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最強の非才 ―アノマリー―  作者: プリケツ星人
第2章

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23/30

夜の取引

 末端を叩いて拾えるものは、もう拾い切っていた。


 あの袋小路で得た噂の切れ端は、一本きりでは、どこへも繋がらない。巣の在り処も、頭の名も、末端には降りてこなかった。降りてこないものは、もっと上から引き出すしかない。


 室伏隊長が手繰り寄せたのは、この界隈で古くから続く組の名だ。表通りに事務所を構え、夜の街の地回りを長く仕切ってきた老舗は、その縄張りを、ここ数年で〈宵闇〉にごっそり削られている。恨みは深い。握っている札の数も、袋小路の崩れとは桁が違う。


 代わりに、相手は末端のように脆くはない。格があり、若い衆を抱え、そう簡単には腹を見せない。


 その夜、俺たちが通されたのは、雑居ビルの三階だった。


 表向きは管理会社の看板を出した、何の変哲もないフロア。だが奥の応接室まで入ると、空気の質が変わる。壁も扉も厚く、表通りのネオンも客引きの声も、ここまでは届かない。防音だ。中で何が起きても、外へは漏れない造りになっている。


 部屋は、思ったより広かった。奥の執務机を背に、一人の男が立っている。


 歳は六十の手前か。仕立てのいいスーツを着崩しもせず、白いものの混じった髪をきれいに撫でつけていた。崩れた気配は、どこにもない。崩れる必要のない側の人間だ。机の手前には、堅気には見えない若い衆が三人、間合いを散らして立っていた。


 鵜飼さんと戸坂さんは、室内へ入ると左右へ分かれ、南の扉の左右――退路を断つ位置に着いた。荒れたときに、誰も表へ出さないための構えだ。


「夜分に、悪いな」


 室伏隊長が、ソファセットを挟んで切り出した。昼間の執務室で見せる軽さは、その声から脱げ落ちている。


「役所のほうの者だ。〈宵闇〉の話を、少しばかり聞かせてほしい」


「役所」


 男が、低く笑った。弓削、というのがこの組の若頭だと、ここへ来る前に隊長から聞かされている。


「役所が、わざわざ裏口から訪ねてくるのかい? 表に書けねえ用事を抱えてる役所ってのは、初めて見るな」


「察しがいい。話が早くて助かる」


「で。タダで口を割ると、本気で思ってんのか?」


 弓削は、机の縁に軽く腰を預けた。慌てる素振りは微塵もない。こういう交渉を、何十年と潜り抜けてきた男の余裕だった。


「そっちの抱えてる札を、こっちも一枚知ってる」


 隊長は、声を落とさずに続けた。


「おたくの息のかかった店が、二、三軒。営業のやり方に、目をつぶれば波風の立つ部分がある。今夜のことは記録に残さん。帳面のどこにも、この訪問は載らない。……その代わり、〈宵闇〉のことを聞かせてくれ」


 俺の数歩後ろ、入口寄りで、桐野が息を詰めるのが分かった。声はない。ただ、隊長の横顔を見つめている。


 見逃す、と隊長は言った。法を預かる側が、別の法から目を逸らす。その引き換えで、欲しいものを抜く。袋小路で殴って訊いたのとは、また毛色の違うやり方だ。新人の目に、それがどう映っているかは――振り返らなくても見当がついていた。


「ずいぶんと、虫のいい話だ」


 弓削の声が、わずかに尖った。


「うちの縄張りを食った連中の話を、うちが、お上に献上する。そのうえで、見逃してもらって礼を言えと」


「順序が気に入らんのは分かる。だが、おたくの恨みと、こっちの目的は、向いてる先が同じだ」


「同じ、ねえ」


 男は、ゆっくりと机から腰を上げた。


「その口車に乗って、いい目を見た覚えがなくてな。――おい」


 顎が、わずかにしゃくれた。


 それが合図だった。三人の若い衆が、ほとんど同時に懐から得物を引き抜く。短刀が二本、特殊警棒が一本。狭い室内に、刃と金属の鈍い光が散った。


「桐野、入口から動くな」


 言い終わる前に、俺は踏み込んでいた。


 部屋の造りは、入った瞬間に頭へ入れてある。西寄りにソファとローテーブルが固まり、人ひとり分の死角を作っている。東側は、酒棚までの間が動線として開けていた。狭い部屋は、囲む側に向いていない。三人が一度に来れば、互いの得物が互いの邪魔になる。来させなければいい。


