現場
車を停めたのは、規制線の二本手前の路肩だった。
二号車は、規制線の方を確かめるように、ひと足先に路肩へ寄せていた。俺は一号車を、その後ろに並べて停めた。エンジンを切ると、市街地の喧噪に代わって、規制線の青いラインの内側から、所轄の無線らしい途切れた声が低く流れていた。
「鳴瀬、桐野。先に降りて、現場の入口で待て。所轄との挨拶は俺がやる」
「了解です」
「は、はい」
ドアを開けると、午前の光が思っていたよりも乾いていた。空はうっすら曇り、雲の縁が薄く青い中、風はほとんどなかった。建物の影だけが、路上に長く落ちている。
俺は車のドアを閉めながら、規制線の方に視線を流した。
青いラインが、細い裏路地の入口に張られている。所轄の警備が二名、その内側でこちらに気づいて姿勢を整えた。報道の人間は見当たらない。事件の規模に対して、表向きの扱いは控えめだ。所轄の上層で、すでに処理の方針が絞られている証拠だった。
桐野が、二歩遅れて隣に並んだ。
俺は桐野を連れて、規制線の入口の手前まで、車から数歩、足を進めた。
「鳴瀬先輩、あの……」
「挨拶は隊長、俺たちは現場検証だ。所轄の人間とは、目だけ合わせて軽く頭を下げれば足りる」
「は、はい」
桐野の語尾が、ほんの少し落ち着いた。役割が分かるだけで、新人の呼吸は半分まともになる。
二号車から、九条さんと八神が降りてきた。
「鳴瀬さん、所見、八神と私で一通り読んでおきました」
九条さんが、端末を片手で持ち替えながら近づいてくる。
「軸線の話が、所轄の所見にも一文だけ出ています。延長線上の傷、と」
「あとで突き合わせます」
「統真ー」
八神が、車のドアに腰を預けて手を振った。
「現場で吐かない自信だけは、あたしはあるから安心して!」
「お前は心配されてない」
軽く返したつもりが、桐野が横で短く息を吸って、笑いをこらえる顔をした。場が固まらないところで弛める。八神の癖だ。
「八神」
隊長が、車の後ろから現れた。
「現場で、桐野の真横にいろ。お前の喋りで間が持つ」
「了解です、隊長」
「自信の自己申告は要らん」
「まだ何も言ってないですよ!?」
隊長が、口の端だけで笑った。それから、声の角度を隊全体へ向ける。
「現場検証は、鳴瀬・桐野・八神。九条は、俺と所轄の引き継ぎ。役割分担は、いつも通りだ」
「了解です」
「はーい」
「了解しました」
俺と八神、九条さんの返事が、半拍ずつずれて並んだ。桐野は遅れて、短く頷くだけだった。
隊長が、規制線へ歩き出す。九条さんが、その半歩後ろに寄っていった。引き継ぎの場では、隊長が前面に出て、九条さんが資料の精度を上げる。役割は、もう隊の手癖になっている。
俺は桐野へ、短く目で合図を送った。
「行くぞ」
「は、はい」
◇◆◇
所轄の警備が、規制線のテープを手で持ち上げていた。
その内側で待っていた所轄の刑事が、姿勢を整えて、こちらへ歩み寄ってくるところだった。
「公安第三課の方ですね。ご連絡いただいておりました」
「お世話になります。室伏です」
隊長が、低い声で短く返した。歩幅は変えない。所轄の刑事は、こちらの顔を順に視線で流し、すぐに目を伏せた。怪訝な空気が、薄く残る。「公安に移管」と聞かされた現場で、彼らが浮かべる顔はだいたい同じだ。
俺たちは規制線の内側へ入った。
裏路地は、表通りより三段ほど影が深かった。両側を中層のビルに挟まれ、上の方では雑居ビルの非常階段が黒い骨組みのように張り出している。路面はアスファルトだが、ところどころに古い舗装の継ぎ目があって、目地に小さな欠けが残っていた。
