盾
階段を上り切ると、空気が変わった。
中層にこもっていた埃っぽさが薄れて、代わりに、機械油と結露の匂いが鼻についた。上層フロア。デスクの島と、背の高いスチール棚が、半分死んだ蛍光灯の下に並んでいる。手前が事務所、奥が倉庫。落とされた明かりのぶん、什器の輪郭だけが鈍く光っていた。
縦に連なったまま、俺たちは踏み込んだ。前衛の中央に俺、左右に九鬼さんと瀬戸。一歩下がって鵜飼さん、その内側に桐野。中層を抜けてから組み直した並びだ。一人も、欠けていない。
ただ、桐野の足取りが、まだ重い。瀬戸の腕を閉じたぶんの代償を、本人は隠そうとしていた。隠せてはいなかったが、いまは言わずにおく。
フロアの奥、倉庫の棚列の手前に、男が立っていた。
待っていた、という立ち方だ。両脇に二人。堅気には見えない構えの男たちが、こちらを睨んでいる。目を引いたのは、真ん中の一人だった。
二十代か。痩せた長身。だらりと下げた右手が、脇のスチールキャビネットの天板に、無造作に触れている。
その指先で、青い火花が、ぱちりと鳴った。
「砥上さん、来やがった」
右の男が、吐き捨てるように言った。
砥上、というのが、真ん中の名前らしい。
「……電気か?」
九鬼さんが、前を見たまま低くこぼした。
天板を伝って、火花が走る。キャビネットの縁、デスクの脚、床を這う配線――金属に触れるたび、青い筋が枝分かれして伸びていく。触れたものを導線にして、痺れの届く範囲を押し広げているらしい。そういう力か。
系統の名前なんて、どうでもいい。要は、触れれば痺れる。男は、この部屋に詰まった鉄と、濡れた床とを、まるごと自分の間合いに変えようとしていた。
東の隅。給湯コーナーの足元が、濡れて光っていた。結露か、こぼした水か。あのあたりへ踏み込めば、足の裏から持っていかれる。
地形は、向こうに有利だが、読める。それに、どんな力にも必ず穴があり、あの男の力の底も、これから探ればいい。
「九鬼さん、左を。瀬戸、右だ。真ん中は、俺がやる」
「了解や」
「まかせろって」
言い終わる前に、横が動いた。
九鬼さんの体が、加速の残像を曳いて左の男へ飛ぶ。瀬戸が刃を起こして、右へ切り込む。二人の構成員が、それぞれの相手に引き出されていった。
瀬戸の踏み込みは、いつもより浅い。治ったばかりの腕のせいで、本調子には程遠い。決め手は、あいつには期待できない。抑えていてくれれば、それで充分だ。
残ったのは、砥上と、俺だ。
しばらく、互いに動かなかった。
男の目が、俺の足元と、近くの什器とを、せわしなく往復している。どこを導線にして、どこへ俺を追い込むか。頭の中で、地形を線で結んでいるのだろう。悪くない目だ。だが、その算段の癖が、こちらにも読める。
「……へえ」
男が、口を開いた。
「よくもまあ、こんな奥まで上がってきたもんだ。だが、ここから先は通さねえぜ」
答えない。会話に付き合う気はない。男の口元には、まだ余裕があった。こちらを、侮っている。
「だんまりか? いいぜ。じきに、口どころじゃなくなる」
砥上が、キャビネットの天板を、手のひらで叩いた。
青い光が、天板を端まで奔った。デスクの島へ飛び移り、床の配線を伝って、俺の足元へ枝を伸ばしてくる。
退かない。退けば、間合いを譲る。
線の来ない場所へ、跳んだ。乾いた木のパレットの上。倉庫から出されたまま、通路の脇に積んである。鉄でも、水でもない。火花は、そこで行き場をなくして消えた。
「逃げてばっかで、長くは保たねえぞ」
砥上の目が、俺を追う。手が、今度は床を直に叩いた。
濡れた床伝いに、放電が扇形に広がる。派手だ。だが、扇の中心から外れていれば、縁までは届かない。その縁を読んで、半身で抜けた。鉄に触れず、水に触れず、男の手にも触れさせない。守るのは、それだけでいい。
近い。あと二歩で、肘の間合いだ。
砥上が、初めて舌を打った。
床と鉄を使い切った攻めが、俺一人に当たらない。導体を伝う力は、見た目の派手さの割に、当てる相手を選べないのだ。触れさせなければ、ただの火花にすぎない。
打ち合ううちに、力の輪郭が見えてきた。あの放電は、遠くへは飛ばない。床と鉄を伝って広がりはしても、宙を裂いて落ちてはこない。触れるか、触れたものを介すか。届く先には、限りがある。間合いさえこちらが握れば、勝てる。最初に見えていた「触れれば痺れる」の先が、ようやく形になった。
