届かぬ手
闇の中を、足音が逃げていく。
三つ。階段の踏み板を蹴る音が、上へ、上へと遠ざかっていく。俺は、痺れる左腕をこらえ、その音だけを頼りに駆けた。
内階段は、狭く、急だった。卓上灯の光は、もう届かない。壁に肩をこすりつけながら、一段飛ばしに上る。黴くさい空気が、喉の奥に絡んだ。
踊り場を一つ、二つと、折り返す。
足音が、近い。
あと、少しだ。
不意に、頭上の闇が薄れた。
階段を抜けた先に、広いフロアが開けている。最上層の、さらに上の階だ。西に倉庫の棚、東に事務机とキャビネットの列。割れた窓の隙間から、青白い月明かりが斜めに差し込んでいる。中央を貫く一本の通路の、ずっと奥。
黒い影が、三つ。
いた。
俺は、通路へ踏み込んだ。
その刹那、奥で、白が弾けた。
「――っ」
目の奥を、光が灼く。閃光だ。とっさに顔を背け、棚の陰へ身を投げる。視界が、まだらに潰れた。
続けて、乾いた音が二つ。銃声。俺がいた場所の床が、鋭く跳ねた。
「そう急ぐなって」
透の声だった。フードの奥から、軽く投げてよこす。
「危ねえだろ。いきなり突っ込んでくんなよ」
昔と同じ調子だ。たったいま、人ひとりを撃った男とは思えない。その軽さが、また、腹の底を冷たくした。
潰れた視界の端に、奥のほうの影が動くのが見えた。三つの影は、こちらへ向かってくるのではない。逆だ。北の壁際――屋上へ続く口のほうへ、じりじりと退いている。
逃がすか。
俺は、棚の陰から飛び出した。
まだ目が、戻りきっていない。それでも、奥で動く三つの影の位置は、輪郭で掴めた。什器の隙間を縫って、北の口へ追う。
最初の角を曲がった、その先。
床すれすれに、細い線が一本。月明かりを、薄く撥ね返している。ワイヤーだ。反射で身を沈め、その下をくぐる。背後で、何かが弾けた。火花と、白い煙。仕掛けてあったのだ。
逃げながら、罠を撒いている。
乾いた銃声が、二つ。横のキャビネットが鋭く鳴って、塗装の破片を散らした。当ててはこない。ただ、足を止めさせるための弾だ。
「悪いな。付き合ってる暇は、ねえんだ」
棚の向こうから、透の声。どこまでも軽い。
昔のままの口ぶりだった。それが、銃弾よりも、罠よりも、いやだった。
俺は、棚の列の内側へ回り込んだ。正面の通路が撃たれるなら、什器の影を伝う。一つ、二つと、棚の間を抜ける。距離が、縮む。
その鼻先に、大きな影が立ちはだかった。
槙島だ。だが、前のように、壁になって受けるつもりはないらしい。踏み込んだ俺の脇差を、最小限の体捌きでいなし、異様に硬い掌で、俺の肩口を突き返してくる。重い。たたらを踏まされた、その一瞬で、男はもう、横の棚へ腕をかけていた。
「道は、塞がせてもらうぜ」
鉄の棚が、丸ごとこちらへ傾ぐ。中の箱が、雪崩を打って落ちてくる。
跳びすさって、躱す。棚が、俺のいた場所で、派手な音を立てて潰れた。視界が、埃で白く濁る。その隙に、槙島の影は、もう奥へ退いていた。
打ち合いで、こちらの足を止めにくる。地力で押し負ける相手じゃない。だが、押し返すより先に、什器で道を潰される。逃げる時間を、それで稼いでいる。
埃を抜けて、走る。
足が、また重くなった。
膝の運びが、鈍る。脇差を握る指に、力が乗らない。棚の隙間の、その奥。朝霧が、こちらへ片手を向けていた。フードの奥から、視線だけが、俺を捉えている。
「もう、追わないで」
起伏のない声だった。
俺は、応えなかった。代わりに、横の棚へ、身を滑らせる。あの女の視線から、棚の陰へ、体を抜いた。
その瞬間、足の重さが、ふっと緩んだ。
見えていないと、鈍りが落ちる。あの女が俺を見て、気を集めている、その間だけの力だ。
覚えておく。
棚の陰から、飛び出す。視線が刺さり、体が重くなる。だが、もう、絡繰りは割れていた。重さに逆らうより、視線を切ることだ。柱の影、什器の陰――遮蔽を縫って、奥へ詰める。
だが、奥も、ただ退くだけではない。
行く手に、また槙島が立ちはだかる。今度は、向こうから来た。拳が、まっすぐ顔面へ飛んでくる。
右手の脇差で、打ち払う。返す二合目は、こちらから叩き込んだ。大男の軸が、後ろへ傾ぐ。
