綻び
棚の奥の気配は、動かなかった。
息を殺して、間合いだけを計っている。出てくる気も、退く気もない。膠着だ。
だが、これは俺に分のある膠着だった。
砥上の息は、すでに上がりきっている。撃つたびに、男は自分の中の何かを削っていた。床と鉄をいくら従えても、放つ本人が保たなければ意味はない。待てば、向こうから先に綻ぶ。
俺は左腕の痺れを一度、握って確かめた。指は動く。肘から先がまだ重いが、戦えないほどじゃない。
背中の桐野は、俺の上着の裾を握ったまま、息を整えようとしていた。震えは、まだ抜けない。
「桐野。俺の真後ろから動くな」
「……はい」
掠れた返事だった。それでも、頷く気配だけは、確かだった。
左で、空気が鳴った。
九鬼さんだ。加速の残像を曳いて、抑えていた構成員へ一気に詰める。男が拳を振り上げる前に、懐へ入っていた。肘が、相手の鳩尾へ突き刺さる。
くぐもった音。構成員が、力を失って膝から落ちた。
「一人、片づいたで」
九鬼さんの声が、低く飛んでくる。息は乱れていない。豪快なだけの人じゃない。一撃で終わらせる、その精度がこの人の強さだ。
フロアの隅では、瀬戸がもう一人を抑え込んでいた。刃の腹で気を引きつけ、決め手こそ欠くが、相手を一人、ずっと止め続けている。残るは、棚の奥の砥上だけだ。
これで、前衛にひとつ手が空いた。
潮目が、変わる。
「九鬼さん、合わせてください」
棚の陰を睨んだまま、俺は短く告げた。
「あの男、鉄と水から離せば、ただの素手だ。乾いた場所へ追い込みます」
「ええで。北、回ったる」
言うが早いか、九鬼さんの体がまた加速した。フロアの中央を回り込んで、棚列の向こう――砥上の背側へ抜けていく。挟む。前と後ろから。
砥上の気配が、揺れた。背後に回り込まれたのを、察したらしい。
棚の陰から、男が飛び出してくる。
追い詰められる前に、自分から動いて間合いを作る気だ。悪い判断じゃない。だが、出てきた場所が悪い。
背の裾から、桐野の手が離れた。言いつけどおり、その場へ踏みとどまったのだ。
俺は、踏み込んだ。
砥上が手近なスチール棚の支柱へ手を伸ばす。そこを導線にして、また放電を引く腹だ。させない。男の手が届くより早く、俺は横から肩で当たって、砥上の体を通路の中央へ押し出した。
鉄からも、濡れた床からも、遠い場所へ。
さっき自分が跳び込んだ、乾いた一角。倉庫から出されたままの、ただの木の塊だ。砥上の力が、いちばん噛みつけない場所だった。
そこへ、男を追い込む。
「させ……っ」
砥上が、床へ手をついた。放電を、足元から這わせようとする。だが、ここの床は乾いている。火花は、男の手のひらの周りで散るだけで、伸びていかない。導線がない。
「効かねえ……ここじゃ、効かねえのかよ……っ」
焦りが、声に出ていた。
男が、自分の地の利をすべて奪われたことに気づく。鉄と水のある向こう側へ戻ろうとして、振り返る。
その背に、九鬼さんがいた。
北側を塞いでいる。砥上が戻る先は、ない。前に俺、後ろに九鬼さん。乾いた床の上で、男は挟まれた。
逃げ場を探して、砥上の目が泳いだ。鉄も、水も、手の届くところにはない。残されたのは、乾いた木と、自分を挟む二人だけだ。追い詰められた、血走った目だった。
「悪いな」
九鬼さんが、笑った。
その体が、加速する。
砥上が、とっさに身を捻った。九鬼さんの突進をかわす。その動きの先に、俺がいる。男の視界が、二人を同時には捉えきれない。加速のほうへ気を取られた、その半身が、こちらへ晒された。
逃さない。
懐へ、入った。
無音で、低く。男の意識が九鬼さんへ向いた、その下をくぐった。
砥上の鳩尾へ、肘を入れた。
息が、詰まる音。男の体が、くの字に折れる。よろけた先へ、北から九鬼さんの加速の一撃が刺さった。肩口を、容赦なく撃ち抜く。
二つの衝撃に、前後から挟まれて。
砥上が、膝から崩れた。
乾いた床の上で、もう這うものも、伝うものもない。男の指先で散っていた火花が、力なく細くなっていく。
「……かはっ」
砥上が、うつ伏せに倒れた。
倒れてなお、男の右手が、床を掻こうとしていた。鉄を、水を、何か導けるものを探している。ここには、何もない。乾いた木と、コンクリートの床だけだ。
俺は、腰の携行ケースから注射器を抜いた。前線が各自持たされている、即効性の鎮静剤だ。倒れた男のうなじへ、迷わず針を落とす。
二十秒もすれば、意識は底へ落ちる。撃つ意志も、抗う意志も、そこで断たれるはずだった。
「鵜飼さん、頼みます」