空気の質が、規制線の手前と内側で、はっきり違った。湿度が籠もる、というだけでは説明のつかない硬さが、路地の奥に張りついている。九条さんが、隊長の半歩後ろで、一度だけ眉根を寄せた。八神が、ふだんの軽口を引っ込めて口元を結んでいる。隣に並んだ桐野の表情は、来る前よりも頬の血色が落ちて、首筋のあたりが固かった。
俺は、その固さを、いま剥がしにかからないことにした。新人の最初の現場で、緊張をいきなり崩しにかかるのは、教育として下手だ。
「桐野」
「は、はい」
「最初に、空気を覚えろ。匂い、光の入り方、人通りの少なさ。それが基準だ。痕跡を読むのは、基準のあとに来る」
「基準、ですか?」
「いきなり痕跡が見える人間はいない。基準を体に通してから、目を慣らす」
「は、はい」
桐野が、ゆっくり一度、息を吸って吐いた。
「しおりん、空気、表よりちょっと重いでしょ」
「……はい」
「あれね、日が当たらない場所だと湿度が籠もるの。匂いも残る」
八神の声の置き方が、自分の地より一段、噛み砕かれている。新人の前では、ちゃんと砕ける。
俺は、二人の前を歩きながら、視線を路面の左右に振っていた。
遺体は、もう搬出されている。アスファルトの上には、白いマーカーが二本、距離を置いて立っていた。手前、表通り寄りのひとつが、被害者の倒位置。もうひとつは、路地の奥側、目分量で三メートルほど離れた地点に置かれている。マーカーの周囲には、鑑識作業のあとに残された変色した暗い染みが、奥側のマーカーから手前側のマーカーへ向かって、点々と引きずられるように続いていた。
「鳴瀬先輩、あの、白いマーカーが、二本……」
「ああ。手前が、倒れていた位置。奥が、被害者が斬撃を受けた立ち位置の推定だ。染みの流れを見るかぎり、被害者は奥から手前へ、数歩よろけて倒れた。倒れた向きは、所轄の所見だと、路地の奥側に左半身を向けた、振り返りざまの形だったらしい」
俺は奥側のマーカーの脇で立ち止まり、路地の壁面に視線を上げた。
コンクリートの打ち放しの表面に、横一文字の細い傷が走っている。高さは、地面からおよそ一メートルだった。腰のあたりだ。長さは三十センチほどあった。傷の縁は、鋭利な刃物で引いた切痕とは違う。表層を撫でて剥ぐような、浅く長い切り口だった。
「これは、刃物の切痕じゃない。何かが、壁と平行に、薄く走った」
「平行に……」
桐野が、傷に顔を寄せた。
「傷の縁を、よく見ろ。片側だけが、薄く毛羽立っている。表層が、進行方向の奥側へ削げて持ち上がる。刃物の切痕じゃない、薄い面が走った跡だ」
「面、ですか?」
「薄い面が、壁と擦れた。重さはない、けれど、表層を持っていける程度の鋭さがある」
桐野が、自分の手のひらを、傷の前にかざす動作をした。指は触れていない。証拠保全の作法は、〈ゲート〉の座学で習っているはずだ。動作だけで、向きを確かめている。
「鳴瀬先輩、これ……縁の毛羽立ちから言うと、路地の奥側からの走り、になりますか?」
「そうだ。立ち位置を逆算できる」
俺は壁から数歩離れ、傷の延長線を、路地の入口の方角へ視線で追った。
並びの数軒先、路地端に立つ電柱の側面に、同じ高さで薄い剥がれがあった。視線をその先へ流す。雑居ビルの一階の外壁にも、同じ高さで横一文字の傷が走っていた。もう一段、表通り寄りへ送ると、路地の入口近くに張り出した古い看板の角に、同じ高さで切り欠きのような跡があった。
四つの傷が、ひとつの直線の上に並んでいた。すべて、地面から腰の高さで揃っていた。
「八神」
「ほい」
「巻尺、軸線の四点。壁・電柱・外壁・看板の順だ。高さを取れ」
「了解、しおりん、補助お願い」
「は、はい」
八神が、ポーチから細い巻尺を取り出して、桐野を呼ぶように手を振った。桐野が、慌てて立ち上がって、八神のもとへ足を運ぶ。