 特殊警棒の一人へ、こちらから間合いを潰した。振り下ろされるより早く懐へ入り、肘で胸を突く。体勢を奪って、ソファの陰へ流す。短刀の二人が左右に開く前に、開かせない位置へ回り込んだ。


 東の動線へ誘い込んだ右の刃は、軌道だけ肘で外へ送る。泳いだ腕の付け根を抑え、膝で重心を割った。残る一人は、踏み込む先を失って後ずさる。その踵を追えば、もう得物を握る余裕は残らない。


 数秒。


 三人が、相次いで床に落ちる。刃も警棒も、誰の手にも残っていない。


 部屋の中が、急に静かになった。


 鵜飼さんと戸坂さんは、さっきの位置から動いていない。二人が立っているだけで、この部屋でただ一つの出口である南の扉は、塞がれている。


 だが、弓削は折れなかった。


 倒れた三人を見下ろしても、顔色ひとつ変えない。怒りも、怯えもない。値踏みの目が、俺をひとわたり眺めて、それきりだった。


「たいしたもんだ。……で?」


 弓削は、机の縁に腰を戻した。


「若いのなんざ、明日にでも雇える。その三人を伸しただけで、俺が洗いざらい喋るとでも思ったか」


 腕で割れる相手じゃない。倒れた用心棒の数は、この男の天秤を、一目盛りも動かしていなかった。


 前へ出たのは、俺ではない。


「喋らせるつもりはない」


 室伏隊長が、ソファの脇に立ったまま、声を低く置いた。


「取引をしに来た。さっき言ったとおりだ。おたくの店が二、三軒、こっちの帳面に載りかけてる。今夜の話と引き換えに、その帳面を伏せる」


「強請りと、どう違う?」


「強請りなら、出口は塞がん」


 隊長が、鵜飼さんと戸坂さんへ、目だけを向けた。弓削の視線が、つられて南の扉をなぞる。塞がれている、と確かめる目だった。


「ここから先、あんたが黙って俺たちを追い返すには、もう一度この若いのを立たせるしかない。それが無理なのは、見たろう。なら、損のない側を選んだほうがいい」


 弓削が、長く息を吐いた。


 観念ではない。腹を割ったわけでもない。差し引きして、喋るほうが安い――そう弾いた顔だった。


「……お上に貸しを作っとくのも、悪かねえか」


 弓削が、ソファへ顎をやった。座れ、ということらしい。室伏隊長は、首を横に振っただけで応えた。


「〈宵闇〉が、ほかの半グレと違うのはどこだ?」


「数なんざ、金を撒けば集まる。問題は、数じゃねえ」


 弓削の声から、虚勢が剥がれていく。残ったのは、縄張りを食われた側の、苦い実感。


「あいつらは、人を選んで引き込んでる。それも、ただの腕っぷしじゃねえ。……妙な力を持った若えのを、嗅ぎ分けて、拾ってやがる」


「嗅ぎ分ける?」


「目利きがいるって話だ。どこで見つけてくんのか、そういう手合いばかりを、何人も抱えてる」


 桐野が、後方でわずかに身じろぎした。


 袋小路の崩れが漏らしたのは、噂の切れ端だった。拾ってるらしい、確かめたわけじゃねえ。だが、この男の口から出るのは、自分の縄張りを実際に食われた側の言葉だ。重みが、まるで違う。


「力ってのは、どの程度のもんだ?」


「うちの若いのが、見てる」


 弓削の眉が、ひそめられた。


「鉄の手すりが、握った跡のまんま、飴みてえにひしゃげてた。触ってもいねえのに、男が一人、急に押さえつけられたみてえに、その場で膝を折った。……そんなのが、何人もいる組と、まともにやり合えるかよ。縄張りを差し出して退くしか、なかったんだ」


 俺は、口を挟まずに聞いていた。


 末端では「人の業じゃない」という感覚どまりだった。それが、ここでは形を持って並べられていく。ひしゃげた鉄。触れもせずに、男が膝を折る。〈宵闇〉が抱える力の、輪郭がはっきりと浮かんでくる。


