凪の夜
宴がはけたのは、夜も更けてからだった。
膳が下げられ、酒の回った面々が、めいめいの部屋へ引きあげていく。戸坂さんは廊下で一度ふらつき、瀬戸に支えられて歩いていった。八神は桐野を引っぱって、土産の包み直しをするのだと自分たちの部屋へ消えた。
俺は、なんとなく寝つけそうになかった。
手ぬぐいを一本持って、大浴場へ向かう。男湯の暖簾をくぐると、湯気と石鹸の匂いが、もわりと顔にかかった。
脱衣所には、もう人気がなかった。
先に入っていた九条さんや宮田さんの脱いだ籠も、片づいている。ただ、奥の籠に一つだけ、誰かの脱いだものが残っていた。夜更けのこの時間、男連中はあらかた上がったらしい。
俺は服を脱いで、内湯へ入った。
洗い場で体を流し、湯船に肩まで沈む。連戦の疲れと、宴の火照りが、湯の中でゆっくりとほどけていく。窓の外からは、かすかに波の音がした。
内湯の奥に、戸が一枚あった。その向こうが露天らしい。
俺は湯から上がって、その戸を抜けた。
夜気が、濡れた肌に心地よかった。
露天は、海に向いた岩風呂だった。塀と植栽が海側を低く区切っていて、その向こうに、暗い水平線が横たわっている。湯気が、星のない空へ立ちのぼっていた。
先客が、一人いた。
岩のへりに背を預け、湯に浸かって、こちらを見ていた。
俺は、足を止めた。
茶色の髪を後ろで結わえた、細身の男。湯気の向こうでも、見間違えるはずがなかった。
影山透だった。
全身の血が、すっと冷えた。手が、無意識に腰のあたりを探る。脇差も、銃もない。当たり前だった。ここは温泉で、俺は裸だ。
透も、同じだった。武器の類は、何も身につけていない。湯の中で、ただ俺を見ている。
「よう」
透が、軽く片手を上げた。
その口ぶりが、あまりに昔のままで、俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……なぜ、ここにいる」
「休暇だよ。お前らと一緒。偶然な」
「信じられるか」
「信じなくていい。けど、見てのとおりだ」
透が、両手を湯から出して、ひらと振ってみせた。何も持っていない、とでも言うように。
「殺り合いたいなら止めないけど、俺もお前も丸腰だぞ。湯の中で素手で揉み合って、のぼせて二人とも沈むのがオチだ」
「……」
「休戦にしないか? 湯から上がるまで。それくらいは、いいだろ?」
俺は、答えなかった。
答えの代わりに、透から一番遠い岩のへりまで回り込んで、湯に身を沈めた。距離を取る――それが、せいぜいの返事だった。
透は、咎めもしなかった。ただ、口の端を少し上げて、また背を岩に預けた。
「そう警戒すんなって。ここで何かする気なら、とっくにやってる」
「黙ってろ」
短く言って、俺は前を向いた。
暗い海が、目の前にあった。波の音だけが、間を埋めていく。
恨みは、消えていなかった――手を伸ばせば届く場所に、まゆりを殺した男が浸かっている。それでも、ここで暴れたところで意味がない、その分別だけは残っていた。
だから俺は、ただ問うことにした。
「透」
「ん?」
「なぜ、まゆりを殺した」
声は、自分でも驚くほど、低く平らだった。
湯気が、二人の間で揺れた。透は、しばらく海のほうを見ていた。
「……それ、本気で聞いてるのか?」
「本気だ」
「答えたところで、お前は信じない」
「答えてみろ」
透は、力のない、乾いた笑いだけで応えた。
「無理だな。いま俺が何を言っても、お前の中じゃ、もう答えは決まってる。違うか?」
「決まってるなら、なぜ聞くと思う」
「聞いても、お前は俺の言葉を、犯人の言い訳としてしか聞けない。だろ?」
俺は、答えなかった。
答えられなかった、と言うほうが、近かった。
透は、はぐらかしている。それは分かった。けれど、その横顔には、追い詰められた犯人の必死さも、開き直った悪党の傲慢さもなかった。ただ、昔と同じ顔で、昔と同じように、俺の機嫌をうかがっている。
仲直りの糸口を探している、そういう顔だった。
違和感は、恨みのそばに消えずにあった。
「お前らしくない」
気づいたら、そう言っていた。
「何が」
「お前が本当に、まゆりを殺すような奴だったなら。こんなふうに、軽口なんか叩かない」
「買いかぶりだろ。人は変わるさ」
「変わったのか?」
「さあな」
透は、それきり、その話を畳んだ。
湯を片手ですくい、また落とす――ぴしゃ、と水が跳ねた。
「統真」
「……」
「一個だけ、いいか? これは、休戦の礼だと思ってくれ」
俺は、横目で透を見た。透は、海を見たままだった。
「これから、お前はいろんな事件に出くわす。仕事柄な」
「だから?」
「その中で――いや、これまでにも、確保の前と後で、人が変わったみたいに豹変した奴は、いなかったか? これから先も、そういう奴がいたら、よく見ておけ」
