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最強の非才 ―アノマリー―  作者: プリケツ星人
第3章

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凪の夜

 宴がはけたのは、夜も更けてからだった。


 膳が下げられ、酒の回った面々が、めいめいの部屋へ引きあげていく。戸坂さんは廊下で一度ふらつき、瀬戸に支えられて歩いていった。八神は桐野を引っぱって、土産の包み直しをするのだと自分たちの部屋へ消えた。


 俺は、なんとなく寝つけそうになかった。


 手ぬぐいを一本持って、大浴場へ向かう。男湯の暖簾をくぐると、湯気と石鹸の匂いが、もわりと顔にかかった。


 脱衣所には、もう人気がなかった。


 先に入っていた九条さんや宮田さんの脱いだ籠も、片づいている。ただ、奥の籠に一つだけ、誰かの脱いだものが残っていた。夜更けのこの時間、男連中はあらかた上がったらしい。


 俺は服を脱いで、内湯へ入った。


 洗い場で体を流し、湯船に肩まで沈む。連戦の疲れと、宴の火照りが、湯の中でゆっくりとほどけていく。窓の外からは、かすかに波の音がした。


 内湯の奥に、戸が一枚あった。その向こうが露天らしい。


 俺は湯から上がって、その戸を抜けた。


 夜気が、濡れた肌に心地よかった。


 露天は、海に向いた岩風呂だった。塀と植栽が海側を低く区切っていて、その向こうに、暗い水平線が横たわっている。湯気が、星のない空へ立ちのぼっていた。


 先客が、一人いた。


 岩のへりに背を預け、湯に浸かって、こちらを見ていた。


 俺は、足を止めた。


 茶色の髪を後ろで結わえた、細身の男。湯気の向こうでも、見間違えるはずがなかった。


 影山透だった。


 全身の血が、すっと冷えた。手が、無意識に腰のあたりを探る。脇差も、銃もない。当たり前だった。ここは温泉で、俺は裸だ。


 透も、同じだった。武器の類は、何も身につけていない。湯の中で、ただ俺を見ている。


「よう」


 透が、軽く片手を上げた。


 その口ぶりが、あまりに昔のままで、俺は一瞬、言葉に詰まった。


「……なぜ、ここにいる」


「休暇だよ。お前らと一緒。偶然な」


「信じられるか」


「信じなくていい。けど、見てのとおりだ」


 透が、両手を湯から出して、ひらと振ってみせた。何も持っていない、とでも言うように。


「殺り合いたいなら止めないけど、俺もお前も丸腰だぞ。湯の中で素手で揉み合って、のぼせて二人とも沈むのがオチだ」


「……」


「休戦にしないか? 湯から上がるまで。それくらいは、いいだろ?」


 俺は、答えなかった。


 答えの代わりに、透から一番遠い岩のへりまで回り込んで、湯に身を沈めた。距離を取る――それが、せいぜいの返事だった。


 透は、咎めもしなかった。ただ、口の端を少し上げて、また背を岩に預けた。


「そう警戒すんなって。ここで何かする気なら、とっくにやってる」


「黙ってろ」


 短く言って、俺は前を向いた。


 暗い海が、目の前にあった。波の音だけが、間を埋めていく。


 恨みは、消えていなかった――手を伸ばせば届く場所に、まゆりを殺した男が浸かっている。それでも、ここで暴れたところで意味がない、その分別だけは残っていた。


 だから俺は、ただ問うことにした。


「透」


「ん?」


「なぜ、まゆりを殺した」


 声は、自分でも驚くほど、低く平らだった。


 湯気が、二人の間で揺れた。透は、しばらく海のほうを見ていた。


「……それ、本気で聞いてるのか?」


「本気だ」


「答えたところで、お前は信じない」


「答えてみろ」


 透は、力のない、乾いた笑いだけで応えた。


「無理だな。いま俺が何を言っても、お前の中じゃ、もう答えは決まってる。違うか?」


「決まってるなら、なぜ聞くと思う」


「聞いても、お前は俺の言葉を、犯人の言い訳としてしか聞けない。だろ?」


 俺は、答えなかった。


 答えられなかった、と言うほうが、近かった。


 透は、はぐらかしている。それは分かった。けれど、その横顔には、追い詰められた犯人の必死さも、開き直った悪党の傲慢さもなかった。ただ、昔と同じ顔で、昔と同じように、俺の機嫌をうかがっている。