「巣は、どこだ?」


「繁華街のどこかに、でかいビルを一棟、丸ごと使ってるらしい。表は、いくつか会社が入ってる体裁だがな。……正確な番地までは、知らねえ。知ろうとすりゃ、こっちが消される」


「頭は?」


 隊長が、静かに重ねた。


 弓削が、しばらく黙った。その名を口にすること自体に、ためらいが滲んでいる。


「黒越、と呼ばれてる」


 低い声だった。


「下の名は、剛三だったか。どこの出かも、いつ湧いて出たかも分からねえ。だが、〈宵闇〉を一代でここまでにしたのは、あの男だ。……得体の知れねえ野郎さ。会ったやつぁ、口を揃えて言う。『あれは、人を人とも思っちゃいねえ』ってな」


 黒越剛三。


 俺は、その名を胸の内側に刻んだ。表からは決して降りてこなかった名前だった。


「対価は、こっちが先に払った」


 隊長が、静かに言った。


「今夜のことは、どこにも残らん。おたくの店も、帳面に載らない。……取ったのは、これで貸し借りなしだ」


「ずいぶん律儀な役所だな」


「律儀じゃなきゃ、二度目がない。裏で飯を食う商売は、そっちも同じだろう」


 弓削が、初めて、笑うともつかない息を漏らした。


「違いねえ」


 それ以上は、互いに言葉を継がなかった。俺は、床に転がったままの短刀と警棒を、部屋の隅へ蹴り寄せておいた。弓削は倒れた若い衆へ目をやり、俺たちは、来たときと同じ南の扉から応接室を出ていく。


 廊下へ出ると、防音の壁が断っていた表の音が、また流れ込んできた。遠いネオンと、酔った笑い声。何事もなかったような夜の街の喧噪だ。


 階段を下りながら、桐野が、ぽつりと口を開いた。


「鳴瀬先輩」


「ああ」


「あの夜は、力ずくで訊き出しました。今夜は、見逃すと言って、訊き出しました」


 言葉を、ひとつずつ並べるように選んでいる。


「どちらの方法も、私には、選べません」


「選ばなくていい。どっちもマシじゃない」


 俺は、否定しなかった。


「ただ、今日の隊長は、選んでた。あの場は、殴って吐かせることもできた。相手の若いのは、現に倒せてた。それでも、殴らずに取引を選んだんだ」


「……どうして、ですか?」


「腕で割れる相手にも、腕じゃ割れない相手がいる。その見極めを外すと、得られたはずの糸まで切れる。隊長は、それを知ってる」


 桐野は、すぐには返さなかった。


「手口を、選んでた……ってことですか?」


「気持ち悪い手口にも、ましな順番がある。その順番を選ぶのが、たぶん、いちばん難しい。……前に言ったのは、そこまでだった。今夜のは、その先の話だ。選べるようになっても、選んだ重さだけは、置いていくな」


 階段の踊り場で、桐野が足を止めた。何か言いかけて、やめる。


 答えは、出していない。それでよかった。あの夜は、うまく言葉にならないまま訊いていた。今夜は、迷いながらも、自分の引っかかりを、はっきりとした言葉の形にして、口に出せた。そのぶんだけ、目の置き場が、定まってきている。


 表通りへ出ると、鵜飼さんが横に並んできた。


「坊や。あんた、腕っぷしの割に、最後まで殴り倒さなかったわね」


「殴って出てくる相手じゃ、なかったので」


「あら。じゃあ、今夜の殊勲は隊長ってこと?」


「半分は。残りの半分は、出口を塞いでた人たちです」


「ふふ。世辞だけは、上達したじゃない」


 戸坂さんは、何も言わない。ただ、すれ違いざまに、俺の肩を拳で軽く小突いていった。悪くなかった、という符丁らしい。


 〈宵闇〉の輪郭が、ようやく見えはじめていた。


 力を持つ若者を、選んで集めている。巣は、繁華街のどこかの一棟。頭の名は、黒越剛三。


 番地までは、まだ遠い。黒越が何者なのかも、霧の向こうだ。それでも、名前のない影でしかなかったものに、輪郭と、呼ぶべき名がついた。


 次に手をかけるのは、この糸の先にある建物そのものだ。


 夜の街の光が、背中で、また少し遠ざかった。


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