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最強の非才 ―アノマリー―  作者: プリケツ星人
第2章

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粛清

 透の背中が、黒越へ近づいていく。


 止めろ、と頭のどこかが言っている。確保しろ、と。だが、体は動かない。肩へ伸ばしかけた手が、宙で固まったまま、降りてこない。


 黒越の目が、初めて透を捉えた。


「……てめえ、どこのモンだ」


 低い声に、いらだちが混じる。突入してきた俺たちと、背後から滲み出たこの三人。同じ夜に二つの群れが重なる事態は、この男の算段にもなかった。


 透は、答えない。フードの奥の顔は、何ひとつ読ませなかった。


 黒越が、喉の奥で笑った。だが、その笑いは、さっきまでの悠然としたものとは違っていた。


「その面の隠し方……まだ、そんな綺麗ごとを後生大事に抱えてやがるのか。青臭え」


 侮りだけを乗せて、吐き捨てられた言葉。透個人へ向けたものなのか、その背後の何かへ向けたものなのか、俺には掴めない。ただ、二人のあいだにだけ通じる因縁が、確かにあった。


「こっちは、もっと利口に生きてんでね」


 黒越が言い終えるのを待って、透が、初めて口を開いた。


「……減らず口を叩くな」


 低く、温度のない声だった。咎めるでも、煽るでもない。決まりきった手順を読み上げるような、平らな調子だけがあった。


 黒越の目の奥で、何かがちりりと焦げた。侮りきった余裕の裏に、隠しようのない苛立ちが滲む。


 その透が、また半歩、間合いを詰めた。黒越の重さが届く、二、三メートルの内側へ。


 黒越の手が、ゆるりと持ち上がる。


 その指先に、見えない質量が宿るのを、俺は知っている。九鬼さんの膝を折らせかけた、あの重さだ。


 透へ向けて、それが落ちる。


「潰れろ」


 空気が、ぎちりと軋んだ。透の足元の床が、見えない圧で沈むはずだった。


 だが。


 軋みが、ふっと消えた。


 黒越を中心に立ち込めていた、あの粘つく圧。九鬼さんの足を沈めた重さ。それが、透の周りだけ、跡形もなく失せていた。空気が、ただの空気に戻る。


「……なに?」


 黒越の顔から、笑いが落ちた。


 もう一度、指が動く。何も起きない。重さは、透の体に乗らない。乗せようとした端から、力が失せていく。


 俺には、分かった。あいつの力だ。何もかも、打ち消す。離れていても、何年も会わなくても、透の能力がどういうものかだけは、知っている。


 黒越は、知らなかった。


 黒越だけじゃない。九鬼さんも、鵜飼さんも、いまの一瞬を呑み込めずにいた。あれだけの圧を、たった一人を前にして、誰が、どうやって解いたのか。傍目には、黒越が急に腑抜けたとしか見えなかった。


「なんだ、それは……どうなってやがる」


 黒越は、無理に喉を鳴らして笑った。


「――小癪な。てめえ一人握り潰すのに、種も仕掛けもいらねえんだよ」


 凄んで見せた。だが、その底に、初めて怯えが滲んでいた。切り札が、指の間から失われていくのを、自分でも分かっている男の声だった。あれほど他人を見下していた目が、いま、得体の知れないものを前に泳いでいる。


