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最強の非才 ―アノマリー―  作者: プリケツ星人
第2章

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搦め手

 階段を一段上るごとに、下の物音が遠のいた。


 陽動の余韻も、制圧した男たちの呻きも、踊り場の角を曲がるたびに薄れていく。残るのは、自分たちの足音と、五人ぶんの呼吸だけだった。


 踊り場を二つ折り返して、中層に出た。


 九条さんが「通路と階段が入り組んだ区画」と言ったとおりの場所だった。縦に一本、細い通路が北へ伸びている。左右には、什器を詰めた小部屋の口が、黒く開いていた。天井は低い。蛍光灯は半分が死んでいて、生きている管も、明滅しながら、影を揺らしていた。


 見通しが、悪い。


 九鬼さんが先頭に立った。俺がその右、瀬戸が左について、前衛で横に三枚並ぶ。少し下がって、鵜飼さんが鎖を半ば垂らす。そのすぐ後ろに、桐野がついた。


 下層は、一列で速さを取った。同じ手は、ここでは使えない。どこかで足が止まれば、後ろが丸ごと詰まる。前の晩の、鵜飼さんの釘だ。この死角の多さなら、速さを削っても、目と対応の幅がいる。


「狭いな」


 瀬戸が、声を落として言った。表情を変えないまま、刃を低く構えている。


「下とは、別物や」


 九鬼さんが応じる。声に、さっきまでの威勢はない。加速で突っ込むには、踏み込む先が短すぎる。直線の余地がないと、あの人の脚は活きない。本人がいちばん、それを分かっている顔だった。


 俺は、通路の奥へ目を凝らした。


 明かりが足りない。だが、足りないからこそ見えるものもある。光の差し方、埃の漂い方、空気のよどみ。俺の目が拾うべきものは、ここでも変わらない。


 縦通路を、ゆっくり北へ詰めた。


 通路の途中、横道が東西に分かれている。縦の道は、そのまま北へ続いている。九鬼さんが角で一度止まり、左右を一瞥して、また前へ出た。罠を踏まないための、慎重な足どり。下層の勢いはどこにもない。


 分岐の先、左右の小部屋に、人の気配はない。什器と配電盤と、倒れたスチール棚。隠れる場所はいくらでもあるのに、誰もいない。掃いたように、いない。


 それが、いちばん気に入らなかった。


 人を掃き出したということは、ここを戦場に選んだということだ。下層の混戦とは違う。向こうは、地形と時間を、こちらより先に手にしている。それを使える相手が、この奥にいる。


 俺は足音を殺したまま、左右の小部屋の口を一つずつ確かめて進んだ。什器の影、配電盤の裏、天井を這う配線。どこに何を仕掛けられるか――自分が罠を張る側なら、と考えながら歩く。光量の乏しい通路は、何かを隠すのに、よくできていた。


 小部屋の列を抜けて、数歩。


 俺は、足を止めた。


「止まれ」


 短く言うと、残り四人の足音がぴたりと消えた。


 明滅する蛍光灯の、消える寸前の一瞬だった。通路を斜めに横切る、細い光の筋。気のせいかと思った。だが次の明滅でも、同じ位置に、同じ線がある。


 線だ。針金より細い、銀色の。


 数歩先を斜めに、膝の高さに一本、胸の高さにもう一本。光の角度がほんの少しでもずれれば、もう見えない。生きた蛍光灯の明滅という、偶然の照明がなければ、あと数歩で、気づかずに踏み込んでいた。


「鋼線……」


 桐野が、後ろで小さく呟いた。


 ワイヤーだ。それも、一本や二本じゃない。目に映る筋を辿っていくと、通路の奥――十字路のあたりに、何重にも張り渡されているのが知れた。床上のばらばらの高さに、足首、腰、首。引っかければ転び、勢いがあれば、切れる。


「待ち伏せか」


 俺は、低く言った。


 掃いたように人がいなかったのは、ここへ追い込むためだ。下層の構成員も、逃げた末端も、誰一人この通路には残さず、代わりに糸だけを残していった。


「えげつないな」


 瀬戸が、刃の角度を変えた。


 十字路の暗がりで、動く気配があった。


 通路のいちばん奥、上層へ続く階段の手前。その曲がり角から、男がひとり、音もなく前へ出てきた。


 長身で、痩せ型。両手に、何も持っていない。ただ、両の指の間から、細い銀の線が、何条も垂れていた。それが手首の動きひとつで、ぴんと張り、たわむ。指が糸を、糸が空間を、握っている。


 明滅する明かりの下で、男の表情はよく見えない。だが、口を開く気配もなかった。こちらを値踏みもしない。仕事の前の職人が、道具の具合を確かめる――そういう手つきだけが、そこにあった。


