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最強の非才 ―アノマリー―  作者: プリケツ星人
第2章

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手当て

 銀の壁を睨んだまま、俺は息を整えていた。


 突破口は、見えている。糸には限りがあり、檻は組み替えられない。明かりさえあれば、全部見える。揃っている材料は、もう手の中にあった。足りないのは、それを一度に成立させる手順だけだ。


 瀬戸の刃は、欠けた。桐野から目を離せない鵜飼さんに対し、九鬼さんの脚は直線でしか活きず、その先には檻がある。駒を、ひとつずつ数えていくと、どうしても一手、足りなかった。


 だから、数え方を変える。


 味方の駒で足りないなら、相手の有利を、こちらの手番に書き換えればいい。梶原が勝てると踏んでいるのは、閉所と、待ち伏せと、暗がりの三つだ。そのうち崩せるものから、潰していく。


 梶原の指が、また一本、糸を送る。削れた檻が、奥から補われていく。男はこちらが焦れるのを待っている。待ち伏せる側は、動かずに勝てると思っている。その慢心が、いちばんの隙だった。


 なら、こちらから動いて、崩せばいい。


 俺は、左手の小部屋の口へ目をやった。


 配電盤。倒れたスチール棚の脇、什器の影に、灰色の箱が口を半分開けている。さっき確かめたとき、ブレーカーの何本かが落ちていた。蛍光灯が半分死んでいるのは、玉切れじゃない。落とされていたのだ。暗いほうが都合のいい者が、そうしてある。


 その配電盤の陰には、まだあの下っ端がいる。明かりを落としたまま守るだけの番人だと、そう見当をつけていた。梶原が、暗がりを手放さないための一手だ。なら、その一手から崩す。


「九鬼さん」


 俺は、前を見たまま低く呼んだ。


「合図したら、縦の直線を一息で抜けてください。線が全部見えて、補充が止まった、その一瞬だけです」


「……できるんか? それ」


「やります」


 九鬼さんは、それ以上聞かなかった。加速の脚を、いつでも出せる位置へ低く沈める。下層では威勢のよかった人が、ここでは黙って、こちらの算段に乗ってくれた。それが、ありがたかった。


 俺は、檻から目を切らないまま、左へ滑った。


 西の小部屋。配電盤へ膝を落とそうとした、その瞬間だった。


 陰から、影が跳ねた。


 スチール棚の隙間に縮こまっていた男が、俺の動きを読んで飛び出してくる。さっき梶原の名を漏らした、あの下っ端だ。配電盤へ手を伸ばさせまいと、低い姿勢で懐へ突っ込んでくる。逆手に握った、短い刃。


 臆病で縮こまっていたんじゃない。逃げ遅れたんでもない。明かりを守れと命じられた番人が、役目どおりに牙を剥いた。守るべきものを前にすれば、下っ端にも、これくらいの牙はある。


 だが、遅い。


 踏み込みの起こりは、とうに見えていた。半身で刃をかわし、伸びてきた手首を外から取る。返す肘を、男の鳩尾へ一度。息の詰まる音がして、短刀が床に落ちた。


 崩れた体勢の、その首筋へ手刀を落とす。短く、過不足なく。声を上げる間もなく、男の体から力が抜けて、棚の陰へ崩れ落ちた。


 殺しはしない。番人ひとり、眠らせれば足りる。


 配電盤の前に、膝を落とす。梶原の視界の端で、こちらが何をしようとしているか、たぶん読めていない。指は止まらない。糸繰りの手は、正面の檻に向いたままだ。


 落ちたブレーカーを、端から上げていく。


 頭上で、死んでいた蛍光灯が、ひとつ、ふたつと目を覚ました。明滅が消え、白い光が通路を端まで舐める。


 檻が、見えた。


 膝、腰、首。さっきまで明滅の谷間に隠れていた線が、一本残らず、白い光の下に浮かび上がった。何重にも張り渡された銀の格子。その向こうで、初めて梶原の顔が、はっきりと見えた。


 表情は、動かない。だが、糸を繰る指が、わずかに速くなった。


 暗がりを失ったことの意味を、男は正しく理解している。


「――遅い」


 俺は、腰の後ろへ手を回した。


 脇差じゃない。その横、腰の後ろの重みは、ホルスターのほうだ。中〜長距離で、相手の隙を伺うための道具。死角を取って、懐へ入るのが俺のやり方だ。この現場でも、間合いを詰めて捌いてきた。詰めてしまえば、銃の出る幕はない。だから、ここまでは抜かずに済んでいた。


 だが、いまは詰められない。檻が、間合いを殺している。なら、間合いの外から、檻のほうを殺す。


 撃つ相手は、人じゃない。


 明かりの下に、送り機構が剥き出しになっていた。十字路の東西の角。留め具と、小さな滑車。削った線を奥から前へ送って、檻を埋め直す要。暗がりに隠れていたから、これまで撃てなかった。いまは、見える。


