激発
追え。
その一語が、足の裏から脳天まで突き抜けた。
考えるより先に、体が動いていた。脇差の柄を握る。抜く。鞘走りの音さえ聞こえなかった。
残っていたのは、背を向けて去ろうとするあの背中だけだった。
「鳴瀬くん――待ち!」
九鬼さんの声が、背中で弾けた。
聞こえていた。聞こえていて、無視した。
あの夜からだ。あの夜から、この一瞬だけを待っていた。
奪われたものの重さが、足の裏から這い上がってくる。まゆりの声も、その笑い方も、もう正確には思い出せないのに、失ったという事実の重さだけは、少しも軽くならなかった。あれから、それだけを燃やして生きてきた。その元凶が、いま、あと数歩の先で、背を向けている。
俺は、踏み込んだ。
最短の直線。間合いを潰す。卓上灯の弱い光が、横へ流れていく。倒れた黒越の体を、半歩で躱す。透の半身が、すぐそこにある。
刃を、振り上げた。
「――っ」
届く、と思った。
その刹那、透の体が、ふっと沈んだ。
斬撃の軌道を、紙一重で外す。俺の刃は、フードの端をかすめただけで、空を切った。手応えが、ない。
透は、半歩、横へ流れていた。攻めてもこない。受けもしない。ただ、俺の刃を、自分の体の外へ受け流しただけだった。
「うわ、っと」
その口から、間の抜けた声が漏れた。
「……おいおい。挨拶もなしかよ」
昔のままの、軽い調子だった。たったいま、人ひとりを撃ち殺した男の声とは思えない。
その軽さが、かえって、腹の底を冷たくした。
ついさっき、この男は、振り向きもせずに黒越を撃った。引き金にかけた指に、ためらいの一つもなかった。その同じ口が、いま、何ごともなかったように、俺の名を呼ぼうとしている。まゆりを手にかけたときも、きっと、こうだったのだ。
「黙れ」
俺は、二の太刀を繰り出した。
横薙ぎ。返す刀で下から。透の体が、そのたびに流れていく。当たらない。掠りもしない。こちらの動きを、振り上げる前から読んでいる。
「速えなあ、相変わらず」
いなしながら、透が言う。
「お前、ほんと変わってねえな」
「黙れ、と言った」
声が、自分のものとは思えないほど低かった。
刃が、走る。今度は突き。喉を狙った。
透の手が、すっと上がった。俺の手首の内側を、手の甲で軽く払う。それだけで、突きの軌道が逸れた。
「喉って、お前、本気すぎだろ――」
「うるさい」
俺は、距離を詰めた。
密着の間合い。ここなら、躱す余地はない。脇差の柄頭を、透の鳩尾へ叩き込む。その動きの途中で、左腕が、鈍く軋んだ。
砥上の電撃をもらった、あの左前腕だ。肘から先が、まだ重い。痺れが、握りの力を、わずかに殺す。
その「わずか」を、透は見ていた。
「無理すんな」
体を開いて、柄頭を流す。
「その左、もう上がってねえぞ。さっき、誰かにやられたろ?」
「お前に――」
関係ない、と言いかけて、喉が詰まった。
昔から――そうだった。こいつは、こちらが隠したいものを、いつも先に見抜いた。組手のたびに、俺の利き足の崩れを、踏み込みの癖を、言い当ててきた。その目が、いまも、同じように俺を見ている。
見抜かれることが、昔は、どこか誇らしかった。いまは、その目が、ただ、おぞましい。
透、と呼んでいた口は、もう動かなかった。
「お前が……まゆりを」
言葉が、続かなかった。
「……まゆり?」
戸口のほうで、桐野が、小さく呟いた。聞き慣れない名前を、確かめるような声。誰のことだ、と問うような。
だが、構っている余裕はなかった。
代わりに、刃が出た。渾身の袈裟懸け。狙いも何もない、ただの叩きつけだった。
透の腰から、白い光が奔った。
小太刀だ。いつ抜いたのかも、見えなかった。黒越を撃った片手銃は、まだ逆の手に提げたまま。左右を選ばないこいつのことだ、空いた手で抜いたのだろう。その細い刃が、俺の脇差を、斜め下から擦り上げる。鋼と鋼が、短く噛み合った。火花が散り、俺の斬撃は、軌道を逸らされて、空を泳ぐ。
