出動
出動口への通路を抜けるあいだ、桐野の足音はずっと半歩うしろにあった。
追いついてきてもいいぞ、と言いかけて、やめた。新人にとっての半歩には、それだけの意味がある。最初の現場へ向かう人間が、ベテランの背中をどれだけ離れて見るか、その距離はあとから自分で調整するしかない。
いまは、こちらが速度を落とすほうがいい。
ほんの少し前まで、執務室では桐野が初日の挨拶をしていた。隊長が内線を取って空気の質を変えたのも、同じ部屋の、同じ朝の話だ。出動命令ひとつで、朝は別の顔になる。
通路の途中に、出動口を備えた装備室がある。扉を押すと、すでにそれぞれの段取りを終えかけていた。
九条さんが、棚から防刃ベストを抜き取って、肩に通している。八神は端末を立て、片手で画面を弾きながら、もう片方の手で携行品の袋を物色していた。隊長は壁際のロッカーから自分の上着を取り出し、両肩を回しながら袖を通す。
誰も急かさない。だが、誰の手も、止まらない。
俺も自分のロッカーの前で、脇差をベルトに通し、片手銃をホルスターへ収めた。徒手は、いつものとおりだ。
「桐野」
俺は装備棚の前で立ち止まった。
「は、はいっ」
「初任務だから、必要なものはこっちで揃える。荷物は最小限だ。持ち物は、現場でひっかからないよう、上着の内側にまとめておけ」
「あ、はい、すみません」
桐野が、小さくうなずいた。その指先が、緊張で少し固い。慌てる必要はないと言いかけて、それも飲み込んだ。慌てるな、と言われて慌てなくなる新人は、いない。
俺は棚から、桐野用の予備の手帳と、未割り当ての通信端末を取り出した。識別票の番号は、欠番なく順に振られている。
「まずは、これ」
手帳を、桐野の手元へ差し出した。桐野が、両手で受け取る。
「現場で見たことを書き残す用だ。書き方は問わない、断片で構わない。気づいた順に、思った言葉のままで書け。あとで自分が読み返せれば、それで十分だ」
「は、はい」
続けて、未割り当ての通信端末を差し出す。桐野は手帳を片手に持ち替えて、空いた手で端末を受け取った。
「これは、隊内の通信専用。電源は入れたままにしておけ。使い方は、必要になった都度、誰かが指示する」
「は、はい。あの……ありがとうございます」
受け取った瞬間に、ほんの少しだけ、手のひらの落ち着き方が変わったように見えた。
現場へ向かう人間にとって、装備は意味を持つ。「これから何をするか」が、ものの重みになる。装備を渡すのは、新人を現場へ送り出す側の、地味だが大事な仕事だった。
「鳴瀬」
隊長が、扉のほうから声をかけた。
「支度ができ次第、駐車場へ向かってくれ。一号車のキーは、お前に持たせる。九条と八神は、二号車だ」
「了解です」
受け取ったキーを、上着のポケットへ滑り込ませる。冷たい金属の感触が指先に伝わって、すぐに消えた。
「桐野は、鳴瀬と同じ車に乗れ。俺もだ。一号車に三人」
「は、はい」
桐野が、隊長に向けて頭を下げた。
「八神」
「はーい」
奥から、明るい返事だけが飛んでくる。
「二号車のほうから、内線をつないでおいてくれ。事案の概要は、移動しながら全員で共有する」
「了解でーす」
八神が、片手を挙げたまま端末を操作している。
隊長が、自分の端末を九条さんのほうへ向けた。
「九条。所轄から来た資料、回す。要点を整理して、移動中に共有してくれ」
「了解です」
九条さんが、受け取った端末に手早く目を通していた。中身を整理しはじめている顔だ。
「八神は運転を頼む。九条は助手席で、資料を見ろ」
「はーい」「了解です」
二つの返事が重なって、二人が装備室を出ていった。
俺は桐野へ視線を戻した。
「行くぞ。エレベーターは奥」