左で、金属のひしゃげる音がした。
ちらと見れば、九鬼さんが加速の一撃で、構成員の一人をスチール棚へ叩きつけたところだった。相手が、両膝から崩れ落ちる。豪快な人だ。右では、瀬戸が刃で得物を払いのけている。さばいてはいる。が、いつものキレはない。腕をかばう動きのぶん、返しがどうしても遅れていた。
長くは保たない。瀬戸が崩れる前に、こちらを決めておきたい。
砥上へ、視線を戻す。
男の体が、什器の陰に半分隠れていた。明かりの落ちた角度。こちらの目が届きにくい、影の側だ。能力者は、自分の力の射程の内側にいるとき、いちばん気を抜く。撃てる場所にいる、という安心が、足を止めさせる。
その止まった足こそ、隙だった。
影の縁へ、低く滑り込む。無音で、姿勢を落として。男の意識が放電の構えに向いた、その下をくぐった。死角を、物理で抜ける。昔、養成機関の連中がそう呼んだやり方だ。特別な仕掛けなんて、ありはしない。相手が能力で守ったつもりの場所を、足の速さと角度で上回る。
砥上の喉元へ、肘の先が届きかけた。
男が、のけぞって逃げる。寸前で、椅子を蹴り倒して間に挟んだ。金属の脚に、青い光が奔る。触れれば痺れる壁だ。それ以上は踏み込まず、引いた。
仕留めそこねた。だが、向こうも、肝を冷やしたはずだ。
「……いまの、避けやがったのか」
砥上の声が、硬くなった。喉元を取られかけた感触が、まだ残っているのだろう。さっきまでの侮りが、初めて剥がれた。
男が、攻め方を変えた。
濡れた給湯コーナーのほうへ、じりじりと回り込みながら、放電で俺を逆側へ追ってくる。あそこへ足を踏み入れさせる気だ。水を踏めば、扇の外も内もない。床ごと持っていかれる。
「そら、どうした? さっきの威勢は」
男が、嗤った。声で焦らせて、判断を急がせる気だ。安い手だが、悪くはない。実際、水場は近い。
誘いに、乗ってやる義理はなかった。
俺は、追われるふりをして、乾いた床の縁だけを選んで動いた。男が水場を背にした、その一瞬――逆に踏み込む。誘っていたつもりが、誘い込まれていた、という顔を、砥上がした。
脇腹へ、肘を一つ。
手応えはあった。だが、浅い。男はとっさに身を捻って、距離を取り直した。決定打には、届かない。
「……やるじゃねえか」
砥上が、肩で息をしながら、笑ってみせた。強がりだ。声に、さっきまでの余裕はない。
「しゃべってる余裕が、あるのか?」
間合いを計りながら、俺は短く返した。男の顔から、笑いが消える。
息が、上がりはじめている。連発のたびに、男は何かを削っていた。導体がいくらあっても、撃ち続ける本人の体力までは、無尽蔵じゃない。長くは続かない攻めだ。
懐へ入れば、終わらせられる。
その確信が、足を出させかけた。だが、その瞬間、砥上の足が、後ろへ引かれた。
奥の棚列。背の高いスチール棚が、倉庫の方へ何列も並んでいる。あの陰に入られれば、視線が切れる。深追いして棚の谷間へ踏み込めば、足場も、どこに鉄が走っているかも分からない。向こうの土俵だ。
追い込みきれない。仕留めの一手は、まだ出せない。
踏み込みを殺して、間合いだけを保った。膠着だ。だが、悪くはない。時間は、息の上がっている向こうの不利になる。
はずだった。
砥上の目が、俺から逸れた。
俺の肩越し――その、後ろへ。
視線の先を、考えるより早く、背筋が読んだ。
後衛。桐野。
正面で崩せないと見た男は、的を変えた。前線の俺たちじゃない。その後ろで踏ん張っている、消耗した後方支援役のほうへ。
「正面が固えなら――」
砥上の口が、薄く吊り上がった。
「後ろの嬢ちゃんを、もらうぜ」
砥上が、横へ跳んだ。
奥の棚列の陰。一列、二列と、棚を盾にして、俺の視線を切りながら南へ滑っていく。棚列が切れても、男は足を緩めない。その先には、事務所側のキャビネットの島が続いている。遮蔽を伝ったまま、前線の脇をすり抜けて、桐野の側面へ回り込む腹だ。
「桐野ちゃんっ!」
鵜飼さんの声が、上がった。鎖が、宙で鳴る。だが、砥上との間には、キャビネットの島が一つ、挟まっている。回り込む鎖より、什器の間を抜ける男のほうが速い。
間に合うのは、俺だけだ。
間合いを、捨てた。
