協力要請
午後の執務室は、事件のない日の速度で回っていた。
桐野が配属された初日から、数週間が過ぎている。あの夜、声をうわずらせて自己紹介していた新人は、いまでは自分の机にすっかり収まっていた。先輩たちの手順を横目で盗みながら、書類の余白を埋めている。覚えの早いやつだ。
九条さんは端末に向かい、室伏隊長は奥の席で書類を睨んでいた。八神は、椅子を限界まで後ろに倒して、天井を見上げていた。
「八神、それ仕事か?」
「瞑想。次の現場に備えて、心を整えてんの」
「報告書から、心が逃げてるだけでは」
九条さんが、画面を見たまま言う。八神の椅子が、勢いよく元の角度に戻った。
「じょーくん、ほんとそういうとこ。統真も何か言ってよ」
「九条さんが正しい」
「味方ゼロ!」
桐野が、手元の書類で口元を隠して、肩を震わせている。笑いをこらえようとして、こらえきれていない。数週間前なら、こんなふうに崩れることもなかった。
いつもの速度だ。事件のない午後は、こうしてだらだらと過ぎていく。張りつめていない時間にも、ちゃんと意味がある。そう思えるくらいには、俺もこの場所に慣れてきた。
この部屋には、もう一つの島がある。
俺たちの机の列と並んで、別の隊の席が固まっている。九鬼隊。〈裏三課〉の実働隊は、うちだけじゃない。同じ部屋に机を並べた別の隊と、俺たちはこうして日常を分け合っている。配属から数週間が過ぎて、桐野ももう、向こうの全員の顔と名前を覚えた相手だ。
その島の奥から、よく通る声が飛んできた。
「厳、ちょっとええか?」
九鬼美里。九鬼隊の隊長だ。三十代後半、室伏隊長と同じ世代で、ショートカットの青い髪をかき上げながら立ち上がった。室伏隊長とは古い付き合いで、二人のあいだだけは、隊長と隊長が対等に口をきく。
「おう、美里。どうした、あらたまって」
「あらたまりたくもなるわ。……ちょっと、頭下げに来た」
九鬼さんが、打合せ卓のほうへ顎をしゃくる。室伏隊長が、のっそりとそちらへ移った。つられて、両隊の人間が、何となく卓の周りに集まりはじめる。
九鬼隊の面々が、ぞろぞろと腰を上げた。
先頭で立ち上がったのは、戸坂明。戸坂さんだ。丸坊主の大きな体が、椅子を軋ませる。前衛の盾役で、突入のときは真っ先に前へ出る。本人いわく「壁は俺がぶち抜くのが一番早い」。だいたいいつも、それしか言わない。
その後ろから、眼鏡を押し上げながら、宮田小路。宮田さんが続く。ぼさぼさの黒髪に、見るからにくたびれたアウター。中距離の制圧担当で、射点だの遮蔽だのの話になると、人が変わったように喋りだす。
「鵜飼様、お先にどうぞ」
「あんた、そういうとこほんとに気持ち悪いわよ」
宮田さんがうっとりした顔で道を譲り、鵜飼さんが心底どうでもよさそうに切り捨てる。鵜飼静。暗い赤の長い髪を肩に流した、目つきの鋭い人で、後方からの捕縛役だ。宮田さんは、この扱いをむしろ喜んでいる。何度見ても、理解が追いつかない関係だった。
「すみません、うちの隊、こんなのばっかりで」
最後に立ち上がった瀬戸が、苦笑しながら頭を下げた。瀬戸隼。九鬼隊で唯一、まともに話が通じる相手だ。年が近いこともあって、合同の現場ではよくこいつと組まされる。
「気にすんな。うちも人のこと言えない」
「言えないな、お互い」
八神が「えー、うち平和だよー」と割り込み、九条さんに「八神さんがいる時点で平和ではないです」と即答されていた。瀬戸が、こらえきれずに噴き出す。
まあ、平和なほうだ。少なくとも、いまはまだ。
