張り込み
夜が、街に下りていた。
俺は一号車の運転席で、ハンドルからはほとんど手を離さずにいた。エンジンは落とさず、低くうならせたままにしてある。即応待機は、いつでも踏み出せる姿勢のことだ。シートに体を預けきらず、足はペダルの手前に置いておく。
フロントガラスの先で、自宅前の路地を街灯が照らしていた。容疑者の共用玄関は、中層住宅の壁の陰だ。ここからは見通せない。出入りを拾うのは、二号車の役目だ。
助手席の八神が、膝の上で手を組んで、軽く伸びをした。
「動かないねえ」
「まだ宵の口だ」
張り込みは、待つ仕事だ。動きがないことを、何時間でも確かめ続ける。退屈で、なのに気は抜けない。その二つを、同じ車の中に並べておく。交代は数時間ごと。長いときは、朝まで腰を据える。それを承知で、装備を組んでここに来ている。脇差はベルトの左、片手銃はホルスター、通信機は耳の中。
内線は、開いたままにしてある。二号車のスピーカーとこちらの車内が、低い回線でつながっていた。時おり、九条さんの呼吸だけが落ちてくる。知覚拡張を発動したまま、街の音を拾い続けているのだ。
あの人の知覚は、いまこの瞬間、半径三百メートルの範囲を覆い、路地を抜ける足音、共用玄関の立てる物音、東のコンビニの自動ドアの開閉までも拾っている。そのどれかに、容疑者の輪郭が混じってくるのを、息を殺して選り分けている。
ミラーの中の路地を、通行人がひとり、足早に抜けていった。それきり、また誰もいなくなる。
時計の針は、二時間を回っていた。住宅街の窓の灯りが、ひとつ、またひとつと落ちていく。眠らないのは、こちらと、容疑者と、あとは夜勤の店くらいのものだった。
八神が、内線のスイッチに指をかけた。
「しおりーん、起きてるー?」
『お、起きてます』
桐野の声が、スピーカー越しに返ってきた。少し硬い。
『八神さん、あの、配置中に喋っていて、いいんでしょうか?』
「いいのいいの。隊長も聞いてるけど、怒らないから。ねー、隊長?」
『……ほどほどにしろ』
室伏隊長の声が、低く落ちてきた。八神が、肩を揺らして笑う。
「ほら、許可出た」
『は、はい』
「初日の夜って、いちばん眠くなるんだよ。あたしのときなんか――」
「十二時間の話なら、もういい」
俺が割って入ると、八神が唇を尖らせた。
「統真、それさっき言おうとしたの、なんで分かったの?」
「お前の前置きは、だいたい決まってる」
『ふふ』
桐野が、こらえそこねたような笑いを漏らした。それが内線に乗ってくる。
「ねえ、しおりん。あたしがどうして〈裏三課〉に入ったか、知りたい?」
『あ……はい。聞いても、いいんですか?』
「あたしね、火が出せるの」
『火』
「炎熱系。手のひらから、ぼっと。だから攻め担当。物騒でしょ」
『すごい……』
「でしょー。あたしと統真、入ったの同じ時期でね。最初の現場、二人とも緊張で固まっちゃってさ。あたしが変なところで火を出しかけて、こいつに頭はたかれたんだから」
「危なかったからだ」
「えへへ。でもそのおかげで、いまも一緒に組んでるわけ」
『お二人とも、最初から強かったのかと……』
「まさか。みんな最初は新人だよ。しおりんと同じ」
八神の声が、ふっと柔らかくなった。茶化しているようで、いちばん言いたいことだけは、まっすぐ置いていく。
俺は前を向いたまま、息だけで笑った。八神の軽さは、いつも場のどこかをほどく。狙ってやっているのが、たちが悪い。
しばらく、誰も口を開かなかった。街の音が、夜の方へ少しずつ引いていく。コンビニのある東の動線を、自転車のライトがひとつ横切って、消えた。
内線の向こうで、室伏隊長が咳払いをした。
『桐野』
『は、はい』
『初日から夜通しは、きついだろう』
『いえ、大丈夫です』
『無理はするな、という意味じゃない。無理かどうかを、自分で正しく測れ、という意味だ。きついときに、きついと言えるやつが、いちばん長く現場に残る』
『……はい』
『うちの隊は、任務には本気でやる。だが、外に出れば、ただの人の集まりだ。眠ければ眠いと言え。腹が減ったら言え。それを笑うやつは、この隊にはいない』
「あたし、それで怒られたんですけど!」
『お前のは、監視中に気を抜いた。あれはタイミングの問題だ』
『八神さんは、笑いそうですけど』
「ちょっと、しおりん!?」
『冗談です……すみません』
八神が大げさに胸を押さえる横で、俺はわずかに口の端を上げた。桐野の冗談が出たのは、いい兆候だ。
『隊長は……どんな能力を、お持ちなんですか?』
『俺か。俺のは、地味だぞ』
『地味……』
『お前たちが今どこにいて、次にどっちへ動くか。それが俺の頭に並んでる。それを、お前たちにも配ってるだけだ』
九条さんの声が、横から差し込んでいた。
『統率支援系です、桐野さん。隊長が繋いでいるあいだは、振り向かなくても、誰がどこにいるか分かる。見て、確かめて、声を掛けて、それから動く――その四つのうち、前の三つが要らなくなるんです』
『……背中が、見えるみたいな』
『見えるわけではありません。いる、と分かるだけです。映るのも味方だけで、敵は出ない。それでも、地味と言いながら、現場ではよく効く能力ですよ』
