潮路通り
潮路通りは、海から一本入った緩い坂の通りだった。
両側に、海鮮の店と土産物屋がびっしりと並んでいる。干物を焼く煙と、出汁の匂いと、波の名残の潮気が、ぜんぶ一緒くたになって流れてきた。平日の昼でも、観光客の人波は途切れない。
着替えて浜を出てきた一行は、その入口でいったん固まって立ち止まった。
「うわ、どこから手ぇつけよう」
八神が、両手を腰に当てて通りを見渡した。海水浴のあとだというのに、もう次の獲物を探す顔をしている。
「腹減った。とりあえず、片っ端からいくか」
戸坂さんがさっそく一軒目の串焼きの店へ向かいかけて、瀬戸に襟首をつかまれた。
「待ってください。十人で固まって動いたら、店が回りません」
「固けえなあ、お前は」
「常識です。少しは考えてください」
言い合う二人を、隊長と九鬼さんが笑って眺めている。
「ま、ばらけて食お。集合だけ決めとけばええ」
九鬼さんが、ぱんと手を打った。
「夕方、海月亭のフロント前。それまでは、好きにしいや」
その一言で、固まりはゆるくほどけた。
戸坂さんは宣言どおり串焼きへ突進し、宮田さんは射的の屋台へ吸い寄せられていく。九条さんは、人混みを避けるように早々とひとりで先へ。鵜飼さんが、土産物屋ののれんをくぐる。八神は、めぼしい店を探すように通りをきょろきょろと見回しながら歩きだした。
俺は、特に行く当てもなく通りの真ん中あたりをぶらぶらと歩いた。
桐野が、当然のように後ろをついてきた。
結局、最初に捕まったのは、海鮮丼の店だった。
「鳴瀬先輩、これ、すごいです」
桐野が、メニューの写真を指さして目を丸くしている。丼から、とんでもない量の刺身がはみ出している写真だった。
「のせすぎだろ、これ」
「観光地価格やなあ。けど、まあ、こういう日くらいええやろ」
いつのまにか、九鬼さんも隣に並んでいた。結局、海鮮丼の店には俺と桐野と、九鬼さんと、それから少し遅れて八神が陣取ることになった。
頼んだ丼は写真ほどではないにせよ、刺身はたしかに分厚い。桐野は、最初の一口でほっぺたを押さえている。
「おいしい……」
「でしょ?」
なぜか、八神が得意げだった。自分が盛ったわけでもないのに。
飯のあとは、宣言どおりの食べ歩きになった。
焼きイカ、貝の浜焼き、揚げたての練り物。店先で買っては、歩きながらかじる。桐野は一つ買うたびに「半分どうですか」と俺に差し出してきて、そのたびに俺は受け取った。気づいたら、腹にけっこうな量が入っていた。
通りの先では、戸坂さんが両手に串を三本ずつ握って、立ち食いの記録でも狙うような勢いで頬張っていた。
「戸坂さん、いくらなんでも、食いすぎでしょう」
通りすがりに、瀬戸がげんなりと声をかける。
「夜は宴会だって言ってましたよね。残しておかないと」
「別腹だ、別腹。海の幸は、いくらでも入る」
「その胃袋の構造、一度、九条さんに分析してもらってください」
その隣では、宮田さんが射的の屋台に張りついていた。コルク銃を構え、片目をつぶって、やたらと真剣に狙いを定めている。
「宮田、それ、軍隊の構えで撃つもんちゃうやろ」
通りかかった九鬼さんが、呆れた声を出した。
「隊長。射撃に、遊びも実戦もありません」
宮田さんが、九鬼さんへ生真面目な顔で言い返した。
「景品、ぜんぶ、ぬいぐるみやで」
宮田さんは、聞いちゃいなかった。引き金を引くと、コルクは的をかすめて、むなしく落ちた。鵜飼さんが、その背中を冷ややかに一瞥して通り過ぎる。
「鳴瀬先輩、食べるの、意外と好きですよね」
「断る理由がないだけだ」
「ふふ。先輩、断るの下手ですもんね」
言われて、少し詰まった。
◇◆◇
雑貨屋の店先で足を止めたのは、まったくの偶然だった。
通り沿いの一軒に、海の生きものをかたどった土産物が籠いっぱいに積まれていた。クラゲやら、アザラシやら、丸っこいぬいぐるみのキーホルダーが押し合いへし合いしている。
その中の一つ、まんまるのアザラシと、つい目が合った。
黒い丸い目で、こっちを見上げている。妙に、間が抜けていて――いい。
手が、勝手に伸びかけた。
「あ」
背後で、声がした。
振り向く前に、もう遅かった。八神が、にんまりと笑ってこちらを覗き込んでいる。