 仲直りの糸口を探している、そういう顔だった。


 違和感は、恨みのそばに消えずにあった。


「お前らしくない」


 気づいたら、そう言っていた。


「何が」


「お前が本当に、まゆりを殺すような奴だったなら。こんなふうに、軽口なんか叩かない」


「買いかぶりだろ。人は変わるさ」


「変わったのか?」


「さあな」


 透は、それきり、その話を畳んだ。


 湯を片手ですくい、また落とす――ぴしゃ、と水が跳ねた。


「統真」


「……」


「一個だけ、いいか? これは、休戦の礼だと思ってくれ」


 俺は、横目で透を見た。透は、海を見たままだった。


「これから、お前はいろんな事件に出くわす。仕事柄な」


「だから?」


「その中で――いや、これまでにも、確保の前と後で、人が変わったみたいに豹変した奴は、いなかったか? これから先も、そういう奴がいたら、よく見ておけ」


 波の音が、大きくなった。


「豹変?」


「ああ。捕まえるまでは、まるで別人みたいに、剣呑な顔をしてるのに、取り押さえたとたん、憑き物が落ちたように、元の、まともな顔に戻る。そういう奴だ」


「何の話をしてる」


「いまは分からなくていい。けど、今後、必ず遭遇する」


 透は、そこで初めて、こちらを向いた。


「注意して、その線を追え。お前なら、たどり着ける」


 俺は、透の目を見返した。


 その目には、敵意も、嘲りもなかった。むしろ、何かを託そうとする、奇妙な真剣さがあった。


 意味は、まるで分からなかった。豹変する人間。追うべき線。なぞなぞでも吹っかけられているようで、妙な気分だった。


 ただ、その言葉は、なぜか引っかかって、消えなかった。


「……それだけか?」


「それだけだ」


 透は、立ちあがった。湯が、ざあと音を立てて流れ落ちる。


「のぼせる前に上がるわ。お前は、ゆっくり浸かってけ」


 俺は、何も言わなかった。


 透は、露天の戸口で一度だけ足を止めた。


「まゆりのこと、いまでも――」


 そこで、言葉を切った。


 続きは、出てこなかった。透は、軽く手を上げて、それきり内湯のほうへ消えていった。


 あとには、湯気と、波の音だけが残った。


 俺は、暗い海を、長いこと見ていた。


◇◆◇


 湯から上がっても、寝つけそうにはなかった。


 浴衣に着替えて部屋へ戻る途中、玄関のほうへ向かう自分の足に、自分で気づいた。透の言葉が、頭の奥で、ずっと鳴っていた。


 外の風に、当たりたかった。


 海月亭の玄関を出ると、夜の凪洲は、しんと静まっていた。昼間の人いきれが嘘のようだ。街灯のまばらな道を下っていくと、すぐに砂の感触が、下駄の裏に変わった。


 白凪浜だった。


 昼にあれだけ賑わっていた浜は、夜には静まり返っていた。海の家は雨戸を閉ざし、パラソルも畳まれている。月明かりと、潮の匂いと、絶え間ない波の音。それだけが、砂浜を満たしていた。


 俺は、波打ち際の手前まで歩いて、暗い海に向かって立った。


 冷たい潮風が、火照った頬を撫でていく。


 まゆりを殺した男が、なぜ、あんな顔で笑うのか。なぜ、休戦などと言い出すのか。なぜ、別れ際に、まゆりの名前を、言いかけて飲み込んだのか。


 考えても、答えは出なかった。


 恨みは、確かにある。それは、揺るがない。けれど、さっきの湯の中で、俺は確かに、透と「話して」しまった。敵としてではなく、昔の透と話すように。その事実が、恨みの隣で、座りの悪い違和感になって残っていた。