「梶原さん……っ」


 通路の脇、配電盤の陰から、声が漏れた。下っ端が一人、息を殺して縮こまっている。逃げ遅れたのか、見届け役か。その声で、男の名前だけが、こちらに渡った。


 梶原。鋼線使い。


 前夜の打ち合わせで、黒越のほかにも手強いのが何人かいる、と聞かされていた。そのうちの一人を、いま引き当てたらしい。どれほどのものかも、ほかに何人いるのかも、分からないままに。


 名乗りはなかった。男は、陰の下っ端へ目もくれない。代わりに、右手の指を、軽く引いた。


 通路の天井で、何かが鳴った。


 張り渡された線の一本が、たわみから一気に張り、別の角度へ走る。事前に仕込んだ滑車か、留め具を使ったのだろう。罠が、組み変わったのではない。最初から、そう動くように張ってあった糸が、合図ひとつで起き上がっただけだ。


 十字路の直前に、新しい壁ができた。


 膝から首までを塞ぐ、見えるか見えないかの、銀の格子の檻。


「前、出るな」


 俺は腕で、九鬼さんを横へ制した。


 遅れて、九鬼さんの体が、加速の残像を曳いた。止めきれなかった。咄嗟に踏み込もうとした足が、線の檻へ突っ込みかける。


「――っ」


 寸前で、自分の脚を殺して止まる。膝の前で、銀の線が一本、ぴんと震えた。あと半歩で、腿を持っていかれていた。


「……速さが、仇になる場所やな」


 九鬼さんが、後ろへ一歩下がる。悔しさを噛み殺した声だった。直線で詰める脚は、ここでは罠へまっすぐ走るための脚でしかない。


「瀬戸。切れるか?」


 俺は、左の瀬戸に問うた。


「やってみる」


 瀬戸が前へ出た。高周波の刃なら、鉄扉も錠も両断する。ワイヤーの一本や二本、抵抗にもならないはずだった。


 刃が、いちばん手前の線に触れる。絹を裂く音。線が、あっけなく断たれて床に落ちた。続けて二本目、三本目。瀬戸の刃は、確かに檻を削っていく。


 だが、削れた端から、奥の線が滑り出てくる。


 断たれて緩んだぶん、別の糸が留め具を伝って前へ送られ、空いた高さを埋めていく。減らした数だけ、補われる。


「きりがない」


 瀬戸が、舌打ちした。


 梶原は、動かない。指先だけが、糸を繰っている。断たれた線は捨て、生きた線を前へ送る。糸繰り人形を操るような、無駄のない指の運び。仕掛けで語る男だった。台詞は、一つもいらないらしい。


 俺は、足元に転がっていた留め具の欠片を拾い、檻の高さへ低く投げた。


 欠片が、見えない線に当たって弾かれる。乾いた音。線の位置が、一瞬だけ軌跡になって知れた。膝、腰、首。投げる角度を変えて、もう一つ放る。今度は、目で追えなかった高さに当たった。明滅の谷間に隠れていた一本だ。


 見える線だけを数えれば、見えない線にやられる。光の角度次第で消えるのが、この檻のいちばん厄介なところだった。逆に言えば、明かりさえあれば、すべて見える。梶原がこの暗い区画を選んだ理由が、それで知れた。


 明かりを握っているのは、配電盤だ。そこまで考えて、さっき声を漏らした下っ端が、腑に落ちた。


 配電盤の陰に縮こまった、あの一人。逃げ遅れたわけじゃない。明かりへ手を伸ばす者を見張るために、暗がりへ張りつけられた番人だ。梶原は、灯りひとつ、こちらに渡す気がない。


 俺は、男の指と、檻の張られ方を、同時に見ていた。


 送り出される糸には、限りがある。指の間から垂れる束は、減っている。無限に湧くわけじゃない。それに、一度張り終えた檻は、形を大きくは変えられないらしい。送って埋めることはできても、いま俺たちのいる側へ、新しい罠を回り込ませてくる動きはなかった。張るのに、仕込みの時間がいる。そういう力だ。


 待ち伏せの檻は厚い。だが、組み替えはきかない。それだけの猶予を、こちらが与えなければいい。


 突破口は、そこにある。糸が尽きるまで削るか、送りが追いつかない速さで、一気に抜くか。前者は血が先に尽きる。後者は、いまの俺たちの脚では届かない。届く脚を作るには、駒の配り方を組み直す必要があった。


(だが、いまじゃない)