「統真、いま、その子に見とれてたでしょ」
「見てない」
「見てた。完っ全に、目が、デレッてしてた」
「してない」
「しおりーん、ちょっと来て来て」
八神が近くで貝細工を眺めていた桐野を、手招きで呼び寄せた。嫌な予感しかしない。
「あのね、しおりん。一個、教えといてあげる」
八神は、もったいぶった顔で俺を指さした。
「うちの統真ね、こーいう、かわいいやつが、大好きなの」
桐野が、きょとんとした。それから、俺と籠の中のアザラシを何度か見比べる。
「えっ。鳴瀬先輩が、ですか?」
「八神。いいかげんなことを言うな」
「いいかげんじゃないもーん。ねえ?」
八神が、通りの向こうへ声を投げた。土産物屋から出てきた鵜飼さんが、片眉を上げる。
「ああ、坊やの趣味の話? 知ってるわよ。前に、机の引き出しに、うさぎのマスコット隠してたじゃない」
「あれは……もらい物です」
「もらい物を、なんで後生大事に引き出しの奥に?」
助け舟は、どこからも出なかった。それどころか、串をくわえて戻ってきた戸坂さんまでがうんうんとうなずいている。
「鳴瀬の、それな。九鬼隊でも、もう、ふつうのことだぞ」
「ふつう、ということにしておいてください」
俺は、なるべく低い声で言った。これ以上、墓穴を掘らないための精いっぱいの防御として。
桐野は、しばらくぽかんとしていた。
「ね? ほんとの話だったでしょ、しおりん」
八神が、桐野の肩に腕を回して顔を寄せる。身内の秘密を分けてやった、と言わんばかりの上機嫌だった。
桐野は、腕を回されたまま八神と俺を見比べていた。それから、力が抜けたように笑う。
「なんだか、安心しました」
「……安心?」
「はい。八神さんの言うとおりでした。先輩にも、こういう一面、あるんですね。……ふふ。なんだか、うれしいです」
「でしょ? ね、しおりん、せっかくだから、選んだげて」
八神にうながされて、桐野は籠からアザラシのキーホルダーを一つ手に取った。俺の手のひらに、ちょこんと載せる。
「先輩にも、こういうの、似合います」
俺は、手のひらの上の間の抜けた顔を見下ろした。
何か気の利いた返しを探したが、見つからなかった。仕方なく、それを持ってレジへ向かう。
「あ、買うんだ」
「うるさい」
背中で、八神と桐野が顔を見合わせて笑うのが分かった。
まあ、いい。後輩が、少し笑えたのなら。
◇◆◇
雑貨屋でのひと幕が、妙に場をほぐしていた。その緩んだ空気を引きずったまま昼を過ぎると、一行はめいめいの過ごし方に散っていった。
戸坂さんは「泳ぎ足りん、付き合え」と、射的の屋台に未練がましく張りついていた宮田さんの首根っこをつかんで浜へ引き返していった。八神と桐野は、手提げ鞄を手に土産物屋をはしごして、家族や友人への土産を物色していた。喫茶店の窓際には、いつのまにか九条さんがおさまって、また文庫本を開いていた。隊長は「年寄りには昼寝が要る」と、ひと足先に海月亭へ引きあげていった。
俺自身は、これといって行く当てがなかった。
人混みのゆるんだ通りを、ひとりで歩く。昼の盛りは過ぎて、店じまいの支度を始める店もちらほらと出ていた。来たときより、いくらか間延びした空気が潮の匂いに混じって流れている。
ポケットの中のアザラシが、歩くたびにかすかに揺れていた。
急ぐ理由は、何もなかった。こういう目的のない時間は、ここしばらく、まるで縁がなかった。手のあいた自由を持てあまして、俺は通りの端まで歩いては、また引き返した。
土産物屋ののれんの奥では、八神と桐野が何やら二人で盛り上がっているのが見えた。並んだ横顔は、言われてみればたしかに姉妹のようでもある。
それぞれが、それぞれの時間を過ごしている。その様子を、少し離れて眺めているのも存外、悪くなかった。
通りの先で、瀬戸と顔を合わせた。向こうも、特に当てはないらしい。
なんとなく、二人で先に海月亭へ向かうことにした。
「正直、もう、腹いっぱいで動けない」
「奇遇だな。俺もだ」
通りを抜けて、坂を上る。少し行くと、木立の向こうに瓦屋根の大きな旅館が見えてきた。海月亭。今夜の宿だ。