 砂を、踏む音がした。


 俺の、後ろで。


 振り返ると、暗がりの中に、小さな人影が立っていた。


 浴衣姿の、桐野だった。


「桐野?」


「……すみません」


 桐野は、肩をすくめるようにして、数歩、近づいてきた。


「あの……八神さんの、お土産の包み直しを手伝って。それが終わって部屋を出たら、ちょうど玄関のところで、鳴瀬先輩が一人で出ていくのが見えて。なんだか、その……気になって、つい」


「ついてきたのか」


「はい。ごめんなさい。声、かけそびれて、ずっと、後ろから」


 桐野は、うつむいて、浴衣の袖を握っていた。新人らしい、おどおどした仕草だった。


 俺は、少し笑ってしまった。


「尾行が下手すぎる。砂の音で、丸わかりだ」


「うっ……すみません」


「責めてない。座るか」


 俺は、乾いた砂のあたりに腰を下ろした。桐野が、少し迷ってから、隣に、間を空けて座る。


 二人で、しばらく、暗い海を見ていた。


 波が寄せては、引いていく――その繰り返しが、不思議と、気持ちを落ち着かせた。


「鳴瀬先輩」


 先に口を開いたのは、桐野だった。


「変なこと、聞いてもいいですか?」


「内容による」


「あの執務室で、先輩が話してくれた、昔のことです」


 俺は、海を見たまま、続きを待った。


「養成機関の同期に、月城まゆりさんって人がいて。先輩の、仲間だった。その人を……影山さんに、殺された。月城さんを手にかけたのが、影山さんだって。先輩、自分で、そう話してくれましたよね」


 波の音が、間を埋めた。


「あのとき先輩、何か、言いかけて、飲み込んだ気がして。ずっと、引っかかってたんです。……月城さんって、先輩にとって、本当は、どういう人だったんですか?」


 桐野は、膝を抱えて、そこに顔を半分埋めた。


「立ち入ったこと、聞いてるのは、分かってます。いやなら、いいんです。忘れてください」


 俺は、すぐには答えなかった。


 答えるべきか、迷った。けれど、この後輩の、まっすぐな問いを、はぐらかすのも違う気がした。


 あの執務室では、仲間、で止めた。隊のみんなの前で、それ以上は、言えなかった。


「……まゆりは」


 気づいたら、口を開いていた。


「俺の、恋人だったんだ。〈ゲート〉の、同期でな」


 桐野が、顔を上げた。


「養成機関の頃、俺とまゆりと透の三人で、いつも一緒にいた。透が失踪して、捜しているうちに、まゆりまで、いなくなった。見つけたときには、もう、遅かった。執務室で、隊のみんなに話したとおりだ」


「殺したのは、透だ」


 俺は、海を見たまま、言い切った。


 その断定の中に、ほんのわずか、湯の中で覚えたあの違和感が、混じり込みそうになった。俺は、それを、無理やり押し戻した。


「ただ、あのときは、まゆりを、仲間だとしか言わなかった」


 言葉にすると、喉の奥が、固くなった。


「恋人だったってことは、みんなの前じゃ、言えなかったんだ」


 桐野が、息を呑むのが、隣で伝わってきた。


「先輩……」


「お前も、見ただろう。あの〈宵闇〉の夜、黒越を撃って、消えていった三人組。その真ん中にいたのが、透だ。いまのあいつは、もう、こっち側の人間じゃない。敵だ」


「そんな……先輩、それ、つらすぎます」


 桐野の声が、震えていた。


 見ると、桐野は、目に、うっすら涙をためていた。月明かりに、それが光った。


「親友だった人に、大事な人を、殺されて。それでも先輩は、その人と、戦わなきゃいけなくて……」


「泣くなよ。お前が泣く話じゃない」


「だって……」


 桐野は、袖で、ぐいと目元をこすった。


 それから、不意に、背筋を伸ばした。


「私、決めました」


「何を」


「早く、一人前になります」


 桐野の声から、さっきまでの、おどおどした揺れが、消えていた。


「いまの私は、足手まといで、先輩に教えてもらってばっかりで。でも、いつか、先輩の隣で、ちゃんと戦える人になりたいです。先輩が、そういうものを、一人で抱えなくてすむように」