顔を上げると、隊長と九条さんが、引き継ぎを終えて所轄の刑事から茶封筒を受け取っていた。刑事は、もう深い質問をしない顔をしている。
九条さんが、こちらに気づいて軽く手を上げた。
「鳴瀬さん」
歩み寄ってきて、声を低く揃える。
「いま、追加の所見が回ってきました。上から五行目、確認してください」
「はい」
九条さんが茶封筒から引き出したのは、俺へ差し出された薄い紙束だった。表紙をめくると、鑑識の追加所見が、最初の頁にまとめられていた。
『被害者:右肩より左脇腹に至る単一の切断面。長さ約四十五センチ、深さ最大十八センチ。刃物では再現不能な切断角。胴体側方、空間中に同方向の切断痕を確認。距離三〇センチ、平行。両切断面の延長軸は一致』
紙束の末尾近くに、現場写真の頁が綴じられている気配があった。
俺は、写真の頁を開く前に、桐野へ視線を流した。桐野は、八神の補助で、看板の高さを測っているところだった。背中はこちらに向いている。
「九条さん」
「はい」
「写真は、後で見せます。順番として、まだ桐野には早いかと」
「同意します」
九条さんが、わずかに頷いた。
「現場検証の所見だけ、先に共有させてください」
「お願いします」
九条さんが短く頷いて、隊長のほうへ戻っていった。
俺は桐野を呼んだ。
「桐野」
「は、はい、ただいま」
桐野が、巻尺を八神に渡しながら、こちらへ駆け寄ってくる。
「九条さんから、紙面の所見が来ている。お前にも見せておく。ただし、写真は外す」
「あ、はい」
俺は、紙面の上五行だけを桐野に見せた。文字を追う桐野の目が、一度止まる。
『刃物では再現不能な切断角』
その一行で、桐野の喉がひとつ鳴った。
俺は、紙面を伏せかけたまま、桐野が顔を上げるのを待った。長くは待たない。新人の最初の喉は、長く尾を引かせない。
「鳴瀬先輩……これは」
桐野の目が、ゆっくりこちらに上がる。
「超能力、ですか?」
俺は、紙面を伏せた。
「断定はしない。ここで断定すると、捜査が一本道になる」
「でも、刃物では再現不能、と」
「所見の文言は、所轄が書いた。所轄は、超能力の存在を知らない。彼らの文言は、『通常の凶器では説明がつかない』というところまでだ。そこから先を、こちらが状況証拠で詰める」
「詰める……」
「現場の物理痕跡、被害者の損壊、加害動線。三つを照らして、通常の犯行手段で説明がつくか、つかないかを、消去法で振り分ける。これは超能力ですか、と問う前に、超能力でなくとも説明がつくか、を先に問う」
「逆から、ですか?」
「そうだ。逆から潰す。残ったものが、消去法の先で出てくる」
桐野は、いったん視線を路面の擦過痕へ落としていた。それから、コンクリートの壁の傷から、並びの電柱、外壁、看板の順に、視線を移していった。
「四つ……並んでいます」
「そうだ。四つ並んだ直線は、刃物では引けない」
「刃物だと、距離が……」
「届かない。仮に届く道具を想定しても、四つの面に同じ角度で当てる動線が、ない。被害者を挟んで、加害者の立ち位置と動作を逆算すると、矛盾だらけになる」
「だから、消去法で残るのが」
「残るのが、ひとつ。だが、それでも『これは超能力です』と現場で叫ぶのは早い。痕跡と動線で詰める。それが、うちの仕事の入口だ」
「は、はい」
桐野は、もう一度、四つの傷を目で辿った。今度は、迷いがなかった。線が、桐野の中でひとつの軸として認識されたのが分かる。
「鳴瀬先輩、隊長は……所轄の方には公安として名乗られているんですよね?」
「そうだ。警察庁警備局公安第三課――対外的には、そういう所属になっている」
「公安第三課……」
