粛清
透の背中が、黒越へ近づいていく。
止めろ、と頭のどこかが言っている。確保しろ、と。だが、体は動かない。肩へ伸ばしかけた手が、宙で固まったまま、降りてこない。
黒越の目が、初めて透を捉えた。
「……てめえ、どこのモンだ」
低い声に、いらだちが混じる。突入してきた俺たちと、背後から滲み出たこの三人。同じ夜に二つの群れが重なる事態は、この男の算段にもなかった。
透は、答えない。フードの奥の顔は、何ひとつ読ませなかった。
黒越が、喉の奥で笑った。だが、その笑いは、さっきまでの悠然としたものとは違っていた。
「その面の隠し方……まだ、そんな綺麗ごとを後生大事に抱えてやがるのか。青臭え」
侮りだけを乗せて、吐き捨てられた言葉。透個人へ向けたものなのか、その背後の何かへ向けたものなのか、俺には掴めない。ただ、二人のあいだにだけ通じる因縁が、確かにあった。
「こっちは、もっと利口に生きてんでね」
黒越が言い終えるのを待って、透が、初めて口を開いた。
「……減らず口を叩くな」
低く、温度のない声だった。咎めるでも、煽るでもない。決まりきった手順を読み上げるような、平らな調子だけがあった。
黒越の目の奥で、何かがちりりと焦げた。侮りきった余裕の裏に、隠しようのない苛立ちが滲む。
その透が、また半歩、間合いを詰めた。黒越の重さが届く、二、三メートルの内側へ。
黒越の手が、ゆるりと持ち上がる。
その指先に、見えない質量が宿るのを、俺は知っている。九鬼さんの膝を折らせかけた、あの重さだ。
透へ向けて、それが落ちる。
「潰れろ」
空気が、ぎちりと軋んだ。透の足元の床が、見えない圧で沈むはずだった。
だが。
軋みが、ふっと消えた。
黒越を中心に立ち込めていた、あの粘つく圧。九鬼さんの足を沈めた重さ。それが、透の周りだけ、跡形もなく失せていた。空気が、ただの空気に戻る。
「……なに?」
黒越の顔から、笑いが落ちた。
もう一度、指が動く。何も起きない。重さは、透の体に乗らない。乗せようとした端から、力が失せていく。
俺には、分かった。あいつの力だ。何もかも、打ち消す。離れていても、何年も会わなくても、透の能力がどういうものかだけは、知っている。
黒越は、知らなかった。
黒越だけじゃない。九鬼さんも、鵜飼さんも、いまの一瞬を呑み込めずにいた。あれだけの圧を、たった一人を前にして、誰が、どうやって解いたのか。傍目には、黒越が急に腑抜けたとしか見えなかった。
「なんだ、それは……どうなってやがる」
黒越は、無理に喉を鳴らして笑った。
「――小癪な。てめえ一人握り潰すのに、種も仕掛けもいらねえんだよ」
凄んで見せた。だが、その底に、初めて怯えが滲んでいた。切り札が、指の間から失われていくのを、自分でも分かっている男の声だった。あれほど他人を見下していた目が、いま、得体の知れないものを前に泳いでいる。
その隙を、九鬼さんは逃さなかった。
「今だ……! 黒越を押さえろ、あの三人もまとめてや!」
沈んでいた足を蹴って、前へ出る。鵜飼さんの鎖が宙を走り、瀬戸も書棚の陰から踏み込んだ。黒越も、闖入者も、ひとまとめに確保する。それが狙いだった。
だが、間に、二つの影が割り込んだ。
三人のうちの長身の一人が、九鬼さんの正面に立ちふさがる。突っ込む九鬼さんの体を、その大きな腕が、微動だにせず正面から受け止めた。
「悪いな。ここから先は、通せねえ」
荒っぽい、若い男の声だった。九鬼さんが渾身で押し込もうとする。だが、びくともしない。人ひとり分の体が、その場から一ミリも動かない。
「どかんかい……っ、なんちゅう力や」
「無駄だって。あんたら、強いけどさ」
もう一人――細身のほうは、何も言わず、ただ静かにこちらを見据えている。
鵜飼さんの鎖が、透を捉えようと宙を走る。だが、九鬼さんを受け止めたまま、長身の男が分厚い肩をわずかに送って、その軌道を塞いだ。鎖は肩口に阻まれて、力なく床へ落ちた。捕縛は、透へ届かない。
瀬戸が、踏み込んだ脚を半ばで萎えさせ、書棚の陰で膝を落とした。細身の影が、そちらへ静かに目を据えている。
「体が……動かねえ。なんだ、これ――」
瀬戸が、歯を食いしばって呻く。
「……っ。あんたら二人の仕業ね、これ」
鵜飼さんが、阻まれた鎖を握り直しながら、二つの影を睨んだ。
「動けなくしただけ。傷は、つけない」
細身が、静かに言った。女の声だった。起伏がなく、必要なことだけを短く。
「邪魔を、しないで。それで済む」
九鬼さんを正面で受け止めたままの長身が、口の端で笑った。
「ま、そういうことだ。悪く思うなよ」
軽い口ぶりのまま、その腕は、九鬼さんを一歩も通さない。
殺しに来たんじゃない。二人とも、誰の命も奪わない。ただ、こちらを黒越から引き剥がし、押し止めているだけだった。横やりを入れさせないために。先頭のあの男が黒越に向かおうとするのを、誰にも止めさせないために。
桐野は、戸口の手前で立ちすくんでいる。動けないのか、動かないのか。その視線だけが、黒越と、フードの男たちのあいだを行き来していた。
その間に。
透が、半歩、踏み込んだ。
その手に、いつのまにか、黒い片手銃が握られていた。
「待――」
