制圧
角の影から、足を踏み出した。
入口の暗がりを抜ける。アスファルトを踏む音を、できるだけ薄く落とした。踵から接地して、爪先へ重心を送る。男は、まだこちらに背を向けている。
東側の壁。室外機が張り出した陰に、痩せた肩が沈んでいた。表通りの側を窺う姿勢だ。誰かが迷い込んでくるのを待っている、獲物を狙う者の立ち方だった。
路地は細い。両側を雑居ビルに挟まれて、幅は車一台がようやく通れるほどしかない。街灯はまばらで、足元の大半が暗部に落ちている。奥の男までは、五メートルか六メートル。
俺は、その距離を詰めにかかった。
内線が、耳の奥でごく低く鳴る。
『鳴瀬さん、間合いに入ります』
九条さんの声だった。知覚拡張が、俺の足と男の背の、両方を測っている。
二歩、三歩。あと一歩で、声をかけられるところまで迫っていた。
そこで、男の肩が跳ねた。
気配を察したのか、暗がりの中で、痩せた背が勢いよく振り向く。落ちくぼんだ目が、まっすぐ俺を捉えた。資料の写真と同じ顔だ。だが、写真にはなかったものが、その目にはあった。怯えと、それを塗り潰そうとする昏い熱。
男の右腕が、肩の高さまで上がる。
来る。
現場で読み取った軸線と、記憶が重なった。あの裏路地で、女がひとり斬られた斜めの切断面。壁に走った直線の傷。腕の一振りが、あれを生んでいた。
男の手が空を払い、俺は、その瞬間にはもう、西の壁際へ身を投げていた。
空気が、裂けた。
音という音ではない。風の層が一枚、薄く断たれる感触だ。それが俺のいた線を、腰から胸の高さで、まっすぐ後ろへ抜けていった。背後で、金属の何かが甲高く鳴った。何かが断ち切られた音だった。
壁に、背を貼りつける。冷たいコンクリートが、肩甲骨に当たった。
軸線は、男の正面。狙いの延長線上に、一直線。さっき俺が立っていた路地の中心を、その線が走った。半歩でも遅れていれば、いまの俺は、あの女と同じになっていた。
「統真っ」
路地の奥――北の側から、八神の声が飛んだ。同時に、空気が熱を帯びる。男の背後、表通りへ抜ける出口の手前で、橙色の塊が膨れ上がった。八神の炎が、男の退路を焼いて塞ぐ。
男の肩が、びくりと縮んだ。前は俺、後ろは熱。逃げ道が、ふさがれていく。
『軸線、変わりません。正面固定。彼は、振った方向にしか出せない』
九条さんの声が、淡々と要点だけを運んでくる。男の能力の癖を、聴覚と気配の束から抜き出している。
正面固定。男が手を振る方向さえ見ていれば、線は読める。
問題は、この狭さだった。幅三メートルの路地で、軸線の外へ抜けられる余地は、左右の壁際しかない。わずかな踏み違いが、死に直結する。
男が、また腕を上げた。今度は、俺のいる西の壁際へ、手のひらを向けてくる。
二撃目。
俺は壁を蹴った。床すれすれに身を沈めて、軸線の下をくぐる。腰の高さを抜けていく線の、その下。膝を折り、肩を落として、地を這って西壁を北へ滑った。
頭上で、また空気が裂けた。さっきまで俺の頭があった高さを、線が通り過ぎる。西壁の上のほうで、コンクリートの表面が浅く削れ、細かな破片がぱらぱらと落ちた。
男が、舌打ちした。当たらない。当てたはずの線に、俺がいない。その苛立ちが、振りを大きくする。
それでいい。
振りが大きくなるほど、予兆は長くなる。腕を引いて、ためて、払う。その「ためる」一拍が、俺に半歩を与える。男は焦りで、自分の手札を読みやすくしていた。
『鳴瀬さん、彼、足が右へ流れています。動きが乱れかけ』
九条さんの声に、隊長の低い指示が重なる。
『九条、軸線だけ拾え。八神は熱を絞れ、路地ごと炙るな。鳴瀬――行ける時に行け。無理はするな』