『おだてるな、九条』
『事実の共有です』
「じょーくんまで、あたしの言い方真似してるー」
『していません』
八神が助手席で足をばたつかせ、俺はその膝を手の甲で軽くはたいた。
「ねえ、しおりん。治癒系って、どこまでいけるの? ばーんって、一瞬で治せちゃう感じ?」
『いえ……かすり傷なら、すぐなんですけど。深い傷だと、手をあてて、しばらく時間が要りますし……一度にたくさんは、私の体力が、もたなくて』
「じゃあ、あたしが前で派手にやらかしたぶん、後ろでしおりんが直してくれるってことか」
「やらかす前提でいるな」
俺が言うと、内線の向こうで、桐野が笑っていた。
また、間があいた。
夜が更けるにつれ、路地の人影は減っていった。街灯の白い光だけが、等間隔に伸びている。共用玄関に動きはない、と内線越しに九条さんの声が落ちた。
八神が、缶の蓋を開ける音を立てた。冷めかけたコーヒーの匂いが、車内に薄く広がった。一口飲んで、また内線の方へ耳を傾けた。待つことに慣れた人間の、力の抜き方だ。俺も、同じだけの時間を、この座席で過ごしてきた。
桐野の声が、内線に戻ってきた。
『九条先輩は……さっきから、ずっと監視を?』
『ええ。発動したままです』
『疲れ、ませんか?』
『慣れです。音と気配を拾い続けている。今は、退屈なくらいがいい』
『退屈なくらい……』
『何も拾わない、というのは、誰も妙な動きをしていない、ということですから。拾うものが増えたら、それはたいてい、よくない報せです』
『先輩は、何を聞いているんですか? いまも』
『自宅前の路地、共用玄関、東の通り。三つの音を、別々の引き出しに分けて聞いています。容疑者が動けば、足音の重さで、たぶん分かる。――それを、あなたは時刻と一緒に書き留める。私が聞いて、あなたが残す。今夜の二人の仕事です』
『……はい』
桐野が、それを手帳に書きつけているらしい。ペンの走る音が、かすかに内線に乗った。九条さんの言い方は淡々としているが、新人に役割を一つ手渡している。クールに見えて、面倒見は悪くない人だ。
時刻が、さらに進んだ。街の音は、ほとんど底をついていた。遠くで、終バスらしい響きが尾を引いて消えると、それを最後に、街は本当に静かになる。
手元の内線が、低く鳴った。桐野が、こちらへ向き直る気配がある。
『鳴瀬先輩』
「ああ」
『鳴瀬先輩は……ずっと前から、この隊に?』
「いや。八神と同じ時期だ」
「そうそう、同期。あたしのほうが、ちょっとだけ先輩だけどね」
「三日だろ」
「三日は三日でしょ」
『ふふ……仲、いいんですね』
「よくはない」
「よくないことないでしょ!?」
八神の抗議を、俺は聞き流した。桐野が、もう一度、息を継ぐ音を立てていた。
『あの……ひとつ、聞いても、いいですか?』
「言ってみろ」
『超能力の犯人を追うのって……こわく、ないんですか? 普通の人より、ずっと危ない相手なのに』
俺は、フロントガラスの先の路地を見たまま、少し考えた。
「能力は、道具だ」
『道具……』
「よく切れる包丁と、同じだ。切れる包丁を持った人間が、誰かを刺すかどうかは、包丁の問題じゃない。持っている人間の問題だ」
『……はい』
「俺たちが追ってるのは、能力じゃない。次に、誰かを刺すかもしれない人間のほうだ。風を出そうが、火を出そうが、そこは変わらない」
『……』
「今夜、あの男が出てくる前に押さえれば、明日の被害者が、ひとり減る。こわいかどうかより、先にやることがある。それだけだ」
『……はい』
「それと、もう一つ。今日のお前の仕事は、待つことと、見ておくことだ。派手な役は回ってこない。だが、誰が何時にどう動いたかを正確に残せるやつは、現場でいちばん信用される。前に出る日は、そのうち来る。焦るな」
内線の向こうで、ペンの走る音が、また聞こえた。
『明日の被害者が、ひとり減る……焦るな……』
「後半は、書かなくていい」
『いえ。書いておきます』
その返事には、最初の硬さとは違う、芯が通っていた。分からないことを、こいつはそのまま訊いてくる。ひとつ訊くごとに、現場の手触りを確かめていくのだ。教える側の俺の方が、言葉を選び直させられる。
通話が、そこで途切れた。
夜の底に、また静けさが戻る。八神は、助手席で目を閉じて、浅く息をしていた。眠ってはいない。耳だけ、内線に置いている。
俺は、ハンドルに手を預けたまま、桐野に言った言葉を、もう一度なぞった。次の被害者を、ひとり減らす。そのために、ここにいる。
間違っていない。間違っていないのに、内側で、別の像がひとつ、その言葉に重なった。
次の被害者を出さないために、と口では言いながら。俺がほんとうに辿り着きたい相手は、この街の路地にはいない。あの男――と、そこまで考えて、俺は息を止めた。先は、いつも同じ場所で途切れる。たどり着くまでは、止まれない。それは任務とは別の、もっと底のほうにあるものだ。
共用玄関に動きはない、と九条さんが内線で伝えてくる。男は、まだ出てこない。
内線の奥で、九条さんの呼吸だけが、街の音を拾い続けていた。
深夜が、ゆっくりと近づいてくる。