「実在の課だ。本来は別の事件を扱っている。俺たちは、そこに書類上の籍を置いているだけだ」
「籍を……」
「現場では、それで顔が通る。中身は俺たちの部署だが、紙の上では公安第三課の人間だ」
「あの……それは、嘘、ではなく」
「カバー身分だ。嘘というより、組織が用意した別名のひとつだと思え。秘匿を保つには、現場が普通の顔をしていないと回らない」
「……はい」
納得しきってはいない語尾だが、置き場は見つけた語尾だった。揺らがないまま、引っかかりだけを覚えておく。新人の初日には、それで足りる。
規制線の内側を、八神が巻尺を巻きながら戻ってきた。
「統真ー、しおりん抜けたぶんは途中からひとりで回したけど、壁・電柱・外壁・看板、全部高さ揃ってる。腰の高さで誤差二センチ以内」
「軸線の判定材料には、十分だ」
「じょーくんもそう言うね、たぶん」
八神が、巻尺をポーチに収めながら、桐野を向いた。
「しおりん、最初の現場でこの読み方が見えるの、結構いいよ。あたしのときは、ぼーっとしてた」
「そ、そんな」
桐野が、目をすこし伏せた。緊張の残りが、頬の血色のところで、まだ固い。八神は、それも込みで言葉を出している。
「八神」
「ほい」
「現場検証は、ここまでにする。所見だけで切り上げる」
「了解」
俺は紙束を閉じて、九条さんへ短く合図を送った。茶封筒には、目撃情報や不審者リストの綴りも入っているはずだ。中身は、庁舎で開く。
隊長がこちらに気づいて、軽く頷いた。
「鳴瀬。現場検証は」
「軸線四点、誤差二センチ以内で揃っています。方向は、路地の奥から入口へ。被害者の倒位置とのずれは、二歩ぶん」
「軸線の起点は」
「マーカーの奥、被害者の立ち位置からさらに数歩、路地の奥側です。加害者の立ち位置として整合します」
「写真と、突き合わせるか。庁舎でやる」
「了解です。桐野にも、所見と地面の対応を、改めてなぞらせます」
「分かった」
隊長が所轄の刑事に向き直って、軽く頭を下げた。刑事も、同じ角度で頭を下げ返す。怪訝な空気は、まだ薄く残っていた。だが、現場の引き渡しは、無事に終わった顔だった。
◇◆◇
規制線を出て、車に戻る。
九条さんと八神は、先に二号車のほうへ向かった。八神が運転席、九条さんが助手席に身を入れる。俺は一号車の後部座席のドアを開け、桐野を真ん中に座らせた。隊長は助手席、俺は運転席に乗り込む。
「庁舎へ戻る。九条には、ブリーフィングルームで所轄の情報を開いてもらう。鳴瀬は、軸線の所見をまとめろ。桐野は、車内で気づきを書き残せ」
「了解です」
「は、はい」
「写真の現物確認は、庁舎で行う。所見の文字と現場で見た地面、そこに写真を重ねる。それが、第一報の理解の限界だ」
「は、はい」
隊長が、所轄から受け取った茶封筒を膝の上に置き、シートベルトを締めた。
俺はエンジンをかけた。
低い唸りが、車体の下から立ち上がる。行きと同じ唸りのはずだが、響き方が微妙に違って聞こえた。現場員が、事件の温度をいくらか、車の中に持ち帰っている音だ。
ルームミラー越しに、後部の桐野を確かめる。桐野はすでに膝の上で、最初に渡した手帳を広げていた。ページの上に、ペン先がまだ止まっている。何を書くか決めかねている顔だ。
「桐野」
「はい」
「断片で構わない、と言ったろう。書いてから整える。整えてから書こうとすると、出てこなくなる」
「……はい」
桐野が、ペン先を一文字走らせた。短い字が、紙の上に置かれていく。視線の途中から、現場のひとつぶんが、すこし形になってきたのが分かった。
二号車のテールランプが、前方で赤くなった。八神がハンドルを切って、規制線の前から車を出す。
車を、現場の影から、表通りの光のなかへ出した。




