気配
遠くで、終電らしい震動が尾を引いて消えた。それを境に、街の音が一段下へ沈む。
張り込みが始まって、四時間。住宅街の窓は、もうどこも暗い。街灯だけが等間隔に白く伸びて、人の気配のないアスファルトを照らしている。
俺はペダルの手前へ置いた足を、まだ一度も動かしていない。
助手席の八神が、ちいさく欠伸を噛み殺した。
「統真、これ何時まで?」
「出てくるまでだ」
「身も蓋もないなあ」
八神の声には、もう昼間の張りがない。それでも耳だけは、内線の方へ置いたままだ。視線も、気だるげを装いながら、フロントガラスの先の暗がりを一定の間隔でなぞっている。
その内線の奥から、九条さんの呼吸が時おり落ちてくる。知覚拡張を発動したまま、自宅の階段と共用玄関と東の通りを、別々に聞き分け続けているのだ。何も拾わない夜が、いちばんいい夜なのだと、あの人は張り込みが始まってから言い続けていた。
動きはない。男は、まだ出てこない。
不意に、内線の質が変わった。
九条さんの呼吸が、途中で止まったのだ。
『……動きました』
声に、それまでの平坦さがなかった。八神の背が、座席から起きる。
「玄関?」
『ええ。共用玄関の扉。いま、開きました』
俺はハンドルに手を戻した。足をペダルの手前へ滑らせる。まだ踏まない。場所と方向を確かめるのが先だ。
『鳴瀬さん』
「はい」
『階段を下りる足音は、ひとり。荷物の擦れる音はなし。手ぶらに近い』
淡々とした言い方が、かえって鋭く聞こえた。あの人は街の音を、いくつもの引き出しに分けて聞いている。そのどれかひとつに、待っていた動きが引っかかった。
『路地に出ました。……北ではない。南でもない』
一拍、間があった。
『西です。自宅前の路地を、西へ』
西、と内線の中で誰かが復唱した声は、室伏隊長のものだった。
西は、事件現場の方角だ。あの裏路地までは、男の足で八分しかかからない。あの夜、女がひとり斬られた路地だった。男が前に歩いた道。
「散歩って柄じゃ、ないか」
八神が、低く言った。茶化す響きは、もうどこにもない。
『歩調、変わりません。急いでも、迷ってもいない。通い慣れた道を行く足です』
九条さんの報告が、容疑者の背中を、内線越しに俺たちの前へ引いてくる。姿は見えない。それでも、夜の街のどこを、どの速さで進んでいるかが、声だけではっきりと分かった。
その先を、俺は読んだ。男が西へ抜ける道は、限られている。だが、どこで足を止めるかまでは、まだ読めない。
『一号車、動くな』
室伏隊長の声が、内線に通った。短く、迷いがない。
『発進するな。そのまま視認しろ。動線は西。お前たちの前を通る』
「了解」
俺は、ハンドルへ戻しかけた手を、膝の上へ落とした。エンジンは低く保ったまま、ペダルは踏まない。
即応車をこの路肩へ寄せたのは、偶然ではなかった。自宅から西へ抜ける道――事件現場へ続く、男がかつて通った道は、ちょうどこの角をかすめていく。配置を決めたとき、隊長は西の動線をいちばん手近に押さえられる場所として、ここを選んだ。読みどおりなら、男はこちらへ来る。
『歩調、変わりません』
九条さんの声が、また落ちてくる。
『自宅前の路地を抜けて……西の小路へ折れました。鳴瀬さんの方へ向かいます』
俺は座席で、身を低くした。中層住宅の壁の陰に、車体ごと沈んでいる。ヘッドライトは消したままだ。この暗がりからなら、街灯の下を行く人影はよく見える。向こうからは、停めた車の輪郭が見えるだけだ。
来た。
西の小路の入口、街灯の縁を、ひとつの影が横切った。痩せた背中。うつむき加減の首をして、足の運びに急ぎも迷いもない。資料の写真で、何度も視線を落とした男だった。
顔の細部までは、街灯の光が足りない。だが、もう要らなかった。九条さんが声で追い続けた背中と、いま俺の目が捉えた背中が、ひとつに重なる。声で拾った気配と、この目の視認。片方だけでは届かないものが、確かなものになった。
「……本人だ」
俺は内線へ、低く落とした。
『確認しました。これで、動けますね』
男は、俺たちの停めた車の脇を、見もせずに通り過ぎていく。数メートル。息を殺していれば、向こうは気づかない。痩せた背中が、また西の暗がりへ入っていった。