砥上を追うんじゃない。桐野へ、まっすぐ走る。前衛の位置も、詰めかけた距離も、全部投げて、斜めにフロアを突っ切る。走ることだけは、昔から得意だ。
什器を飛び越え、行く手の椅子を蹴り飛ばし、最短で線を引く。間に合うか、間に合わないか。考えている時間はなかった。足は、先に動いていた。
キャビネットの陰から、砥上が躍り出る。濡れた手が、桐野の肩へ伸びた。桐野の顔が、こちらを向きかけて、強張る。逃げ場はない。屈んだ姿勢のまま、動けない。
届け。
砥上の手と、桐野の間へ、体をねじ込んだ。
左の前腕で、伸びてきた手を、外から払う。
痺れが、走った。
肘から肩へ、白い熱が突き抜ける。指の先まで、いっぺんに固まった。鉄を伝うより、人を直に打つほうが、よほど効く。歯を食いしばって、声だけは殺した。後ろの桐野に、痛がる顔は見せられない。
だが、それだけだ。
払うと同時に、桐野の襟をつかんで、乾いた床へ引き倒していた。男の手から、桐野を引き剥がす。接点が、切れる。痺れの線が、そこで途切れた。一瞬の被弾で済んだ。腕は痺れているが、動く。骨も、意識も、無事だ。
深くは、もらっていない。
左腕が、肘から先、重く強張っていた。指は、辛うじて握れる。これくらいなら、まだ戦える。問題ない。
俺は、痺れた左腕を前に立てたまま、桐野を背に庇って、砥上と相対した。
男が、舌打ちして、後ろへ跳ぶ。一撃で桐野を獲れなかった以上、長居はしない。また棚の陰へ滑り込んで、間合いを取り直した。
「ちっ……庇うのかよ、そいつを」
吐き捨てる声に、苛立ちが滲んでいた。
息が、荒い。さっきまでの落ち着きは、もうそこになかった。
「……鳴瀬、先輩」
背中で、桐野の声がした。掠れている。
「無事か?」
「は、はい……。先輩こそ、腕が」
「かすっただけだ」
痺れは、まだ抜けない。だが、桐野に言うぶんには、かすり傷で充分だった。
桐野の手が、おずおずと、俺の左腕へ伸びかけた。治す、と言いたげな手だ。
「いい」
短く、止めた。
「これくらいで、お前の力を使うな。とっておけ」
桐野が、手を引く。迷いの残る目で、それでも頷いた。瀬戸を治したぶんで、本調子には、まだ遠い。痺れの一つや二つに、残りを削らせるわけにはいかない。この先、もっと深い傷が出る。桐野の手は、そっちのためにある。
引き倒した桐野の手が、いつのまにか、俺の上着の裾を握っていた。震えている。瀬戸の腕を閉じたあとの消耗が、まだ抜けきっていない体だ。そこへ、この恐怖を重ねられた。握る指を、振りほどく気にはならなかった。
九鬼さんと瀬戸は、まだ構成員の二人を抑えている。砥上の回り込みに、即応できる駒はなかった。鵜飼さんの鎖も、キャビネットの島に阻まれて、届かなかった。前衛が二枚、塞がっていれば、後ろは薄くなる。当たり前のことだ。男は、それを正確に突いてきた。
厄介な相手だ。正面では勝てないと見るや、すぐに弱い場所を探しにくる。力の使い方を、よく分かっている。
俺は、桐野を背にしたまま、棚の陰の気配を追った。
仕留めきれてはいない。砥上は、まだ立っている。桐野は、消耗を抱えたまま、俺の背の後ろにいる。最奥は、まだ上だ。
それでも、俺の裾を握る手は、さっきより、力がこもっていた。怯えだけの握りじゃない。すがるのとも、違う。ここにいてくれるかどうか、確かめる握り方だった。
「……ありがとう、ございます」
背中で、桐野が言った。さっきより、声が据わっている。
「礼はいい。役目だ」
そう返したが、桐野は、首を横に振った気配がした。役目、のひとことで片づけさせるつもりはないらしい。律儀なやつだ。
守れた。いまは、それでいい。
「鳴瀬くん、そっちいけるんか!?」
九鬼さんの声が、構成員の向こうから飛んでくる。
「まだです。桐野から、離れられない」
棚の陰を睨んだまま、低く返した。
痺れの残る左腕を、一度握って、開く。動く。次は、もう、もらわない。
砥上の影が、棚の奥で、ゆっくりと間合いを計り直していた。
「……化けもんかよ、あんた」
棚の奥から、掠れた声がした。苛立ちと、それを上回る警戒が、声に滲んでいる。
「能力もなしで、よくもまあ」
「黙って、そこにいろ」
俺は、低く返した。
「次に出てきたら、立てなくする」
砥上は、答えなかった。ただ、棚の陰の気配が、一歩ぶん、退いた。
まだ、終わっていない。だが、ここから先は、もう後ろを抜かせない。