 頭で算盤を弾く間にも、瀬戸は線を削り続けていた。前のめりに、一本でも多く。焦りが、刃の先に乗りはじめている。


「瀬戸、下がれ。一本ずつだ」


 俺が言いかけた、その時だった。


 瀬戸の刃が、四本目の線を断った。その勢いで、刃先が、わずかに泳ぐ。


 断った線の、すぐ奥。そこに、もう一本あった。


 明滅の谷間で、ちょうど光の乗らない一本。瀬戸の角度からは、見えていなかった。


「瀬戸――!」


 遅かった。


 前へ流れた瀬戸の左の二の腕を、見えない一本が、横に薙いだ。


 布が裂け、その下が裂ける音。鈍く、短い。瀬戸の口から、押し殺した声が漏れた。


「っ、く……!」


 血が、線を伝って散った。


 瀬戸が、刃を取り落としかけて、握り直し、たたらを踏む。俺は線の檻の手前ぎりぎりまで踏み込んで、瀬戸の襟を掴んで後ろへ引いた。引きずるように、檻から遠ざける。


「鳴瀬、悪い……っ」


「喋るな」


 二の腕の傷は、深い。袖が、見る間に赤く重くなっていく。動脈までは、たぶん届いていない。だが、浅くもない。


 俺は瀬戸を背後へ送り、自分が前に立った。梶原と、檻の壁を、正面で受け持つ。


「鵜飼さん、桐野を頼みます」


「ええ、任せて。坊やは前だけ見てなさい」


 鵜飼さんの鎖が、後方で低く鳴った。桐野を背に庇い、通路の後ろへ目を配る。挟み撃ちを警戒する、後衛の仕事だ。


 桐野は、下がった瀬戸の傷を、目を見開いて見ていた。


 血の重さに、顔から色が引いている。両手が、宙で行き場をなくして、握ったり開いたりしていた。後方支援役。その手は、いまこそ動くためにある。


「鳴瀬先輩、瀬戸さんの腕……っ、私……」


「まだだ」


 俺は、前を見たまま言った。


「ここで屈んだら、お前ごと薙がれる。傷は止血で保つ。手当ては、この壁を抜けてからだ」


 桐野が、息を呑んだ。


 言いたいことは、分かっている。目の前で人が血を流していて、自分にはそれを治す力がある。なのに、手を出せない。その距離が、後方支援役にとっては、いちばん遠い。


 だが、檻の前で膝をつけば、桐野もまた線にかかる。瀬戸の傷を一つ治す代わりに、傷が二つに増える。そういう道理だった。新人にそこまで言うのは酷だったが、ここは現場だった。


「……はい」


 桐野は、震える手を、それでも引いた。鵜飼さんの鎖の内側にとどまったまま、瀬戸のそばへ詰め寄って、その腕に、自分の上着を裂いて押し当てる。治すのではなく、ただ縛る。その手つきは、覚えたての止血だった。それでも、桐野の手は動いていた。後衛の庇いの内で、立ったまま、瀬戸を支えている。


 梶原は、それを待っていたように、また指を繰った。


 削られた檻が、奥から補われる。銀の壁は、傷一つない厚みに戻りつつあった。男は急がない。一人削り、一人退かせれば、それでいい。糸が尽きるまで、こちらは前へ出られない。そう読んでいる手つきだった。


 線の際で足を止めていた九鬼さんが、檻を離れて俺の横まで下がってきた。


「鳴瀬くん。あれ、糸が減ってきとる」


「気づいてましたか」


「伊達に前衛、張っとらん」


 九鬼さんの目は、梶原の指の束を見ていた。送り出すたびに、確かに細くなっている。だが、まだ足りない。尽きるのを待つには、こちらの血のほうが先に尽きる。


「速さで抜くしか、ないやろ」


「いまの隊形じゃ、無理です」


 俺は、即座に否定した。


 九鬼さんの加速は、直線でこそ活きる。だが、ここで突っ込めば、線の檻へまっすぐ飛び込むだけだ。さっき、それで腿を持っていかれかけた。加速は、軌道を読まれれば、いちばん殺しやすい。梶原の檻は、まっすぐ来る相手を仕留めるために張ってある。


 瀬戸の刃は、いま使えない。腕の傷では、もう一度あの檻へ刃を入れろとは言えなかった。鵜飼さんには、桐野から目を離す余裕もない。後ろをがら空きにすれば、掃き出したはずの構成員が、いつ戻ってくるかも分からなかった。


 駒が、足りない。一手、足りなかった。


 梶原は、それも分かっている。だから動かない。檻の向こうで、ただ糸を繰りながら、こちらが焦れて踏み込むのを待っている。閉所と、待ち伏せと、糸。男に有利な条件が、三つとも揃っていた。


「鳴瀬……っ」


 瀬戸が、桐野に縛られた腕を押さえ、壁際で膝をついた。血は、ひとまず止まっている。だが、顔は白い。


 俺は、銀の檻を睨んだ。


 明滅する明かりの下で、梶原の指が、また一本、糸を送った。


 通路の奥で、銀の壁が、静かに厚みを増していく。誰の声も、しなかった。


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