俺は、砥上から目を離さずに言った。
砥上を鎖で縛るのは、ここまで待たせていた。あの鎖は金属だ。放電できる状態の男に巻きつければ、痺れを伝える導線にしかならない。確保は、無力化を済ませてからだ。
いまなら、いい。男に、もう撃つ力は残っていない。
「はぁい。坊や、ようやくお呼びがかかったわね」
妖艶な声とともに、鎖が宙を鳴った。
鵜飼さんの操る金属の鎖が、倒れた砥上の両腕を、背中で絡め取る。手首を、肩を、きつく縛り上げていく。男が呻いて身をよじったが、鎖は緩まなかった。
続けて、鵜飼さんが砥上の首へ、リングをはめた。
かちりという、留め金の音。
これで、終わり――のはずだった。
砥上の指先で、青い火花が、ぱちりと爆ぜた。
「……は?」
俺は、目を細めた。
鎮静は、打った。リングも、確かにはまっている。留め金も落ちた。それなのに、男の指の先で、火花がまだちらついている。消えていない。弱々しくはある――だが、消えない。
「坊や、これ……抑え切れてないわよ」
鵜飼さんの声から、いつものからかいが消えていた。鎖を握る手に、力がこもる。
鎮静を打ち、リングまではめた相手の力が、こうも残るのを、俺は見たことがなかった。たいていの能力者は、ここまでやれば、完全に黙る。なのに、この男は、まだ底のほうで何かが燻っている。
倒れ、縛られ、枷をはめられて。それでも、消えない火花。
この砥上という男は、見た目以上に、底が知れない。仕留めそこねていたら、どこまで粘られたか分からない。背筋に、遅れて冷たいものが這った。
鎖が導線に化ける危険は、忘れていない。だが、ここまで細った火花は、鎖越しに人を痺れさせる力にならない。
「……縛りは、二重にしてください。リングだけじゃ、心もとない」
「言われなくても、そうするわよ」
鵜飼さんが、二本目の鎖を巻きつけた。砥上の指の火花は、それでも完全には消えなかった。ただ、もう撃つ形にはならない。チリチリと、燻るだけだ。
ひとまずは、これでいい。立てなくして、身柄を押さえる。この場でできるのは、そこまでだ。あとは、いつもどおり、下から上がってくる収容班に引き渡せばいい。
俺は、ようやく息を吐いた。
左腕の痺れが、いまになって主張してくる。肘から先が、まだ鈍く重い。だが、構わない。倒すべきものは、倒した。
「鳴瀬」
瀬戸の声がした。
見れば、もう一人の構成員も、瀬戸が床へ組み伏せている。刃の腹を首筋に当てて、動きを止めていた。本調子じゃない体で、それでも最後まで一人を手放さなかった。
「悪い。決め手は持ってけなかったけど」
「充分だ。一人、止めてくれてた。それで助かった」
瀬戸の頬が、わずかに緩んだ。腕の傷は塞がっているが、本調子にはまだ遠い。無理をさせずに済んだのは、こちらにとっても幸いだった。
フロアに、静けさが戻ってくる。
三人の敵は、すべて床に伏している。構成員が二人と、砥上が一人。倒し、確保した。上層は、抜けている。
短い、静止だった。誰も、声を上げない。荒い息だけが、暗いフロアに幾重にも重なって聞こえる。勝ったという高揚は、まだ湧いてこない。ただ、片をつけた。その実感だけが、じわりと足元に降りてくる。
だが、片付いた、と思うには、まだ早い。
背後で、衣擦れの音がした。
桐野だ。膝を立てて、こちらへ来ようとしている。
「鳴瀬先輩。腕……治します」
桐野が、俺の左腕へ手を伸ばしてきた。痺れた前腕に、そっと指を添える。
治癒の温もりが、伝わってくるはずだった。
だが、伝わってくるものが、薄い。
いつもなら、傷口にじんわりと熱が満ちて、痛みが溶けていく。今日は、その熱が、なかなか起きてこない。桐野の指先が、かすかに震えていた。
「……あれ」
桐野が、小さく声を漏らした。
「すみません……うまく、力が……」
桐野の額に、汗が滲んでいる。顔色も、よくない。梶原を倒したあと、瀬戸の腕を治した。あの消耗が、まだ抜けきっていないのだ。そこへ、砥上の追い込みの恐怖が重なった。体も、心も、すり減っている。
治癒は、深い傷ほど時間がかかる。いまの桐野は、その時間を保たない。
「いい」
口にしてから、さっきも同じことを言ったのを思い出した。
俺は、桐野の手を、痺れていないほうの手で、そっと押し戻した。
「もう、やめろ」
「で、でも、まだ先輩の腕が」
「これくらい、ほっとけば治る」
嘘だ。二度目の嘘だ。それでも、桐野に言うぶんには充分だった。
桐野が、引こうとして、よろけた。立ち上がりかけた足が、もつれている。とっさに、肩を支えた。骨張った、頼りない肩だった。