打合せ卓に着いた九鬼さんが、ホワイトボードに繁華街の雑居ビルが写った一枚の写真を貼った。
「〈宵闇〉。聞いたことあるか?」
室伏隊長が、腕を組んで写真を見た。
「噂程度にはな。最近、急に名前が出てきた連中だろう」
「そう、それ。半グレ崩れの、新興の武装グループ。ここ数年で一気に膨らんだ。銀行強盗やら窃盗やらに手を染めてる連中や」
九鬼さんが、ボードに要点を書きつけていく。乱暴な字だが、読める。
「厄介なのは、能力持ちが何人かおることや。現場に残る痕が、ひとつずつ毛色がちゃう。一人の仕業やない。……しかも中に一つ、桁違いのが混じっとるらしい。頭分に、よっぽどのがおるんやろな」
部屋の空気が、変わった。能力者がからむ案件は、〈裏三課〉の領分だ。だが、ただの犯罪グループに複数の能力者というのは、数として多すぎる。
「どうやって、そんなに集めたんですか?」
俺が訊くと、九鬼さんは渋い顔をした。
「それや。新しく発現したばっかりの、まだ国に把握されてへん連中――そういうのを片っ端から拾って、引き込んどる。そう睨んどるわ。才能ある若いのを、力で囲うわけや」
「保護される前に、先に手をつけてるわけですか」
「そういうこと。鳴瀬くんは話が早いな」
俺の隣で、九条さんがふと顔を上げた。何かに引っかかった顔だった。
「……隊長。前に、私が言ったの、覚えてますか?」
「ん?」
「新規発現がらみの件、最近よく見るって。あれです。たぶん、無関係じゃない」
数週間前の、夜だ。桐野の初日、報告書を書いていた九条さんが、端末をスクロールしながら、独り言のようにこぼしていた。新しく発現したのが絡む案件が、少し増えている気がする、と。あのときは、ただの事務の感想として聞き流していた。
その数が、こうして一つの形を結ぶ。増えていたんじゃない。集められていたのかもしれない。
「で、お前らが手こずってるのは、なんでだ?」
室伏隊長が、本題に戻した。九鬼さんが、肩をすくめる。
「尻尾を、まったくつかませへん。表向きは、クラブの運営に管理会社、解体屋。全部それらしい看板が立っとる。叩いても、合法の埃しか出てこん」
「証拠が出ない、と」
「決定的なのが、何ひとつや。能力が絡んどるのは、まず間違いない。せやけど、誰が何を使うんか、頭分は何者か、巣はどこか。表から見えるもんだけやと、そこまで詰めきれん。……正直、うちの隊だけやと、これ以上は無理や」
九鬼さんが、そこで一度、言葉を切った。それから、室伏隊長をまっすぐ見た。
「厳。お前んとこの搦め手と、鳴瀬くんの腕を、貸してほしい。頭、下げるわ」
卑屈なところはまるでなかった。できないことをできないと言い、必要なものを必要だと言う。それだけの、まっすぐな頼み方だった。
室伏隊長は、しばらく写真を見ていた。
「……〈影環〉の線は、どうなんだ?」
ぽつりと、隊長がそう言った。
戸坂さんが、太い腕を組んだまま頷く。
「俺も最初、それ思いましたよ。能力者がぞろぞろいるって聞いて、〈影環〉の仕業かって」
「ちゃうやろな」
九鬼さんが、即座に否定した。
「〈影環〉なら、こんな金儲けみたいな、しょうもない動き方せえへん。これは、ただの欲の皮が突っ張った半グレや。タチは悪いけど、毛色がちゃう」
その、ちゃう、で会話が流れかけたとき。
「あの……〈影環〉、というのは」
桐野が、おずおずと手を挙げかけて、引っ込めた。卓の隅から、遠慮がちな声が上がる。
「名前は、〈ゲート〉の座学で習いました。でも……現場で名前が出るのは、はじめてで」