 俺は、近いほうへ狙いをつけた。


 至近の留め具。四メートル。引き金を絞る。


 乾いた音が、通路に跳ねた。


 留め具が、火花を散らして弾け飛ぶ。糸の束が、行き場を失って宙でたわんだ。送り出されかけていた一本が、補充の途中で止まる。


 梶原の指が、初めて、迷った。


 もう一つ。東の角、九メートル。明かりに照らされた滑車を、白い光ごと撃ち抜く。今度は手応えが遠い。それでも、金属の砕ける音が、確かに返ってきた。


 檻の補充が、止まった。


 削られたぶんは埋まらず、銀の格子に穴が空いたまま固定された。膝の高さに、人ひとり抜けられるほどの隙間が、ぽっかりと空いた。


「九鬼さん、いまです!」


 言い終わる前に、縦通路に低く沈んでいた影が、掻き消えた。


 九鬼さんの体が、加速の残像を曳いて、縦通路の直線を撃ち抜いた。見えている線の、見えている隙間。そこだけを、まっすぐに通す。直線で詰める脚が、ここでは初めて、罠ではなく突破口へ向かって走った。


 梶原が、咄嗟に手首を返す。残った糸で、迎え撃とうとした。


 間に合わない。


 補充の止まった檻は、もう新しい壁を作れない。九鬼さんは、固定された隙間を、加速のまま抜け切った。一拍で、梶原の懐へ。


 肩からぶつかって、男の体勢を崩す。


 糸が、宙で乱れた。


 撃った重みを、腰の後ろへ戻す。俺は、九鬼さんのすぐ後ろを追っていた。加速はできない。だが、隙間さえ空いていれば、走るのは得意だ。崩れた梶原の腕を、背中側から取る。脇差は抜かない。確保だ。殺す相手じゃない。


 徒手で、肘を極め、肩を落とさせる。糸を繰る指の自由を、関節ごと奪う。男は最後まで、ひとことも声を上げなかった。仕掛けだけで語ろうとした男から、その仕掛けを取り上げる。それで、終いだった。


「鵜飼さん」


「はぁい。お疲れさま、坊や」


 後ろから、鎖が低く鳴った。


 鵜飼さんの捕縛鎖が、梶原の両腕を、手首ごと巻き取る。金属の輪が締まり、男の自由が、完全に落ちた。床に膝をつかされた梶原の首筋へ、九鬼さんが鎮静の一本を落とした。二十秒もすれば、意識は薄れる。続けて、意識の落ちかけたその首へリングをかけ、糸を繰る意志ごと無力化が成立する。


 中核の、一人目。


 通路の奥が、静かになった。


 張り渡されていた銀の壁は、もう、ただの切れた糸の残骸だった。


 俺は、息を吐いた。


 肩から、わずかに力が落ちる。だが、抜き切りはしない。中核が、これで終わりとは限らない。前夜には、いるかもしれない、と聞くだけで済んでいた話だ。いま一人と噛み合って、その厄介さの底が知れた。同じものが、まだ何人いるのか分からない。最奥は、もっと上だ。


 それでも、いまは。


 俺は、後ろを振り返った。


 壁際で膝をついた瀬戸の腕を、桐野の手が縛っていた。縛ってもなお血の滲む布の上で、桐野の指が、まだ行き場をなくして強張っていた。さっき、止血しかできなかった、それだけだ。治す力がありながら、檻の前では出せなかった手。


 その距離は、もう、ない。


「桐野」


 俺が呼ぶと、桐野が顔を上げた。


「出番だ」


 桐野の目が、見開かれる。


 檻を抜けるまで待て、と止めたのは俺だ。ここで屈めば薙がれる、と。その約束を、いま解く。脅威は去った。瀬戸の腕は、もう、お前が屈んでいい場所にある。


「……はい」


 桐野は、立ち上がった。縦通路から、西の壁際の瀬戸のもとへ、数歩で踏み込む。


 震えていた手が、瀬戸の傍へ運ばれる。覚えたての止血じゃない。今度こそ、自分の力で。膝をつき、瀬戸の二の腕に、両手を添える。


「瀬戸さん、動かないで……ください」


「うん、助かるよ」


 瀬戸が、白い顔で笑った。痛みの中でも、余裕を手放していない。


 桐野の手のひらが、傷の上で淡く灯った。


 深い切創だった。布をめくれば、肉が割れて、まだ血が滲んでいる。桐野の手のひらが触れても、傷口はすぐには塞がらない。桐野の眉が寄り、息が浅くなった。額に、汗が浮く。