「はい」
◇◆◇
地下駐車場は、いつもの照明の数だけ点いていた。
白い蛍光灯が、コンクリートの天井に等間隔で並んでいる。エンジンの予熱の音が、奥のほうから低く響く。八神たちの二号車は、ちょうど駐車枠から動き出すところだった。後部のテールランプが赤く光って、ゆっくり出口へ向かう。
八神が運転席で、こちらに短く目顔を寄越した。意味のある合図ではない。「いま動き出す」の一拍だけだ。それでも、こちらの動きと向こうの動きが、同じ呼吸の中で揃っていることが分かる。助手席の九条さんは、端末に視線を落としたままだった。
俺は一号車の運転席のドアを開け、シートに座る前に、もう一度キーを確かめた。
ハンドルに手を置く前の、わずかな間。
その間に、頭の隅で、ひとつだけ古い声が立ち上がった。
あいつは、いまどこにいるのだろう。
名前を呼ばないようにしているのに、その代わりに残るのは、はっきりしない指示語だけだ。あいつ、と俺は胸のうちで呼んだ。何年経っても、その呼び方だけは、こちらの都合で勝手に出てくる。
頭を、軽く振った。
今日の現場は、その男には関係ない。関係のあるなしを、こちらが勝手に振り分けているだけだとしても、今朝の俺がやるべきことの順番は、はっきりしている。
「鳴瀬先輩」
桐野の声で、意識がすぐに現在へ戻った。
「後部に、乗ります」
「ああ。隊長は助手席だ」
「分かりました」
桐野が、手帳と端末を上着の内側へ収め、後部のドアハンドルに手をかける。隊長が反対側から助手席に乗り込み、シートベルトを引きながらこちらに目だけで合図した。
「出してくれ」
「はい」
エンジンを起こす。低い唸りが、車体の下から立ち上がってきた。
◇◆◇
二号車のテールランプを、半台ぶんうしろから追う形で、俺は車を出した。
地下から地上へ、傾斜したスロープを上がる。光量が、ひとつ階段ぶん明るくなる。庁舎の正面の通りに出て、信号で一度止まり、二号車との車間を少しだけ詰めた。
助手席の隊長が、上着の内側から端末を取り出した。指先で素早く画面を切り、内線回線を立ち上げる。
「九条、八神。聞こえるか?」
『はい、隊長』
九条さんの声が、車内のスピーカーに乗って届いた。八神が、その横で『はーい』と返事を重ねる。
「概要を共有する。桐野もよく聞いておけ」
「は、はい」
桐野が、ぐっと前のめりになった。背筋を伸ばし、隊長の言葉を待っている。
「事案は、市内の繁華街から外れた裏路地での殺人。発生は、昨夜のうちと見られている。所轄が初動を回し、上申を経て、今朝、うちに移譲が決まった」
『〈裏三課〉に来た理由は、遺体の損壊状態です』
九条さんが、隊長の言葉を引き取った。
『所轄の所見では、通常の凶器では再現できない損壊、と。切断面が、刃物のものではない、と書かれています。要点をまとめましたので、いま一号車に送ります』
助手席の端末が、短く震えた。隊長が画面を一瞥し、すぐ消す。中身は、桐野にはまだ見せない手つきだった。
「了解だ。所轄からの引き継ぎは、現場で俺がやる。鳴瀬は、車を着けたあと、桐野を連れて現場検証に入れ。痕跡の見方は、歩きながら順に教えろ」
「了解です」
ハンドルを切りながら答える。市街地へ向かう幹線は、朝の通勤の最後の波が引いた頃合いで、車間はゆったりしていた。
桐野が、控えめに息を吸う気配がした。
「あの……ひとつ、お伺いしてもいいですか?」
「いいぞ」
答えたのは、隊長だった。声の作り方が、執務室での豪快さからは一段、低くなっている。任務へ向かう車中の声だ。
「警察と、〈裏三課〉は、どういうつながりになっているんでしょうか? 〈ゲート〉では、組織図のレベルでは習いましたが、実際にどう動いているのかが……まだ、よく分かっていなくて」