「はっ、いいねえ! そう来なくちゃなあ!」
押し切れる。そう踏んだ一歩を、朝霧の視線が重くした。膝が沈み、二の太刀が遅れる。
その遅れの間に、槙島は横手の什器へ腕を叩きつけていた。列ごと、俺のほうへ倒れてくる。柱の裏へ体を滑り込ませて鈍りを振り切るころには、三つの影は、もう一区画ぶん奥へ逃げている。
逃げ際に、透の手が懐へ動いた。床を、銃声が二つ叩く。狙ってはいない。牽制だけの弾だ。
当たっては、退く。退いては、塞ぐ。一人を抜けば、すぐに次が来る。三人を、一度には、捌けない。
詰めた距離を、また引き離される。その、繰り返しだった。
三つの影は、もう、北の壁際にいた。上へ続く、階段の口。塔屋だ。屋上へ抜けるつもりだ。槙島が最後にもう一つ棚を倒して退路を断ち、朝霧と並んで、その口へ消える。
透の背中も、暗がりへ吸い込まれていく。ここまで、ただの一度も、こちらへ刃を向けないまま。
逃がすか。
倒れた棚を、踏み越える。罠の、焦げた匂いを、突っ切る。
塔屋の階段を、一息に駆け上がった。
◇◆◇
扉を、肩で押し開けた。
夜気が、頬を叩く。
屋上だった。広い。閉ざされた通路とは、まるで違う。眼下に、繁華街のネオンが、にじんで広がっている。冷たい風が、屋上の縁を、低く鳴らして渡っていった。
その風の中に、三つの影。
北の端――低い立ち上がりの向こうに、隣のビルが迫っている。透達は、そこへ向かっていた。逃げ場を、選んでいる。
だが、まだ間に合う。ここなら、塞ぐものは、何もない。
俺は、走った。
朝霧の手が、すでにこちらへ向いていた。屋上へ出た、そのときからだ。視線は、俺から外れていない。走り出した途端、もう体が重くなりかけた。膝が、鈍る。
だが、ここは違う。閉所じゃない。間合いがある。
脇差を、左手へ握り替える。痺れた指に、柄を、無理やり噛ませた。
空いた右手を、腰の銃へ落とす。
あの干渉は、あの女が俺を見て、気を集めている間だけ続く。さっき、通路で、そう掴んだ。視線を切れば、鈍りは緩む。だが、この屋上に、身を隠す棚はない。
視線を切る遮蔽がないなら、断てるのは、集中だけだ。
片手銃を、抜き上げる。狙うのは、急所じゃない。肩口だ。撃ち殺すためじゃない。あの手を、止めるためだけの、一射。
引き金を、絞った。
銃声。
朝霧の体が、びくりと跳ねた。肩の布が、黒く爆ぜる。
「――っ、あ」
短い悲鳴。こちらへ向けられていた手が、流れる。集中が、途切れた。
その瞬間、俺の体から、泥が抜けた。
膝が、戻る。腕が、軽い。
行ける。
俺は、地を蹴った。一足飛びに、間合いを潰す。半歩で、躱しきれない距離まで。
横から、槙島が、割り込もうとする。長身が、影になって、伸びてくる。
だが、一拍、遅い。その腕は、俺の背を、掠めただけだった。
その眼前で、透の右腕が持ち上がった。片手銃の口が、白く瞬く。足元の床が、鋭く爆ぜた。
牽制だ。踏み込みを、削りにきている。削られても、止まらない。
透の半身が、すぐそこにある。
届く。
銃を、手から離す。左手の脇差を、右手へ持ち替えた。
振り上げた刃を、白い光が、下から擦り上げた。
小太刀だ。透は、こちらへ斬り返してこない。ただ、俺の脇差を、自分の体の外へ受け流す。それだけ。
受け流すと同時に、透は、後ろへ跳んだ。間合いを、一気に開ける。北の端へ。
退きながら、その手が、懐で動いた。掌に収まる、黒い塊。引き抜きざまに、俺との間の床へ、それを放る。
「悪いな」
低く落ちた声。
黒い塊が、床を一度跳ねて、こちらへ転がってくる。
退け――。
膝を、捻る。逃げようとしたが、間に合わなかった。
足元で、世界が膨れた。
爆音。
熱と、衝撃が、下から突き上げる。破片が、脛を、太腿を、鋭く抉った。視界が、白く揺れる。気づけば、片膝を、屋上の床についていた。
脇差が、手の中に、ない。床を滑る硬い音が、遠ざかっていく。
足が、熱い。痛い。立とうとして、体重をかけた瞬間、激痛が、脳天まで突き抜けた。
「く――っ」
深くはない。骨も、やられていない。それは、分かる。だが、痛みが、強い。この足では、走れない。
顔を、上げた。
