚えのない手順だった。少し前なら、俺が先に訊いてやる場面だ。


 手が空くのは、教育係として悪くない。俺は自分の端末の資料へ目を戻した。


 読み直しても、同じだった。時系列、発見状況、検視の所見。事実は揃っている。水のない路上で人が溺れて死んだ、その起こり方だけが、どこにも書かれていない。


「見立ては、現場を見てからだ」


 隊長が資料を閉じ、マーカーをボードの受けへ戻した。


「支度して出る。現場まで、車で約四十分。車両は二台、割りは装備室で言う。九条、内偵資料は移動中に頭へ入れといてくれ」


「了解です」


「行くよ、しおりん。眠気、飛んだわ」


「はい」


 短い返事が重なって、共有は終わった。


 装備室のロッカーを開けると、冬用の外套が掛かっている。袖を通すのは、この冬はじめてだ。


 部屋の空気は、廊下よりも冷えている。暖房はここまで届かない。ロッカーの金具が、指に冷たかった。


 俺は脇差をベルトの後ろへ通し、ホルスターを留めて、その上から外套を羽織った。布地が肩に重い。夏のあいだ、この重さを忘れていた。


 隣の列では、桐野が自分の装備を手順どおりに整えていた。手帳と端末を上着の内側へ収め、外套の前を留める。俺が確かめるより先に、支度が終わっている。


「統真、カイロいる? 現場、路上だよ」


「もらう。長くなるかもしれん」


「しおりんのぶんも入れとくね」


 八神が携行品の袋に使い捨てカイロを何枚か押し込んだ。九条さんは端末を二台提げて、もう出動口の前にいる。


「一号車は俺と鳴瀬と桐野。二号車は九条と八神。降りるぞ」


 隊長が装備室の戸を開けた。


 エレベーターで地下へ降りると、駐車場の空気は外と変わらない冷たさだった。吐く息が白く残る。夏には排気の匂いがこもっていた場所だ。いまは匂いごと冷気に沈んで、床の油の跡まで硬く見える。


 俺は一号車の運転席に入った。隊長が助手席、桐野が後ろ。シートは冷え切っていて、ハンドルを握ると指先から熱を取られた。


 エンジンをかけた。始動の音が、コンクリートの床を低く渡っていく。温まるまで、音の立ち上がりが重い。


 三人ぶんの息で、フロントガラスの内側がすぐに曇る。送風を上げて、視界が戻るのを待つあいだ、車内に声はなかった。後部で桐野がシートベルトを引く音がした。ミラーの中で、二号車のヘッドライトが点く。


 スロープを上がって、地上へ出る。冬の低い日が、正面から差し込んだ。眩しいだけで、ガラス越しの光に暖かさはない。冬枯れの並木の影が、路面を次々に流れていった。


 水のない場所の、溺死。


 その引っかかりを積んだまま、車は北へ向かった。


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