 その隙を、九鬼さんは逃さなかった。


「今だ……! 黒越を押さえろ、あの三人もまとめてや!」


 沈んでいた足を蹴って、前へ出る。鵜飼さんの鎖が宙を走り、瀬戸も書棚の陰から踏み込んだ。黒越も、闖入者も、ひとまとめに確保する。それが狙いだった。


 だが、間に、二つの影が割り込んだ。


 三人のうちの長身の一人が、九鬼さんの正面に立ちふさがる。突っ込む九鬼さんの体を、その大きな腕が、微動だにせず正面から受け止めた。


「悪いな。ここから先は、通せねえ」


 荒っぽい、若い男の声だった。九鬼さんが渾身で押し込もうとする。だが、びくともしない。人ひとり分の体が、その場から一ミリも動かない。


「どかんかい……っ、なんちゅう力や」


「無駄だって。あんたら、強いけどさ」


 もう一人――細身のほうは、何も言わず、ただ静かにこちらを見据えている。


 鵜飼さんの鎖が、透を捉えようと宙を走る。だが、九鬼さんを受け止めたまま、長身の男が分厚い肩をわずかに送って、その軌道を塞いだ。鎖は肩口に阻まれて、力なく床へ落ちた。捕縛は、透へ届かない。


 瀬戸が、踏み込んだ脚を半ばで萎えさせ、書棚の陰で膝を落とした。細身の影が、そちらへ静かに目を据えている。


「体が……動かねえ。なんだ、これ――」


 瀬戸が、歯を食いしばって呻く。


「……っ。あんたら二人の仕業ね、これ」


 鵜飼さんが、阻まれた鎖を握り直しながら、二つの影を睨んだ。


「動けなくしただけ。傷は、つけない」


 細身が、静かに言った。女の声だった。起伏がなく、必要なことだけを短く。


「邪魔を、しないで。それで済む」


 九鬼さんを正面で受け止めたままの長身が、口の端で笑った。


「ま、そういうことだ。悪く思うなよ」


 軽い口ぶりのまま、その腕は、九鬼さんを一歩も通さない。


 殺しに来たんじゃない。二人とも、誰の命も奪わない。ただ、こちらを黒越から引き剥がし、押し止めているだけだった。横やりを入れさせないために。先頭のあの男が黒越に向かおうとするのを、誰にも止めさせないために。


 桐野は、戸口の手前で立ちすくんでいる。動けないのか、動かないのか。その視線だけが、黒越と、フードの男たちのあいだを行き来していた。


 その間に。


 透が、半歩、踏み込んだ。


 その手に、いつのまにか、黒い片手銃が握られていた。


「待――」


 黒越が、後ずさろうとした。だが、透に重さを奪われたいま、その体は、力に頼りきった、ただの中年のものでしかない。切り札を失えば、あとはもう、何ほどのこともなかった。動きは、鈍かった。


 銃口が、上がる。


 ためらいは、なかった。


 乾いた音が、狭い部屋に弾けた。


 一発。黒越の大きな体が、執務机の手前で、力なく崩れ落ちる。卓上灯の明かりが、倒れた肩のあたりで、ぐらりと揺れた。


 それきり、動かない。


 俺は、見ていた。三メートルと離れていない距離で、まばたきもせずに。あの大柄な男が、ひと呼吸の間に、ただの肉の塊になるのを。透が、それを為すのを。


 作業だった。


 怒りも、昂りも、迷いもない。指先ひとつ震わせず、透は一人の男を消した。


 その静けさが、喉の奥を冷たくした。


 まゆりのときも、こうだったのか。


 あの夜も、こんなふうに、何の波風も立てずに手を下したのか。目の前で一人を消したこの手つきが、そのまま、あの夜に重なる。重なって、ぴたりと嵌まってしまう。


 確信が、腹の底で固まった。やはり、こいつだ。こいつが、まゆりを殺したのだ。


 九鬼さんたちを押し止めていた抑止は、まだ解かれていない。九鬼さんは長身の男に正面から阻まれ、鵜飼さんは封じられた鎖を持て余し、瀬戸は萎えた体を起こせぬまま、誰一人、透のしたことに手を出せずにいた。


 その長身の男の腕が、ふいに横へ薙いだ。


 手の中から、何かが放たれる。


 金属の、薄い板。それが空を切って飛び、執務机の奥――最奥の壁へ、鋭い音とともに突き立った。


 刃物が刺さるような、確かな手応えの音。


 俺は、反射でそれを目で追った。


 壁にめり込んだ、手札ほどの金属の札。卓上灯の弱い光が、その表面を斜めに撫でる。


 刻まれていた。


 影に、環を重ねた紋章。黒い陰のかたちと、それを締める輪。


 その下に、横文字の一行。


 ――To the caged birds, the sky.