帳場で手続きをすませ、荷物を部屋に置く。窓の外には、さっきまでいた浜とその向こうの海が、まだ高い午後の日ざしの下で広がっていた。
「いい眺めだな」
瀬戸が、窓の縁にもたれて目を細める。
「こういうの、久しぶりだ。ここんとこ、ずっと現場ばっかりで」
「だな」
俺も、隣で海を見た。
波の照り返しと、潮の匂いと、瀬戸の気の抜けた横顔。
胸の底に居座ったままのものも、いまはその下で、おとなしくしている。
「鳴瀬」
「ん」
「お前、さっきの、まだポケットに入れてんのか。アザラシ」
「……黙ってろ」
声を立てず、瀬戸が笑った。
◇◆◇
昼過ぎに宿へ入ってから、夕刻までは思いのほか長かった。部屋で海を眺め、まどろむうちに、午後はゆっくりと過ぎていった。
日が傾くころ、思い思いに散っていた面々が約束どおり海月亭のフロント前に戻ってきた。先に部屋にいた俺と瀬戸の耳にも、階下のざわめきが届いてくる。
夕食は、大広間に両隊そろっての宴になった。
座卓がいくつも並び、そのまわりを十人がてんでに囲んでいる。膳には、また海の幸が並んでいた。昼にあれだけ食べたのが嘘のようだ。
「いやー、食うわ食うわ。さすが、海の宿やな」
九鬼さんが、上座のほうで隊長と猪口を交わしている。二人とも、もうずいぶん顔が赤い。
「美里、お前、ペース速えぞ」
「厳こそ。明日、運転やろが」
「分かってるよ。これが最後の一杯だ」
「さっきも、それ言うてたで」
年長者二人の応酬は、聞いているだけでなんとなく場が和む。旧知とは、ああいうものらしい。
下座は、若手で固まっていた。
戸坂さんが刺身の大皿を一人で半分ほど平らげ、それを鵜飼さんが冷ややかに見ている。宮田さんは、その鵜飼さんの隣で酌をしては塩対応をされ、なぜか嬉しそうにしていた。
「統真、ほら、これ食べな。すっごい新鮮」
八神が、俺の膳に勝手に焼き魚を一切れ移してくる。
「自分で取れる」
「いいからいいから。それより、聞いてよ。さっきね、しおりんと、お揃いの貝のストラップ買ったの」
八神が、得意げに鞄から二つのストラップを取り出した。隣で、桐野がはにかんでいる。
「姉妹、みたいでしょ」
「歳、離れてるけどな」
「失礼な! まだ離れてないし!」
八神が、すかさず突っかかってくる。九条さんが、向かいで静かに猪口を傾けながらぼそりと口を開いた。
「離れている、離れていないの問題ではないのでは」
「じょーくんは黙ってて!」
その切り返しの速さに、桐野がこらえきれずに吹き出した。
俺は箸で焼き魚をほぐしながら、そのやりとりを聞く。
昼の浜では、桐野はまだ輪に入れてもらって遊んでいた。いまのは、それと少し違う。
八神の隣を自分の席にして、笑っている。
宴は、それからしばらく続いた。
戸坂さんが九鬼さんに酒の飲み比べを挑んで返り討ちにあい、宮田さんが土産の話で誰かを延々と捕まえ、八神は座を渡り歩いては、あちこちで笑いをさらっていった。笑い声が、絶えなかった。
「桐野、どうだ。少しは、旅、楽しめてるか」
隊長が、下座のほうへ猪口を片手に声をかけた。
「は、はい。とても。あの、こんなに、よくしていただいて」
「気ぃ遣うな。歓迎会も兼ねてんだ。今日くらいは、新人面、忘れとけ」
「はい。あの執務室で、八神さんが言ってくれて。私の歓迎会だって」
「おう。お前が来てから、ずっとばたばたで、ちゃんとやれてなかったからな」
桐野が、ぺこりと頭を下げかけて八神に後ろから抱きつかれた。
「もー、しおりん、堅い! こういうのはね、笑って『ありがとうございまーす』でいいの」
「あ、ありがとう、ございまーす」
「棒読み!」
また、どっと笑いが起きる。桐野も、つられて肩を揺らして笑っていた。
やがて、膳が下げられ、酒の回った面々が一人、また一人と、ゆるんでいく。
窓の外は、いつのまにかすっかり暮れていた。
昼の賑わいはどこへやら、海は夜の色に沈んでいる。広間の笑い声と、その向こうの暗い海の静けさ。その二つが、ガラス一枚を隔てて隣り合っていた。
俺は、空になった猪口を置いて、なんとなくその暗がりに目をやった。
その静けさの底のほうには、まだ消えきらないものがほんの少しだけ、沈んでいた。
明日も、晴れるといい。
ただ、それだけを思った。