波の音が、大きくなった。
「豹変?」
「ああ。捕まえるまでは、まるで別人みたいに、剣呑な顔をしてるのに、取り押さえたとたん、憑き物が落ちたように、元の、まともな顔に戻る。そういう奴だ」
「何の話をしてる」
「いまは分からなくていい。けど、今後、必ず遭遇する」
透は、そこで初めて、こちらを向いた。
「注意して、その線を追え。お前なら、たどり着ける」
俺は、透の目を見返した。
その目には、敵意も、嘲りもなかった。むしろ、何かを託そうとする、奇妙な真剣さがあった。
意味は、まるで分からなかった。豹変する人間。追うべき線。なぞなぞでも吹っかけられているようで、妙な気分だった。
ただ、その言葉は、なぜか引っかかって、消えなかった。
「……それだけか?」
「それだけだ」
透は、立ちあがった。湯が、ざあと音を立てて流れ落ちる。
「のぼせる前に上がるわ。お前は、ゆっくり浸かってけ」
俺は、何も言わなかった。
透は、露天の戸口で一度だけ足を止めた。
「まゆりのこと、いまでも――」
そこで、言葉を切った。
続きは、出てこなかった。透は、軽く手を上げて、それきり内湯のほうへ消えていった。
あとには、湯気と、波の音だけが残った。
俺は、暗い海を、長いこと見ていた。
◇◆◇
湯から上がっても、寝つけそうにはなかった。
浴衣に着替えて部屋へ戻る途中、玄関のほうへ向かう自分の足に、自分で気づいた。透の言葉が、頭の奥で、ずっと鳴っていた。
外の風に、当たりたかった。
海月亭の玄関を出ると、夜の凪洲は、しんと静まっていた。昼間の人いきれが嘘のようだ。街灯のまばらな道を下っていくと、すぐに砂の感触が、下駄の裏に変わった。
白凪浜だった。
昼にあれだけ賑わっていた浜は、夜には静まり返っていた。海の家は雨戸を閉ざし、パラソルも畳まれている。月明かりと、潮の匂いと、絶え間ない波の音。それだけが、砂浜を満たしていた。
俺は、波打ち際の手前まで歩いて、暗い海に向かって立った。
冷たい潮風が、火照った頬を撫でていく。
まゆりを殺した男が、なぜ、あんな顔で笑うのか。なぜ、休戦などと言い出すのか。なぜ、別れ際に、まゆりの名前を、言いかけて飲み込んだのか。
考えても、答えは出なかった。
恨みは、確かにある。それは、揺るがない。けれど、さっきの湯の中で、俺は確かに、透と「話して」しまった。敵としてではなく、昔の透と話すように。その事実が、恨みの隣で、座りの悪い違和感になって残っていた。
砂を、踏む音がした。
俺の、後ろで。
振り返ると、暗がりの中に、小さな人影が立っていた。
浴衣姿の、桐野だった。
「桐野?」
「……すみません」
桐野は、肩をすくめるようにして、数歩、近づいてきた。
「あの……八神さんの、お土産の包み直しを手伝って。それが終わって部屋を出たら、ちょうど玄関のところで、鳴瀬先輩が一人で出ていくのが見えて。なんだか、その……気になって、つい」
「ついてきたのか」
「はい。ごめんなさい。声、かけそびれて、ずっと、後ろから」
桐野は、うつむいて、浴衣の袖を握っていた。新人らしい、おどおどした仕草だった。
俺は、少し笑ってしまった。
「尾行が下手すぎる。砂の音で、丸わかりだ」
「うっ……すみません」
「責めてない。座るか」
俺は、乾いた砂のあたりに腰を下ろした。桐野が、少し迷ってから、隣に、間を空けて座る。
二人で、しばらく、暗い海を見ていた。
波が寄せては、引いていく――その繰り返しが、不思議と、気持ちを落ち着かせた。
「鳴瀬先輩」
先に口を開いたのは、桐野だった。
「変なこと、聞いてもいいですか?」
「内容による」
「あの執務室で、先輩が話してくれた、昔のことです」
俺は、海を見たまま、続きを待った。
「養成機関の同期に、月城まゆりさんって人がいて。先輩の、仲間だった。その人を……影山さんに、殺された。月城さんを手にかけたのが、影山さんだって。先輩、自分で、そう話してくれましたよね」
波の音が、間を埋めた。
「あのとき先輩、何か、言いかけて、飲み込んだ気がして。ずっと、引っかかってたんです。……月城さんって、先輩にとって、本当は、どういう人だったんですか?」
桐野は、膝を抱えて、そこに顔を半分埋めた。
「立ち入ったこと、聞いてるのは、分かってます。いやなら、いいんです。忘れてください」
俺は、すぐには答えなかった。
答えるべきか、迷った。けれど、この後輩の、まっすぐな問いを、はぐらかすのも違う気がした。
あの執務室では、仲間、で止めた。隊のみんなの前で、それ以上は、言えなかった。
「……まゆりは」
気づいたら、口を開いていた。
「俺の、恋人だったんだ。〈ゲート〉の、同期でな」
桐野が、顔を上げた。
