最奥
通路の突き当たりに、戸があった。
半開きの隙間から、細い光が漏れている。その奥で、まだあの音が続いていた。何かを引きずる、低く規則的な音。
九鬼さんが、先頭で足を止めた。
俺は、その斜め後ろにつく。背後の気配を確かめた。鵜飼さんと、その内側に桐野、最後尾に瀬戸。一人も、欠けていない。
左腕の痺れを、一度握って確かめた。肘から先が、まだ鈍い。桐野は、力を残したまま後ろにいる。瀬戸は、塞いだ傷を抱えて本調子じゃない。万全とは、程遠い布陣だ。
それでも、最後の一人が、この戸の向こうにいる。退く理由は、どこにもなかった。
目で、合図を交わす。
九鬼さんが、戸を蹴り開けた。
広さの読めない一室だった。落とされた照明の中、執務机の卓上灯が、ぽつんと灯っている。
その明かりのそばに、男が立っていた。
大柄だった。肩幅も、胸板も、こちらを呑むほどに厚い。酷薄な目が、踏み込んだ俺たちを順に舐めていく。慌てる様子は、欠片もなかった。
引きずる音の正体は、すぐに知れた。男の足元に、布をかけた荷がいくつか、半端に寄せてある。逃げ支度じゃない。ただ、片付けの途中に見えた。
黒越剛三。〈宵闇〉の頭だ。
部屋は、思ったより狭かった。執務机と、壁際の調度と、書棚。逃げ場の少ない、閉じた一室だ。窓もない。中核の二人を抜いてきたフロアの広さとは、空気の質が違う。ここは、この男の巣だった。
戸の前で感じた粘つきは、この部屋では、明かりの届かない隅々まで厚く満ちていた。その出どころが、いま、目の前で笑っている。
狭いのは、こちらにも不利だった。間合いを散らせる余地が少ない。逃げ場のない箱に踏み込んだ恰好だ。まともに動けるのは、九鬼さんと鵜飼さん、それに片腕の俺。あとの二人は、温存と、回復明けだ。
俺は、痺れた左腕を、そっと前へ立てた。
「ずいぶんと、賑やかに上がってきたな」
腹の底に響く、低い声だった。
「梶原と、砥上を抜いてきたか。あの二人を転がしてここまで来たなら、まあ、褒めてやってもいい」
黒越が、薄く笑った。卓上灯の影が、酷薄な目尻に濃く落ちる。
「役所のお勤めご苦労なことだ。正義の御旗を担いで、夜中にビルへ押し入る。青臭い茶番だな。何のためにそんな力を使ってる? 守るため、か」
その口ぶりには、心底からの侮りがあった。力は奪うためにあるのだと、信じて疑わない男の声だった。
「守るため、ねえ」
黒越が、喉の奥で低く笑った。
「お前らのやってることはな、穴の空いたバケツで海をかき出すようなものだ。ひとつ潰したところで、明日にはまた湧く。何人束になって来ようと、変わりはせん。……それでも踏み込むってのは、正義ってより、ただの意地だろう」
返す気はなかった。ここへは、議論しに来たわけじゃない。
「だが、そこまでだ」
言葉と同時に、空気が変わった。
いや、空気じゃない。体だ。
九鬼さんの足が、ぐっと沈んだ。見えない重みが肩にのしかかり、その膝が、わずかに折れる。
「……っ、重っ」
九鬼さんが、低く呻いた。豪快なこの人が、踏み出す足を、重さに鈍らせている。
黒越の手が、ゆるりと上がっていた。指の動き一つで、見えない質量を、相手の体に乗せている。
重力か、質量か。とにかく、対象を重くして、押し潰す力だ。
俺は、男の足元から手元までを、素早く測った。
効いているのは、九鬼さんと、その周りだけだ。黒越を中心に、半径で二、三メートル。瀬戸も桐野も、後ろの面々はびくともしていない。
局所だ。届く先が、決まっている。
「鳴瀬くん」
九鬼さんが、歯を食いしばったまま、目だけでこっちへ寄越す。任せる、という目だ。
「正面、避けろ……!」
言われるまでもなかった。
俺は、横へ跳んだ。
壁際の調度の陰を縫って、黒越の右手側――卓上灯の死角へ回り込む。輪の縁だ。重さは、ここまで届かない。
黒越の眉が、初めて動いた。
「ほう。届く先を、読むか」
「あんたの力は、そう広くない」
俺は、間合いを詰めながら短く返した。
「離れてりゃ、ただの中年だ」
「口の減らんガキだ」
黒越が笑った。だが、その笑いから、余裕がわずかに欠けていた。
「だが、勘違いするな。広くなくても、深い。お前一人くらい、骨ごと床に押し込んでやれる」
言葉ほどには、男も動けずにいた。一人へ重さを集めれば、別の方向が空く。局所の力は、囲まれることに弱い。
その隙を、九鬼さんが突いた。
圧の中心が、九鬼さんから離れ、輪の外の俺を追って伸びかけたが、届かない。宙で逸れた。その重さが緩んだ刹那を、九鬼さんは逃さなかった。鈍っていた足が、ぐっと前へ出る。横へ流れ、黒越の死角を突く。男の意識が、一瞬、そちらへ割れた。