「了解」
短く返して、俺はもう一段、間合いを詰めた。
八神が、北の出口の手前で、もう一度、熱を低く放った。男の足元の先で、アスファルトが焦げる。逃げ場が、また一歩ぶん狭まった。男の首が、反射で後ろへ振れる。退路を断たれているという恐れが、その注意を背後へ引いた。
前と後ろ。男は、そのどちらも同時には見られない。八神が後ろを縛るほど、男の正面は、俺だけのものになっていく。
西壁の死角を縫って、男の正面の線から外れた斜めへ回り込む。男の目は、俺を追おうとして、追いきれない。暗部と壁の陰に紛れて、男は俺の姿を捉えきれずにいた。
あと三メートル。二メートル半。
ここからが、いちばん危うい間合いだった。近いほど、男の振りも速く届くが、予兆も見落とさずに済む。どちらの利が勝つか、その境を、俺は息ひとつ分で測っていた。
男が、三撃目を放つ。だが、もう線は俺を捉えていない。俺のいた場所ではなく、俺がいると思った場所へ、空振りの斬撃が走った。西壁の根もとに、横一文字の傷が刻まれる。
その空振りの、硬直の一瞬。
俺は、地を蹴った。
壁際から、男の懐へ。一気に距離をゼロにする。脇差の柄に左手をかけ、鞘ごと半ばまで抜いて、刃の腹を男の視界へ滑り込ませた。光を断つための威圧だ。男の目が、反射でそちらへ振れる。
その隙に、右手で男の振り上げた腕を掴んだ。
手首ではなく、肘の少し上。能力の出どころを、関節ごと封じる。男が振りほどこうと身をよじった瞬間、俺は腰を落として、その体を巻き込んで崩した。
二人分の重みが、アスファルトへ落ちる。
俺が上だ。崩しざま、半ば抜いていた脇差を、左手で鞘へ送り戻し、鞘ごと腰から抜き取った。男の腕を背へねじり上げ、肩で背中を押さえ込む。鞘ごと、脇差の柄頭を、男の頸のつけ根へ軽く当てた。動けば刺さる、と体で報せる位置だ。実際には刺さない。だが、男にはそれが分からない。
「動くな」
俺は、低く言った。
男が、なお手のひらを開こうとする。能力を、もう一度。だが、腕は背で固められ、狙いを向ける方向がない。正面固定の能力は、正面を奪われれば、ただの空っぽな手だった。
数秒、男の体から力が抜けていく。荒い息だけが、アスファルトに散った。
「制圧、完了」
俺の声に、路地の空気が、ようやく緩んだ。
北から、八神が炎をおさめて駆け寄ってくる。橙色が消えて、路地はまた夜の暗さへ戻った。入口からは、隊長と九条さんが、足早に詰めてくる。
ふと、入口のさらに外、西寄りの暗がりに、小柄な影が立っているのが見えた。桐野だ。後方待機の位置から、ここまでの一部始終を見ていたらしい。
俺と目が合うと、桐野は、何か言いかけて、言葉を呑んだ。
その顔に浮いていたのは、驚きだった。新人が現場で見せる怯えとは、少し違う。能力を持たないはずの人間が、能力者を地に伏せた――その事実が、うまく像を結ばないでいる顔だ。
俺は、それには応えなかった。応えるべき答えを、俺自身が持っていない。
◇◆◇
男を組み伏せたまま、俺は背後へ短く告げた。
「八神、頼む」
「うん」
八神が、膝をついて寄ってきた。炎を扱う手とは思えない、慣れた手つきだ。腰の携行ケースから、細い注射器を抜き取る。即効性の鎮静剤。確保にあたった前線の人間が、その場で打つ。決まりだった。
物理で押さえているだけでは、足りない。能力の強さ次第で、拘束は意味をなくす。だから、抵抗されても即座に押さえ直せる位置にいる人間が、鎮静までを担う。八神と俺なら、この体勢を崩さずにやれる。
八神が、男の首筋へ針を滑らせた。