「養成機関の頃、俺とまゆりと透の三人で、いつも一緒にいた。透が失踪して、捜しているうちに、まゆりまで、いなくなった。見つけたときには、もう、遅かった。執務室で、隊のみんなに話したとおりだ」
「殺したのは、透だ」
俺は、海を見たまま、言い切った。
その断定の中に、ほんのわずか、湯の中で覚えたあの違和感が、混じり込みそうになった。俺は、それを、無理やり押し戻した。
「ただ、あのときは、まゆりを、仲間だとしか言わなかった」
言葉にすると、喉の奥が、固くなった。
「恋人だったってことは、みんなの前じゃ、言えなかったんだ」
桐野が、息を呑むのが、隣で伝わってきた。
「先輩……」
「お前も、見ただろう。あの〈宵闇〉の夜、黒越を撃って、消えていった三人組。その真ん中にいたのが、透だ。いまのあいつは、もう、こっち側の人間じゃない。敵だ」
「そんな……先輩、それ、つらすぎます」
桐野の声が、震えていた。
見ると、桐野は、目に、うっすら涙をためていた。月明かりに、それが光った。
「親友だった人に、大事な人を、殺されて。それでも先輩は、その人と、戦わなきゃいけなくて……」
「泣くなよ。お前が泣く話じゃない」
「だって……」
桐野は、袖で、ぐいと目元をこすった。
それから、不意に、背筋を伸ばした。
「私、決めました」
「何を」
「早く、一人前になります」
桐野の声から、さっきまでの、おどおどした揺れが、消えていた。
「いまの私は、足手まといで、先輩に教えてもらってばっかりで。でも、いつか、先輩の隣で、ちゃんと戦える人になりたいです。先輩が、そういうものを、一人で抱えなくてすむように」
俺は、桐野の横顔を見た。
暗がりの中で、その目だけが、妙にはっきりと、前を向いていた。
「……ずいぶん、大きく出たな」
「すみません。生意気でした」
「いや」
俺は、また海に目を戻した。
「悪くない」
桐野は、それから、少し迷うように、声を落とした。
「あの……一つ、聞いてもいいですか? 影山さんが、いま所属してる組織。〈影環〉」
「ああ」
「あの〈宵闇〉の夜、私も、あの三人を見ました。でも、あれが、いったい、何だったのか。〈影環〉が、本当は、どういう組織なのか。先輩は、どこまで、知ってるんですか?」
その問いを、俺は、新人らしい向学心として受け取った。
初めて〈影環〉と現場で出くわした後輩が、得体の知れない相手を、もっと知ろうとしている。先輩の事情を聞いて、奮起している。それだけのことだった。
答える前に、頭をよぎるものがあった。〈影環〉の捜査は、上の指示で、止められたままだ。なぜかは、いまも聞かされていない。それを、俺は、飲み込んだ。
「俺も、たいして知らん。正体の見えない連中だ。だが、焦るな。そのうち、嫌でも関わることになる」
「はい」
桐野は、こくりと頷いて、また膝を抱えた。
二人で、もう一度、海を見た。
さっきまで、一人で抱えていた違和感は、不思議と、少しだけ薄まっていた。誰かに、過去を話したのは、ずいぶん久しぶりだった。話したところで、何かが解決したわけではない。それでも、この後輩の前で言葉にしたことで、胸の底のものが、ほんの少し、軽くなった。
「冷えてきたな。戻るぞ」
「はい」
俺たちは、立ちあがって、砂を払った。
来た道を、二人で、黙って上っていく。途中で、桐野が振り返って海を見たのが、横目に見えた。
◇◆◇
部屋に戻ると、男連中は、もう寝入っていた。
並んだ布団のあちこちから、規則正しい寝息が聞こえる。瀬戸が、いちばん端で、行儀よく仰向けになっていた。
俺は、足音を忍ばせて、自分の布団に潜り込んだ。
天井の闇を、しばらく見ていた。
長い夜だった。
湯の中の透の顔と、夜の海岸の桐野の涙が、交互に浮かんだ。恨んでいるはずの男と、昔のように言葉を交わしてしまった。その事実は、消えなかった。寝ようとするたびに、何度も浮かびあがってくる。
透が、まゆりを殺した。それは、揺るがない。
なのに、なぜ、あんな目で、俺に何かを託そうとしたのか。
――確保の前と後で、豹変する奴。
意味は、やはり分からなかった。けれど、その言葉だけは、消えずに、闇の中に浮かんでいた。
枕元に置いた浴衣の袂で、何かが、かさりと鳴った。
袂に入れたままの、アザラシのキーホルダーだった。昼に、桐野が、俺の手のひらに載せたやつ。間の抜けた顔が、暗がりでも、なんとなく分かった。
俺は、それを、枕元に置き直した。
明日には、また、いつもの日常が戻ってくる。透のことも、桐野のことも、いったんは、胸の奥にしまうことになる。
それでいいのかどうか、俺には、まだ分からなかった。
ただ、波の音が、ここまで、かすかに届いていた。
俺は、目を閉じた。
眠りは、思ったより、早く来た。