全員の視線が、一瞬、桐野に集まった。桐野が、首をすくめる。
俺は、教育係として、口を開いた。
「能力者だけで作られた組織だ、とされてる。それ以外は、ほとんど分かってない。どこに本拠があるのか、何人いるのか、誰が構成員なのか。一部の顔が知られてるだけで、全体像は誰もつかめてない」
桐野が、メモを取る手を止めて、聞き入っている。
「厄介なのはな」
室伏隊長が、引き取った。
「あいつら、何がしたいのか分からん。能力を使って派手な犯罪をやらかすこともある。かと思えば、別の犯罪組織をまるごと潰しにかかることもある。善玉か悪玉か、線が引けん」
「敵か味方か、分からないってことですか?」
「どっちでもない、が近いな。俺たちには、何を基準に動いてるのか読めん。それだけだ」
「しかも」
九条さんが、淡々と付け足した。
「やったあとに、必ず印を残します。これは自分たちの仕事だ、と。隠すどころか、わざわざ署名していく。普通の犯罪者の、逆です」
桐野が、ゆっくりと、息を吐いていた。
「……分からないことだらけ、なんですね」
「そういうことだ」
室伏隊長が、薄く笑った。
「だから、現場じゃ名前が出ると、空気が固くなる。今回は――違う。これは〈影環〉じゃない。能力持ちの半グレが、調子に乗ってるだけだ。……とはいえ、尻尾はつかませねえらしい。厄介なのは、そこだな」
九鬼さんの声が、すぐに割り込んだ。
「で、厳。返事は」
室伏隊長は、もったいぶる男じゃない。腕を解いて、写真をひとつ、指で弾いた。
「やるか。新規発現を食い物にしてるってんなら、放っとくわけにいかん。なあ、鳴瀬」
「異論ないです」
「うちもいいよー。じょーくんとの平和な日常、たまには壊さないとね」
「さっきも言いましたが、八神さんがいる時点で、私の日常は最初から壊れてます」
「じょーくん!」
鵜飼さんが、くすりと笑って、俺のほうへ視線を流してきた。
「久しぶりに、坊やの暴れるとこ見られるわけね。楽しみ」
「坊やはやめてください」
「あら。じゃあ、なんて呼べばいい?」
返事に詰まっていると、瀬戸が横から「諦めたほうがいいぞ、それは」と、心底同情した顔で言った。経験者の重みが滲んでいた。
「よし」
室伏隊長が、両手を打ち合わせた。
「合同だ。美里、細かい段取りは追って詰める。とりあえず――」
「礼は言わへんで」
「言われると思ってない」
二人が、短く笑った。古い相棒の笑い方をしていた。
打合せが解けて、それぞれの島に戻っていく。八神は早くも宮田さんを捕まえて、装備の話で盛り上がっている。戸坂さんは「俺がぶち抜けば早い」と、また同じことを言って、九鬼さんに頭をはたかれていた。
俺は、ホワイトボードに残った雑居ビルの写真を、もう一度見た。
どこにでもある、ありふれた建物だ。看板の灯りも、行き交う人影も、表通りの顔をしている。こんな街のどこかで、保護されるはずだった誰かが、力ずくで囲われているのかもしれない。
尻尾をつかませない相手。表からは届かない場所。
九条さんが感じていた、数の小さなさざ波。あれがここに繋がっていたとすれば、次の現場は、これまでとは勝手が違う。
桐野が、俺の隣に来て、同じ写真を見上げた。
「鳴瀬先輩。これ……今までの事件と、何か違う気がします」
「ああ」
俺は、写真から目を離さずに頷いた。
「違うな。たぶん、思ってるより、ずっと」
午後の光が、ブラインドの隙間から白く差し込んでいた。事件のない日の速度は、もう終わりだ。