男が、最後に一度、身をよじった。俺は肩で押さえ込んだ重心を、わずかも動かさない。
二十秒。三十秒。
数を数えるうちに、男の体から、強張りが溶けていった。閉じかけた目が、焦点を失っていく。能力を出すには、出そうとする意志がいる。意識が沈めば、その意志も保てない。荒かった息が、深く、緩いものに変わった。
「落ちた」
八神の声がした。
俺は、ねじり上げていた腕を、ゆっくり離した。
入れ替わりに、八神が、鎮静剤を打った手で、首輪型の装置を男の頸へ回す。拮抗抑制具。現場では、ただリングと呼んでいる。留め具が、低い音を立てて噛み合った。
これで、たとえ目を覚ましても、能力の発動は抑え込まれる。〈ゲート〉の教材にも載っていた装備だ。波長検出機の研究から派生した、政府開発の品。中身の理屈までは、現場の俺たちも深くは知らない。知らないまま、信じて使っている。
八神が、続けて手錠と拘束帯を回した。装置と拘束、二重に封じる。
「搬送、回します」
隊長が、端末を耳から離して言った。表通りの路肩には、もう公務車両が一台、ライトを落として停まっている。
俺は、立ち上がった。膝の砂を払う。脇差を、左腰の収納へ差し直した。
桐野が、入口の内側まで歩み入ってきていた。両手を、所在なげに前で組んでいる。
「鳴瀬先輩……あの」
「ああ」
「あの人、もう……」
「眠ってる。リングも着けた。もう、何も出せない」
桐野は、それでもまだ、地に伏した男から目を離さなかった。初日の現場で、人ひとりが制圧されるのを、はじめて間近で見た顔だった。
「治癒の出番、なかったな」
俺が言うと、桐野は、はっとしたように顔を上げた。
「あ……はい。すみません、私、何も」
「謝ることじゃない。誰も怪我しなかった。それが、いちばんいい結果だ」
言ってから、少しだけ砕けた声を足した。
「次の機会にとっておけ。出番のない日のほうが、ほんとは上等なんだ」
八神が、横から口を挟んだ。
「そうそう。しおりんの治癒、あたしが派手に焦がしたとき用に、ちゃんと取っといてもらわないと」
「八神さん、それ、自分が無茶する前提じゃないですか」
「あれっ、バレた?」
九条さんが、拘束を確かめながら、平らな声で言った。
「八神さんは、毎回バレてます」
桐野の肩から、ようやく力が抜けた。小さく息を吐いて、こわばっていた頬が、少しだけ動く。
俺は、男の体を二人がかりで起こすのを手伝った。意識のない体は重い。リングの留め具が、街灯のわずかな光を、鈍く弾いた。
発現者かどうかの正式な裏づけは、ここではやらない。波長検出機は、こんな路地まで運んでくる装置じゃない。詰めて、押さえて、運ぶ。そこから先は、上の管轄だった。
「運ぶぞ」
隊長の声に、隊が動いた。
男を乗せた車が、路肩から滑り出していく。テールランプが、夜の通りを一度だけ赤く染めて、角の向こうへ消えた。
後には、斬撃の傷が残る路地と、街灯のまばらな光と、俺たちだけが残された。
九条さんが、傷のついた壁を見上げて、低くつぶやく。
「軸線、三本。前の現場と、同じ手口ですね」
「ああ。腕の振りも、同じだった」
俺は、西壁の根もとの横傷へ目をやった。あの夜、女が斬られた路地の壁に走っていたのと、同じ手口の直線。男は、同じ手で、同じように、また払おうとしていた。
今度は、誰も斬られなかった――それだけのことが、今日の仕事の答えだった。
「帰るぞ」と、隊長が言った。「初日にしては、上出来だ。なあ、桐野」
「……はい」
桐野の返事は硬かったが、その硬さの底に、来たときにはなかった芯が一本、通っていた。
俺は、夜気を肺の奥まで吸い込んでから、車のほうへ歩き出した。