受け流された。斬り返すための受けではない。ただ、こちらの刃を、自分の体から払うためだけの、一合だった。
それでも、切先が、フードの肩口をかすめる。布が、薄く割れた。
肉までは、届かない。
「お……っと。あぶねえなあ」
透の声に、初めて、ほんの少しだけ硬さが混じった。
だが、それきりだった。反撃は、来ない。間合いを切って、また少し、後ろへ下がる。北東の暗がりへ。
何度、刃を振っても、届かない。夢の中でさえ、何百回と斬りつけてきた相手だ。それが、いま、現実に、目の前にいる。それなのに、手の中には、何の手応えもなかった。
逃がすか。
追おうとした、その前に。
大きな影が、割り込んだ。
「悪いな。そっから先は、通せねえって言ったろ」
黒越を粛清する間、九鬼さんを正面で受け止めていた、あの長身の男だった。透と俺のあいだに、立ちふさがる。
俺は、構わず踏み込んだ。
脇差を、男の胴へ。男は、躱さなかった。腕を交差させ、刃を、真正面から受け止めた。
刃が、止まる。
硬い。鋼を斬るのとは、わけが違う。人の腕が、刃を止めている。骨でも、防具でもなく、ただの腕で。
「っ……」
「おお、効くねえ、これは」
男が、口の端で笑った。だが、その額に、汗が滲んでいた。
「聞いてはいたけどよ。なんつう斬撃だ、おい」
俺は、刃を引いた。引いて、低く沈み込む。男の懐へ、肘から先で潜り込む。死角だ。長身の相手の、最も力の入らない、内側。
脇差の柄で、男の脇腹を打った。
手応えはあった。だが、男は、一歩も下がらなかった。逆に、その太く硬い腕が、俺の肩口を掴みにくる。掴まれたら、終わりだ。あの力で締め上げられたら、刃ごと動けなくなる。
俺は、身を捻って、それを外した。外しながら、男の膝の裏を、脛で払う。
「っと、と……あぶねえな、おい!」
男が、たたらを踏んだ。崩れない。だが、崩しかけた。
「マジかよ。能力なしで、俺と渡り合うってか?」
その声に、笑いと、明らかな戸惑いが混じっていた。
人のものとは思えない膂力だった。これが能力なのか、ただの地力なのかも、分からない。それほどの力をもってなお、俺を、一歩も先へ通さないことに、手こずっている。
好都合だ。こいつが俺に手こずっている間は、透も、遠くへは行けない。
俺は、男の懐を、もう一度抉りにいった。
そのとき。
足が、重くなった。
いや、重いのとは違う。膝が、思うように曲がらない。踏み込もうとした右脚が、半拍、遅れる。腕も同じだ。脇差を返そうとした手首が、重くこわばって、動かない。
「な――」
関節が、軋む。筋が、こわばる。打たれたわけでも、掴まれたわけでもないのに、体が、俺の言うことを聞かない。
あの、細身の女だ。
いつのまにか、男の後ろから、こちらへ手を向けている。フードの奥の目が、俺ひとりを、まっすぐに見据えていた。瀬戸を膝立ちにさせた、あの力。それが、いま、俺に向いている。
「動きを、止める」
起伏のない声だった。
「殺しはしない。だから――やめて」
「ふざけ……るな」
止めるか。
俺は、こわばる体を、無理やり前へ押し出した。
関節が悲鳴を上げる。筋肉が、鈍く重い。それでも、止まらなかった。止まれなかった。踏み込みの一歩が、半分の距離しか進まないなら、二歩で詰める。腕が上がらないなら、体ごとぶつける。
「……嘘でしょ」
細身の女の声が、初めて、揺れた。
「これで、止まらないの?」
「効いてんのかよ、それ!?」
長身の男が、目を見開いた。
俺は、二人の驚きを聞きながら、ただ前へ出た。視界の端に見えたのは、北東の暗がりへ、また少し退いていく透の姿。
届かない。あの背中に、手が、届かない。
「鳴瀬!」
横から、鋭い声が飛んだ。
九鬼さんだった。青い髪を振り乱して、自己加速の踏み込みで、長身の男の横っ面へ突っ込んでいく。