すかさず、鵜飼さんの鎖が黒越の右腕をかすめ、瀬戸が書棚の陰へ回って、東の暗がりを塞いだ。桐野だけが、戸口の手前で動かない。力を、残したままだ。
万全じゃない布陣でも、五人いる。輪を狭めれば、この狭い巣はかえって、黒越の利を一枚ずつ削っていく。
「ずいぶんと、舐められたものだな」
黒越の声が、低く凍えた。
「数だけは揃えてきたか。いいだろう。この箱の中じゃ、重いのは俺の腕だけだ。どこの誰に乗せて潰すか――それを選ぶのも、俺だ」
だが、その手は、動かない。四方の誰へ重さを落とすか、決めきれずにいる。
俺は、外縁から、間合いを詰めた。
もう一歩で、肩に手が届く。乾いた間合いだ。重さは来ない。組み伏せて、鎮静を打ち、リングをはめれば、それで終わる。
砥上でも抑え切れなかったあのリングが、この格上に効くのか。その不安を、呑み込む。
その時だった。
居室の奥が、動いた。
書棚の陰の瀬戸が、誰より早く身を強張らせた。東を塞いでいた背が、北東の暗がりへ鋭く向く。
北東の、明かりの届かない一角。黒越の私室へでも通じているのだろう、暗がりだけがわだかまっていた、その一点。
そこから、人影が三つ、滲み出した。
音は、なかった。足音も、衣擦れも、息遣いさえ、何ひとつ。
俺たちが戸を蹴り破って雪崩れ込んだのとは、何もかも違う。気配を殺し、暗がりそのものが形を得て、三人がすっと前へ出てくる。急ぐでもなく、構えるでもない。場を読み切って、淡々と。
フードに、黒いマスク。素顔は、どれも見えない。陰の奥に、目のあたりが、かすかに覗いていた。
一人は、細身で、佇まいが静かだった。もう一人は、長身でがっしりとして、見るからに前へ出たがっている。残る先頭の一人が、ゆっくりと足を進める。その一歩には、闖入者のためらいも、気負いもない。ただ、為すべきことを為しに来た者の、静かな運びだった。
この出方は、最初からここで待っていた者の出方じゃない。気配の殺し方も、間合いの取り方も、この部屋の住人のものとは、どこか異質だった。俺たちと同じ夜に、同じ獲物を狙って――そんな直感だけが、ちりっと首の後ろを撫でた。
俺の手が、止まった。
黒越の肩へ伸ばしかけた手が、宙で固まる。
先頭の一人。その歩き方に、見覚えがあった。
歩幅。肩の落とし方。前へ踏み出す、足の運び。体に染みついた、見慣れた動き。何百回も、隣で見た動きだ。
まさか。
喉の奥が、ひとつ鳴った。
その男が、こちらへ半身を向けた。それから黒越へ向き直ろうと、わずかに首をめぐらせる。その一瞬、卓上灯の光が、伏せたフードの縁を、首筋の左側を、斜めから撫でた。
マスクのゴム紐の、すぐ下。首の左側面に、楕円の薄い痣が覗いていた。
知っている。
その痣を、俺は知っている。耳の下から、鎖骨の手前まで。長さ二センチ。襟の影に隠れて、本人もふだん忘れている、小さな痣。
息が、止まった。
透だ。
影山透。
まゆりと一緒に歩いていた男。まゆりを、奪っていった男。まゆりを――殺した、男。何年も会わなかった、親友だった、男。
それが、いま、目の前にいる。フードの下に顔を隠して、〈宵闇〉の頭の前に立っている。
指先が、冷えた。確保へ伸ばしたはずの手が、宙で固まっている。感覚が遠く、何を考えればいいのか、体のどこから動かせばいいのか、命令が降りてこない。確保のことも、黒越のことも、足元から抜け落ちていく。
ただ、透。その一語だけが、喉の奥でつかえて、降りも上がりもしなかった。
透が、俺を見た。
フードの奥の目が、確かに俺を捉えている。
なのに、何もなかった。
驚きも、たじろぎも、後ろめたさも。何年ぶりかに親友と鉢合わせた人間の顔じゃなかった。ただ、そこに俺がいると認めただけ。それきり、視線は黒越へ戻っていく。淡々と、何の波風も立てずに。
その静けさが、何より、こたえた。
黒越のほうが、よほど動いていた。
「……てめえら」
悠然としていた声が、初めて掠れた。背後から現れた三つの影に、頭は明らかに気づいていなかった。突入と、この出現が、同じ夜に重なる。それは、この男の算段にもなかったのだ。
黒越の余裕が、音を立てて崩れていく。
俺は、動けなかった。
肩へ伸ばした手は、宙に浮いたまま。確保の手順は、頭から消えている。九鬼さんが何か鋭く叫んでいる気もしたが、ひどく遠く、くぐもって聞こえた。いま組み上げてきた包囲も間合いも、意味を失っていく。
「鳴瀬くん! どないした、しっかりせえ!」
声が、ようやく届く。けれど、足は動かない。視線は、透の首の痣に、縫いとめられたままだった。
透が、黒越へ向かって、一歩を踏み出す。
その一歩は、迷いもなく、私情もなく、ただ淡々としていた。逃げ惑う黒越へ、まっすぐに。
俺は、その背中を、見ていることしかできなかった。