 俺は、その手元を見ていた。


 割れた肉の縁が、ゆっくりと寄っていく。早送りではない。じりじりと、内側から寄っていく。桐野の呼吸が、それに引きずられて、だんだん重くなる。後方支援役の力は、ただ祈るだけのものじゃない。本人の体力を、代償に支払う。そういう力だ。


 桐野は、自分の中から力を絞り出して、瀬戸の腕に注いでいた。注ぐほど、本人が空になっていく。それでも、手の灯りは絶やさない。


 桐野の頬から、色が引いていく。


「……桐野。無理は、するな」


「だい、じょうぶ……です」


 声が、揺れていた。だが、手は止めない。引かない。さっき、檻の前で行き場をなくしていた手が、いまは傷の上から、一歩も動かなかった。


 肉が、塞がりきる。


 血の滲みが止まり、二の腕に、薄い赤い線だけが残った。瀬戸が、おそるおそる腕を曲げる。曲がった。動く。刃を握るには、充分だ。ただ、傷は閉じても、振り抜く力までは、すぐには戻らないだろう。


「……治った。すごいな」


 瀬戸の目が、自分の腕から、桐野の顔へ動いた。


「ありがとう、桐野さん。きみは、たいしたもんだ」


 桐野は、すぐには答えなかった。


 自分の両手を、見下ろしている。たったいま、人を治した手を。震えは、止まっていた。代わりに、別のものが、その顔に上がってきていた。汗をかいて、息を切らして、頬の色は引いたまま。それでも、目だけが、ほんの少し、強くなっていた。


「……できた」


 桐野が、呟いた。


 誰に言うでもない、自分への確認だった。配属の初日から、出番のなかった力。貢献の薄さに、戸惑っていた力。それが、いま、確かに人を助けた。覚えたての止血ではなく、桐野自身の手で。


「上等だ」


 俺は、それだけ言った。


 褒めすぎるのは、桐野には逆に酷だ。だが、何も言わないのも違う。短くていい。お前の力は、ちゃんと現場で役に立った。その事実だけ、置いてやればいい。


 桐野が、こちらを見上げて、頷いた。硬い顔の奥に、何かが一本、通っていた。


「桐野ちゃん、ようやったわ」


 九鬼さんが、前を警戒したまま、声だけ後ろへ投げた。


「うちの瀬戸、拾てもろて。隊は違えど、恩に着るで」


「い、いえ、そんな……当然のこと、なので」


 桐野が、慌てて頭を下げる。九鬼さんは、それ以上は言わなかった。豪快な人が、短く礼だけ置いて、また奥へ目を戻す。別隊の隊長から向けられた言葉の重さに、桐野の背が、少しだけ伸びた。


 ただ――立ち上がった桐野の足が、わずかに揺れた。


 深い傷を一つ閉じるのに、思っていたより、力を持っていかれたらしい。桐野は、それを隠そうとして、すぐに姿勢を立て直した。隠せていなかったが、いまは指摘しない。本人が、自分の力の重さと代償を、これから測っていけばいい。今日は、できた。それで充分だった。


「鵜飼さん、こいつの身柄、頼めますか」


「ええ。あとは下の収容班に渡しとくわ。ちょっと待っててね」


 鎮静の落ちた梶原を、鵜飼さんが鎖で確保したまま、後方へ引き取る。確保した一人を抱えて進むわけにはいかない。手順どおり、後ろへ送る。


 配電盤の陰で伸びている下っ端のことも、鵜飼さんに伝えておいた。番人ひとり、当分は目を覚まさない。あれも、あとから来る収容班が拾っていくだろう。


 梶原の身柄は、外の規制に立つ連中とは違う、制圧の済んだ区画まで踏み込んでくる収容班へ、ほどなく渡った。身軽になった鵜飼さんが、鎖を手元へ手繰り戻して、俺たちの列へ戻ってくる。


 俺は、通路の奥へ目を戻した。


 北の突き当たり。曲がり角の向こうに、上層への階段が口を開けている。さっきまで、銀の檻に阻まれて、辿り着けなかった場所だ。その檻は、もう、ない。


「行くぞ」


 九鬼さんが、先頭で頷いた。


 瀬戸が、塞がったばかりの腕を一度握った。刃を構え直す。握りは戻っても、いつもの冴えまでは、まだ遠いはずだ。桐野が、揺れる足を踏みしめて、鵜飼さんの内側へついた。五人が、また縦に連なる。一人も、欠けていない。


 階段の一段目に、足をかける。


 上には、まだ、もっと手強いのが待っている。黒越という名と、まだ顔を見ていない中核と、その先に。だが、いまは一段ずつだ。檻を抜けた脚で、塞がった腕で、出番を得た手で、上を目指す。


 俺たちは、中層を抜けた。


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