 俺は、桐野の横顔を見た。


 暗がりの中で、その目だけが、妙にはっきりと、前を向いていた。


「……ずいぶん、大きく出たな」


「すみません。生意気でした」


「いや」


 俺は、また海に目を戻した。


「悪くない」


 桐野は、それから、少し迷うように、声を落とした。


「あの……一つ、聞いてもいいですか? 影山さんが、いま所属してる組織。〈影環〉」


「ああ」


「あの〈宵闇〉の夜、私も、あの三人を見ました。でも、あれが、いったい、何だったのか。〈影環〉が、本当は、どういう組織なのか。先輩は、どこまで、知ってるんですか?」


 その問いを、俺は、新人らしい向学心として受け取った。


 初めて〈影環〉と現場で出くわした後輩が、得体の知れない相手を、もっと知ろうとしている。先輩の事情を聞いて、奮起している。それだけのことだった。


 答える前に、頭をよぎるものがあった。〈影環〉の捜査は、上の指示で、止められたままだ。なぜかは、いまも聞かされていない。それを、俺は、飲み込んだ。


「俺も、たいして知らん。正体の見えない連中だ。だが、焦るな。そのうち、嫌でも関わることになる」


「はい」


 桐野は、こくりと頷いて、また膝を抱えた。


 二人で、もう一度、海を見た。


 さっきまで、一人で抱えていた違和感は、不思議と、少しだけ薄まっていた。誰かに、過去を話したのは、ずいぶん久しぶりだった。話したところで、何かが解決したわけではない。それでも、この後輩の前で言葉にしたことで、胸の底のものが、ほんの少し、軽くなった。


「冷えてきたな。戻るぞ」


「はい」


 俺たちは、立ちあがって、砂を払った。


 来た道を、二人で、黙って上っていく。途中で、桐野が振り返って海を見たのが、横目に見えた。


◇◆◇


 部屋に戻ると、男連中は、もう寝入っていた。


 並んだ布団のあちこちから、規則正しい寝息が聞こえる。瀬戸が、いちばん端で、行儀よく仰向けになっていた。


 俺は、足音を忍ばせて、自分の布団に潜り込んだ。


 天井の闇を、しばらく見ていた。


 長い夜だった。


 湯の中の透の顔と、夜の海岸の桐野の涙が、交互に浮かんだ。恨んでいるはずの男と、昔のように言葉を交わしてしまった。その事実は、消えなかった。寝ようとするたびに、何度も浮かびあがってくる。


 透が、まゆりを殺した。それは、揺るがない。


 なのに、なぜ、あんな目で、俺に何かを託そうとしたのか。


 ――確保の前と後で、豹変する奴。


 意味は、やはり分からなかった。けれど、その言葉だけは、消えずに、闇の中に浮かんでいた。


 枕元に置いた浴衣の袂で、何かが、かさりと鳴った。


 袂に入れたままの、アザラシのキーホルダーだった。昼に、桐野が、俺の手のひらに載せたやつ。間の抜けた顔が、暗がりでも、なんとなく分かった。


 俺は、それを、枕元に置き直した。


 明日には、また、いつもの日常が戻ってくる。透のことも、桐野のことも、いったんは、胸の奥にしまうことになる。


 それでいいのかどうか、俺には、まだ分からなかった。


 ただ、波の音が、ここまで、かすかに届いていた。


 俺は、目を閉じた。


 眠りは、思ったより、早く来た。


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