 知っている。この紋章を、俺は聞いている。


 〈宵闇〉の案件が回ってきた、あの日。分からないことだらけ、と桐野が漏らした。現場じゃ名前が出ると空気が固くなる、と室伏隊長は言っていた。確かなのは一つだけ――奴らは、やったのは自分たちだと、わざわざ痕跡を刻んでいく。


 〈影環〉。


 息が、詰まった。


 この三人は、〈影環〉だ。


 なら、透は。


 フードの下に顔を隠し、淡々と引き金を引いた、あの男は。


 透が、〈影環〉にいる。


 何も言わずに消えて、まゆりを奪い、殺した男。その行方が、いま、こんな形で繋がった。あいつは、ここにいた。こういう連中の中に、ずっといたのだ。


 俺の中で、ばらばらだった点が、ひとつの線になっていく。冷たい線だった。


 透が、こちらへ半身を向けた。


 黒越からゆっくり離れ、俺のほうへ向き直る。フードの奥の目が、もう一度、俺を捉えた。


 言葉を、探した。あれからずっと、言いたかったことのすべて。なぜ、どうして、まゆりを。だが、喉は塞がったまま、声はひとつも出てこない。


 先に口を開いたのは、透だった。


「……統真」


 その声が、ふっと崩れた。張り詰めていたものが、ほどけていくように。


「久しぶりだな。……まさか、こんなとこで鉢合わせるとはな」


 昔のままの、軽い調子だった。フードの下から覗く目つきまで、あの頃の透に戻っている。


「相変わらず、難しい面ァしてんなあ。お前、昔っからそうだろ」


 時が、止まった。


 まるで、何ごともなかったみたいだった。あの夜のことも、いま目の前で人を撃ったことも、何もかも、最初からなかったみたいに。


 その声を、俺は知っている。何百回も、隣で聞いた。「鳴瀬」でも「お前ら」でもない、「統真」と名で呼ぶ、あの呼び方。軽口の叩き方も、語尾の崩し方も、何ひとつ変わっていなかった。


 だから、こそ。


 受け入れられなかった。


 この昔のままの声で笑いかけてくる男が、まゆりを奪い、殺した男だ。たったいま、人ひとりを作業みたいに撃ち殺した男だ。その二つが、どうしても一つの体に収まらない。収めてはいけないと、腹の底が言っている。


 昔の透の顔で、話しかけてくるな。その口で、俺の名を呼ぶな。


「お前……っ」


 ようやく出た声は、掠れて、震えていた。その先が、続かない。問い詰めたいことも、ぶつけたい怒りも、山ほどあるのに、どれも喉の途中で潰れていった。


 透は、何も答えなかった。半身を返し、奥の暗がりへ――三人が滲み出てきた、あの北東の一角へ、足を向ける。


 長身の男が九鬼さんから離れ、細身の影もすっと退く。瀬戸の萎えた体から重しが抜け、鵜飼さんの鎖もようやく自由を取り戻す。


 離脱だ。来たときと同じ、音もなく。


 俺の中で、何かが、せり上がった。


 まゆりを殺した男が、目の前にいる。背を向けて、行こうとしている。ずっと探して、見つけられなかった顔が、いま、確かに視界の中にある。なのに、この数メートルが、手を届かせない。


 奪われたものの重さが、足の裏から駆け上がってくる。確保も、任務も、もうどこにもなかった。残っているのは、たった一つの衝動だけだ。


 頭より先に、手が震えていた。脇差の柄へ伸びかけて、止まる。撃て、斬れ、捕らえろ――どれでもいい。とにかく、あの背中を、二度と見失うな。あの夜からだ。あの夜から、この瞬間だけを待っていた。


 追え。


 俺の足が、一歩、前へ出ようとした。


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