すぐには、降りない。男が充分に先へ行くまで待つ。夜更けの静けさでは、ドアの音も靴の音も、思うより遠くまで届く。いま降りれば、背中に気取られる。
『距離、開きました。いまなら』
九条さんが、間合いを計ったように告げた。
「八神、降りるぞ。歩いて追う」
「車は」
「置いていく。相手は徒歩だ。何か仕掛ける気配が出たとき、車を停めて、降りて――その手間が、命取りになる」
「だよね」
八神が、助手席のドアハンドルに手をかけた。指先で、もう一度、炎熱系の熱を確かめている。
◇◆◇
夜気が、頬に冷たい。
俺と八神は、男の背を直には追わない。追えば、夜の道で人影は目立つ。男はさっき、小路へ折れる前に、あたりの気配を嗅ぐような間を取った。警戒を切らさない男だ。背後に張りついた足音ひとつで、すべてが消える。
だから、男の背に張りつくのは、九条さんの知覚拡張だった。
二号車は、九条さんの耳が男に届く距離を保って、間隔を空けたまま西へ寄せる。その知覚が、男の位置と歩調を内線で運んでくる。俺たちは、その声を頼りに進む。男の姿を視界に入れない後ろ――足音も人影も届かない距離を、街灯を避けて歩いた。即応できて、なお気取られない。その間合いだけを保って詰めていく。
近すぎれば、気取られる。遠すぎれば、男が誰かへ手を伸ばしたとき、間に合わない。その境を保つのが、いまの俺たちの仕事だ。夜更けの住宅街に、人の影はない。それでも、次の角の向こうに誰がいるかは、分からなかった。
『男、変わらず西へ。この先、生活道路が尽きます。その先は……あの裏路地です』
この街区の道筋は、頭に入っていた。配置につく前に、隊の全員で一度は歩いて確かめた一帯だ。西へ詰めれば、人気のない裏路地に出る。あの夜、女がひとり斬られた路地。
男がそこへ向かうと、決まったわけではなかった。だが、足は止まらない。通い慣れた道を行く歩みで、男は、自分が前に歩いた道を、また辿ろうとしている。
八神が、内線に乗らない声で、すぐ横から囁いた。
「入ったら、あたしは表へ回る。抜ける線を塞ぐ」
「ああ。俺が入口を取る。お前が後ろを切れば、男の行き先は前だけになる」
「で、その前に統真がいると」
「そういう段取りだ」
言葉の要らない部分は、言葉にしない。役割の分け方は、現場で何度もやってきた。
内線の奥で、桐野の声が、ひとつだけ落ちてきた。
『……鳴瀬先輩、八神さん、お気をつけて』
後方で、時刻と動線を書き留めている新人の声だ。硬さの中に、初日とは違う芯がある。
「ああ」
俺は短く返した。
『男、裏路地の入口に……入りました』
九条さんの声が、ひとつ低くなった。読み続けた音の先が、ここで俺たちの目と手に渡される。
壁づたいに、入口の手前へ。物陰を選び、街灯の白い光を踏まないように足を運ぶ。気配を消すのは、息を浅くするだけでは足りない。歩幅を変える。踵から、音を抜く。自分の影を、建物の影に重ねていく。
八神は、もう表通りへ抜ける動線の側へ、身を滑らせていた。男が引き返そうとするなら、その背に熱を届かせられる位置だ。――いまはまだ、動かない。そう動けるだけの間合いを、保っている。
建物の角に、ひとつ身を入れる。ここなら、裏路地の入口を斜めから見通せて、入口の側からは死角になる。電柱の影が一本、ちょうど俺の輪郭を断ち切っていた。
男の影が、入口の奥で、ふと足を緩めた。あたりの気配を、嗅ぐような間。獲物を探す者の、立ち止まり方だった。
俺は息を殺したまま、男の手元を見た。腕の振り、手のひらの開き――あの現場の軸線から読み取った、男の力の出どころがそこにある。予兆が見えるなら、決着のほうが速い。そう自分に言い聞かせる。
俺は脇差の位置を、左腰でひとつ確かめた。徒手で済むか、抜くことになるか。それは男の出方が決める。
内線が、ごく低く震えた。
『接触します。……鳴瀬さん、あとは現場の判断で』
九条さんの声は、もうそれだけだった。
心臓が、ひとつ大きく打つ。逸るな、と自分に言い聞かせる。男が人目のない暗がりへ踏み込んだ、いまが、確保の好機だ。
夜の路地に、静けさだけが満ちていた。次の一歩を、待っていた。