透達が、北の端へ向かって退いていく。朝霧が、撃たれた肩を押さえながら、それでも自分の足で走っている。槙島が、その後ろを、殿として固めている。
「待て――」
手を、伸ばした。
届かない。
立ち上がろうとして、足が、崩れる。床に、爪を立てる。それでも、縁までは、あまりにも遠い。
透が、低い立ち上がりに足をかけた。一瞬だけ、こちらを振り向いた。フードの奥の目が、俺を捉える。
だが、それきりだった。
言葉も、迷いも、なかった。身を翻して、隣のビルのほうへ、闇の中へ消えていく。朝霧が続く。槙島が続く。三つの影が、屋上の縁を越えて、夜に溶けた。
あとに残ったのは、風の音だけだった。
俺は、床に手をついたまま、その闇を、見ていた。
殺さなかった。爆薬を投げた透も、俺を鈍らせ続けたあの女も、俺の命までは取らず、取ろうともしなかった。
だが、それは、慈悲じゃない。
殺す必要はなく、ただ邪魔なものを払って、逃げればよかった。そのために、罠を張り、牽制の弾を撃ち、最後に、足を止めるぶんだけの爆薬を投げた。殺さず、追えなくする。その匙加減の正確さは、この男にとって、人ひとりをどう扱うかが、ただの計算に過ぎないという事実を、かえって、はっきりと教えてくる。まゆりを手にかけた夜も、その天秤は、同じだけ正確に振れたのだろう。
あの夜からだ。
あの夜から、この一瞬のために、生きてきた。手は届きかけ、あの首のすぐ手前まで、刃の先が迫っていた。それなのに、また、何も掴めなかった。
奪われたものは、戻らない。復讐は、果たせない。
俺は、ただ、冷えていく床の上に、視線を落としていた。
「鳴瀬――!」
背後で、扉が開いた。
九鬼さんだった。塔屋の階段を駆け上がってきて、俺のそばへ膝をつく。青い髪が、風に乱れている。
「あんた……一人で、ここまで」
その後ろから、鵜飼さんと、瀬戸が続いて出てきた。瀬戸の動きは、まだ重い。最後に、桐野が、よろめきながら、扉から転がり出てくる。
「鳴瀬先輩……!」
俺の足を見て、桐野が、息を呑んだ。膝をつき、震える手を、傷口へかざす。
「いま……いま、治します」
淡い熱が、足に伝う。だが、それは、いつものように傷を塞いではくれなかった。あいつの掌から、本来あるはずの力が、ほとんど抜けている。梶原戦から、ずっと削り続けてきた。瀬戸の腕を治し、傷を縛り、混戦を支え――もう、桐野の中には、何も残っていないのだろう。
「……効かない。どうして……」
桐野の声が、震えた。それでも、手を、離さない。塞がらない傷へ、尽きかけた熱を、必死に注ぎ続けている。
「もういい」
俺は、言った。
「お前は、十分やった」
「でも――」
「九鬼さん」
俺は、北の際へ、目をやった。あの闇の奥へ。
「追います。まだ、遠くへは」
「あかん」
九鬼さんが、俺の肩を、上から押さえた。
「その足で、どこ追うんや? それに、向こうは罠を張りながら逃げとる。一人で飛び込んだら、次は足じゃ済まへんで」
言葉に、詰まった。
反論は、できなかった。立てない足が、何より雄弁に、それを証明していた。
九鬼さんが、ふっと、息を吐く。乱れた髪を、片手で払った。
「……ええか、鳴瀬」
その声が、低くなった。怒っているのとは、少し違う。
「あんたの事情、何も聞かされとらん。『まゆり』が誰やとか、なんであんたが、隊ほっぽって、あの男に突っ込んだとか。何ひとつ、や」
俺は、答えなかった。
「今夜は、引く。負傷者も出とる。これ以上は、無理や」
九鬼さんは、立ち上がり、北の闇を、一度だけ睨んだ。それから、俺を見下ろした。
「けどな。腰据えて、詳しく話、聞かせてもらうからな。覚悟しとき」
俺は、ただ、頷いた。
頷くしか、なかった。
桐野は、まだ、俺の足に手を当てている。塞がらない傷の上で、その手が、小さく震えていた。瀬戸が、無言で、桐野の肩を支える。鵜飼さんが、屋上の縁まで歩いていって、隣のビルを、長く見ていた。
風が、また、低く鳴る。
眼下のネオンは、何も知らずに、にじみ続けている。
俺は、握りしめた手を、ゆっくりと開いた。掌には、何も、なかった。届きかけたものの感触だけが、まだ、指の先に、燻っていた。