黒越が、後ずさろうとした。だが、透に重さを奪われたいま、その体は、力に頼りきった、ただの中年のものでしかない。切り札を失えば、あとはもう、何ほどのこともなかった。動きは、鈍かった。
銃口が、上がる。
ためらいは、なかった。
乾いた音が、狭い部屋に弾けた。
一発。黒越の大きな体が、執務机の手前で、力なく崩れ落ちる。卓上灯の明かりが、倒れた肩のあたりで、ぐらりと揺れた。
それきり、動かない。
俺は、見ていた。三メートルと離れていない距離で、まばたきもせずに。あの大柄な男が、ひと呼吸の間に、ただの肉の塊になるのを。透が、それを為すのを。
作業だった。
怒りも、昂りも、迷いもない。指先ひとつ震わせず、透は一人の男を消した。
その静けさが、喉の奥を冷たくした。
まゆりのときも、こうだったのか。
あの夜も、こんなふうに、何の波風も立てずに手を下したのか。目の前で一人を消したこの手つきが、そのまま、あの夜に重なる。重なって、ぴたりと嵌まってしまう。
確信が、腹の底で固まった。やはり、こいつだ。こいつが、まゆりを殺したのだ。
九鬼さんたちを押し止めていた抑止は、まだ解かれていない。九鬼さんは長身の男に正面から阻まれ、鵜飼さんは封じられた鎖を持て余し、瀬戸は萎えた体を起こせぬまま、誰一人、透のしたことに手を出せずにいた。
その長身の男の腕が、ふいに横へ薙いだ。
手の中から、何かが放たれる。
金属の、薄い板。それが空を切って飛び、執務机の奥――最奥の壁へ、鋭い音とともに突き立った。
刃物が刺さるような、確かな手応えの音。
俺は、反射でそれを目で追った。
壁にめり込んだ、手札ほどの金属の札。卓上灯の弱い光が、その表面を斜めに撫でる。
刻まれていた。
影に、環を重ねた紋章。黒い陰のかたちと、それを締める輪。
その下に、横文字の一行。
――To the caged birds, the sky.
知っている。この紋章を、俺は聞いている。
〈宵闇〉の案件が回ってきた、あの日。分からないことだらけ、と桐野が漏らした。現場じゃ名前が出ると空気が固くなる、と室伏隊長は言っていた。確かなのは一つだけ――奴らは、やったのは自分たちだと、わざわざ痕跡を刻んでいく。
〈影環〉。
息が、詰まった。
この三人は、〈影環〉だ。
なら、透は。
フードの下に顔を隠し、淡々と引き金を引いた、あの男は。
透が、〈影環〉にいる。
何も言わずに消えて、まゆりを奪い、殺した男。その行方が、いま、こんな形で繋がった。あいつは、ここにいた。こういう連中の中に、ずっといたのだ。
俺の中で、ばらばらだった点が、ひとつの線になっていく。冷たい線だった。
透が、こちらへ半身を向けた。
黒越からゆっくり離れ、俺のほうへ向き直る。フードの奥の目が、もう一度、俺を捉えた。
言葉を、探した。あれからずっと、言いたかったことのすべて。なぜ、どうして、まゆりを。だが、喉は塞がったまま、声はひとつも出てこない。
先に口を開いたのは、透だった。
「……統真」
その声が、ふっと崩れた。張り詰めていたものが、ほどけていくように。
「久しぶりだな。……まさか、こんなとこで鉢合わせるとはな」
昔のままの、軽い調子だった。フードの下から覗く目つきまで、あの頃の透に戻っている。
「相変わらず、難しい面ァしてんなあ。お前、昔っからそうだろ」
時が、止まった。
まるで、何ごともなかったみたいだった。あの夜のことも、いま目の前で人を撃ったことも、何もかも、最初からなかったみたいに。
その声を、俺は知っている。何百回も、隣で聞いた。「鳴瀬」でも「お前ら」でもない、「統真」と名で呼ぶ、あの呼び方。軽口の叩き方も、語尾の崩し方も、何ひとつ変わっていなかった。
だから、こそ。
受け入れられなかった。
この昔のままの声で笑いかけてくる男が、まゆりを奪い、殺した男だ。たったいま、人ひとりを作業みたいに撃ち殺した男だ。その二つが、どうしても一つの体に収まらない。収めてはいけないと、腹の底が言っている。
昔の透の顔で、話しかけてくるな。その口で、俺の名を呼ぶな。
「お前……っ」
ようやく出た声は、掠れて、震えていた。その先が、続かない。問い詰めたいことも、ぶつけたい怒りも、山ほどあるのに、どれも喉の途中で潰れていった。
透は、何も答えなかった。半身を返し、奥の暗がりへ――三人が滲み出てきた、あの北東の一角へ、足を向ける。
長身の男が九鬼さんから離れ、細身の影もすっと退く。瀬戸の萎えた体から重しが抜け、鵜飼さんの鎖もようやく自由を取り戻す。
離脱だ。来たときと同じ、音もなく。
俺の中で、何かが、せり上がった。
まゆりを殺した男が、目の前にいる。背を向けて、行こうとしている。ずっと探して、見つけられなかった顔が、いま、確かに視界の中にある。なのに、この数メートルが、手を届かせない。
奪われたものの重さが、足の裏から駆け上がってくる。確保も、任務も、もうどこにもなかった。残っているのは、たった一つの衝動だけだ。
頭より先に、手が震えていた。脇差の柄へ伸びかけて、止まる。撃て、斬れ、捕らえろ――どれでもいい。とにかく、あの背中を、二度と見失うな。あの夜からだ。あの夜から、この瞬間だけを待っていた。
追え。
俺の足が、一歩、前へ出ようとした。