「あんた、聞こえてんのか! 一人で突っ込むなや、布陣を――」
「邪魔だ」
俺は、九鬼さんを見もしなかった。隊がどう動こうと、作戦がどう壊れようと、もう、どうでもよかった。頭の中には、暗がりへ消えかけている、あの背中しか、残っていなかった。
視界の端で、九鬼さんの加速の一撃が、長身の男に届く。だが、男は、それを片腕で受け流した。
鵜飼さんの鎖が、宙を走る。狙いは、透だ。
その軌道へ、男が体を割り込ませる。鎖は、また分厚い肩口に阻まれて、力なく垂れた。
「くっ……このっ、何回やっても――」
鵜飼さんが、鎖を引き戻す。
「瀬戸、右や! 回り込み!」
九鬼さんが叫ぶ。
書棚の陰から、瀬戸が、高周波刃を纏わせて踏み込んだ。だが、その動きは、明らかに鈍かった。さっき、細身の女の力で萎えさせられた体が、まだ戻っていない。刃の軌道を、長身の男が、一歩引くだけで躱す。瀬戸の刃は、空を裂いた。
「悪い……っ、体が、まだ」
瀬戸が、歯を食いしばる。
四人で、二人を抑えられない。
いや――俺が、隊から外れているからだ。俺が、透ひとりへ突っ込み、隊の動きを壊している。だから、九鬼さんも、鵜飼さんも、瀬戸も、その穴を埋めるために、ばらばらに動かされている。
分かっていた。分かっていて、止められなかった。
「鳴瀬先輩……!」
戸口から、桐野の声がした。
立ち上がろうとして、よろめいている。さっきまでの、瀬戸への治癒。止め処なく続いた、気の張り。その連続した消耗で、もう、体に何も残っていないのだろう。前へ出ようとして、膝が折れる。治癒に回る余力も、混戦を支える力も、桐野には、もうない。瀬戸の腕を塞いだとき、傷口を縛り続けたとき、あいつは何度も俺たちのために身を削ってきた。削った分だけ、自分の体から、何かが抜けていったのだろう。
それでいい。来るな。
俺は、ただ、前だけを見ていた。
透が、北東の暗がりへ、半身を引いた。こちらに構わず、背後の二人へ、短く声を投げた。
「槙島、朝霧。退くぞ」
低く、迷いのない声。指示だ。この男が、二人を動かしている。
槙島、朝霧――。
正面で俺を阻む長身の男が、槙島。俺の体を鈍らせている細身の女が、朝霧。そう名を呼ばれて、二人の構えが、ひといきに撤退へと切り替わった。
「――っ、待て!」
俺は、槙島を、無理やり押しのけようとした。こわばる体で、痺れる腕で。
その瞬間、槙島の力が、ふっと抜けた。
受け止めるのを、やめたのだ。
俺の押し込む力が、行き場を失って、たたらを踏む。槙島は、その隙に、後ろへ跳んだ。朝霧も、俺への干渉を解いて、暗がりのほうへ退く。重しが抜けて、体が、急に軽くなる。
「じゃあな。怪我すんなよ」
槙島が、最後に一言、放った。殿だ。二人を逃がすための、最後の壁。
暗がりの中で、透が、こちらを振り返った気がした。フードの奥の目が、一瞬だけ、俺を捉える。その目は、すぐに、外れた。
言葉など、いらなかった。この男は、まゆりを奪い、たったいま、目の前で、人ひとりを撃ち殺した。その口で、昔の顔で笑いかけてくることのほうが、よほど、許せなかった。
ただ、半身を返して、暗がりへ消えた。来たときと同じ。音もなく。
「逃がすか――!」
俺は、地を蹴った。
九鬼さんの腕が、横から伸びてくる。肩を、掴もうとする。
「鳴瀬! 単独で追うな! 罠かもしれんやろ――!」
その手を、振り払った。
「鳴瀬――っ!」
声が、背中で遠ざかる。
暗がりの口へ、体を突っ込む。最奥の卓上灯の光が、ふつりと途切れた。冷えた、黴くさい空気が、頬を撫でる。その奥へ、内階段らしき気配が、上へ続いている。
足音が、三つ。先を、行く。
追え。二度と、見失うな。
俺は、痺れる左腕を握り直し、闇の中へ、走り出した。
背後で、誰かが俺の名を呼んでいる。九鬼さんか、桐野か。仕方なさそうに、後を追ってくる足音も、いくつか。
だが、もう、振り返らなかった。