「無理を、しすぎだ」
「……っ、平気、です」
「平気じゃない。顔に出てる」
桐野が、唇を噛んだ。
悔しいのだろう。役に立てない自分が。せっかく、梶原の手当てで掴んだ手応えを、ここで返せないことが。
その気持ちは、分かる。だが、いまは違う。
「桐野。よく聞け」
俺は、桐野の目を見て言った。
「最奥が、まだ残ってる。この先に、いちばん厄介なやつが控えてる。お前の力は、そのために残しておけ」
「……鳴瀬先輩」
「お前を、いま使い潰すわけにはいかない。深い傷が出たとき、治せるのはお前だけだ。だから――温存しろ。それも、立派な仕事だ」
桐野が、目を見開いた。
それから、ゆっくりと、その目に、別の色が差した。怯えでも、悔しさでもない。役目を、引き受ける目だ。
「……分かりました」
桐野が、静かに頷いた。
声が、据わっている。さっきまでの、不安げに揺れる語尾じゃない。
「ここから先は、ちゃんと、残しておきます。先輩たちが深手を負ったら――そのときは、私が、治します」
「ああ。頼りにしてる」
短く返すと、桐野の頬に、わずかに血の気が戻った。
守るだけの相手じゃない。庇うだけの後輩でもない。こいつは、もう、この隊の一枚だ。万全じゃない体で、それでも自分の役目を見据えている。
それで、いい。
俺は、桐野から手を離し、北へ向き直った。
フロアの奥。倉庫の棚列の、そのさらに向こうに、通路が一本、口を開けている。
最奥へ続く道だ。
「行くで、鳴瀬くん」
九鬼さんが、北へ向き直る。
ちょうど、下のフロアから収容班が上がってきた。梶原のときと、同じ流れだ。鵜飼さんが、二重に縛った砥上の身柄を、その手へ預ける。リングが効き切っていないこと、縛りは解くな。それだけを、念を押して伝えておいた。先へ進む列に、確保した男を抱えていくわけにはいかない。
用が済むと、要員が自前の枷で砥上の両腕を縛り直した。鵜飼さんの鎖から、金属と革の拘束具へ、隙間なく移し替えていく。それを見届けてから、鵜飼さんは鎖を巻き取った。両手の空いた彼女が、俺たちの後ろへ戻ってくる。先に九鬼さんが落としていた一人も、別の要員が肩に担いで運び出していった。瀬戸も、抑えていた構成員を要員に任せて、列へついた。
縦に組み直す。先頭に九鬼さん、続いて俺。一歩下がって鵜飼さんと、その内側に桐野。最後尾に瀬戸。
一人も、欠けていない。梶原と砥上を抜いて、ここまで来た。悪くない。
通路の奥を、見据えた。
明かりが、ひとつだけ灯っている。落とされたフロアの暗がりの、その先で、戸の隙間から細い光が漏れていた。
誰かが、いる。
耳を澄ます。物音。何かを、引きずるような。あるいは、運ぶような。低く、規則的な音が、戸の向こうから漏れてくる。
慌てた気配は、ない。逃げ支度でも、迎え撃つ構えでもなかった。こちらが中核を二人抜いて辿り着いたことは、もう伝わっているはずだ。それでも、何かが淡々と続いている。それが、かえって質が悪い。
息を、ひそめた。
この奥に、〈宵闇〉のトップがいる。中核を二人抜いて、ようやく辿り着く、最後の戸。あの細い光の向こうに、いちばん厄介な何かが、待っている。
空気が、変わっていた。
砥上のときとは、別の種類の重さだった。鉄や水の地の利じゃない。剥き出しの腕力でもない。もっと、奥のほうから滲んでくる圧だった。息が、詰まるほど濃い。フロア全体が、静まり返っていた。
梶原のときも、砥上のときも、こんな感じはしなかった。格が、違う。頭で考えるより先に、体のほうが察していた。
左腕は、まだ痺れている。桐野は、消耗を抱えたままだ。万全には、程遠い。
それでも、足は止まらなかった。
「……気配が、濃い」
九鬼さんが、低く呟いた。
「ああ。あの戸の向こうだ」
俺も、声を落として返す。
通路へ、一歩、踏み込んだ。
床を擦る靴の音が、やけに大きく響いた。さっきの物音が、ふと止む。それから、また何事もなかったように続きはじめた。
灯りが、わずかに揺れた気がした。戸の向こうの何かが、こちらの足音を聞きつけたように。それでいて、動じる気配は微塵もなかった。
仕留めるべきものは、まだ片付いていない。むしろ、本番はこの先だ。
何が待っているのかは、分からない。中核の二人とも違う、得体の知れない相手だ。それでも、ここで退く理由はない。退けば、また新しい誰かが、あの組織に呑まれていく。止めるなら、ここしかなかった。
俺は、痺れた左腕を前に立て直し、最奥の戸を見据えたまま、暗い通路を北へ進んだ。