俺は、ルームミラー越しに桐野の顔を確かめた。
質問を切り出すまでに、相応の準備をした顔だった。礼を失しないように、用件だけを一息で言い切る。新人が初日の朝に打てる質問としては、よく整っていた。
〈裏三課〉は、公安の看板の裏に置かれた、政府直属の部署だ。表に出ないその重みは、こういう質問を受けるたびに、胸の奥で少しだけ持ち上がる。
「説明する」
隊長が、シートの中で姿勢を少し変えた。
「事件のいちばん最初は、ほとんどの場合、所轄の刑事課が回す。これは普通の事件と、同じ手順だ。現場の警察官は、超能力の存在を知らされていない。彼らからすると、通常の手口じゃ説明のつかない事案を踏んだことになる」
「は、はい」
「それを、上に上申する。警察組織のなかには、ごく限られた窓口がある。固有の名前は伏せるが、その窓口だけが、超能力犯罪の存在を知っている。上申されてきたなかから、超能力の関与が疑われるものを、うちへ取り次いでくる」
「窓口、ですか。……末端の刑事の方は」
「知らない。彼らに伝わるのは、『公安案件として移管された』という事務的な一文だけだ。理由は教えない。公安への移管は実務でもありうる処理だから、刑事側は怪訝な顔をしながらも、引いてくれる」
「知らされない、と」
「秘匿のためだ」
短く言い切る。
「超能力の存在を知る人間は、できるだけ少ないほうがいい。窓口を二段にして絞れば、漏洩のリスクが減る。代わりに、所轄との関係は、いつも少しだけ気まずい。『何で公安なんかが』という空気は、現場で必ず残る」
「気まずい、ですか」
「俺の役回りでもあるな」
隊長が、口の端だけで笑った。
『隊長、そのへんで』
二号車から、九条さんが短く差し込んだ。
『一号車で詳しく解説する必要は、ありません。実演を見れば、桐野さんにも分かります』
『じょーくんはほんと、せっかちだなあ』
八神の声が、九条さんの言い終わりに重なるように飛んでくる。スピーカーごしでも、いつもの軽さは、ほとんど目減りしない。
「八神、運転に集中しろ」
『はーい』
隊長が、内線をひと呼吸だけ静かにさせた。それから桐野へ目を戻す。
「もうひとつだけ、押さえておけ。〈裏三課〉が事案を受けるのは、初動を経て、超能力の関与が疑われたあとだ。事件の最初期から、うちが現場に立つことは、まずない」
「最初は、所轄が回している」
「そうだ。だから、現場に着いたときには、所轄の鑑識も検視も、一通り入ったあとになる。遺体は搬出済み、現場保存と、追加の所見の引き渡しを受ける、ってのが、典型的な流れだ」
「あの……もうひとつ、お伺いしても」
「いいぞ」
「〈裏三課〉は……どんな事件を、扱うことが多いんでしょうか? きょうの事案も、その典型に近いのでしょうか?」
隊長が、ふっと口の端を緩めた。
「いい質問だ」
短く答えてから、声の置き方を一段、現場のほうへ戻す。
「うちの仕事は、超能力が絡んだ犯罪を、所轄から引き取って終わらせることだ。それが基本だ。中身は……能力を悪用する側の事案が、ほとんどになる。そして多くは、衝動的だ」
「衝動的、ですか」
「能力を発現したばかりで、自分の力をうまく扱えていない人間が、突発的に被害を出す。計画性は薄いことが多い。それでも、能力が絡む以上、所轄では収まらない。だから、うちに回ってくる」
「計画的な事件は……」
「ないわけじゃない。ただ、初日に身構える種類じゃない。きょうの事案も、見立ては前者のほうだ。詳しくは、現場で痕跡を踏みながら判断する」
「……はい」
「……勉強になります」
桐野の手のひらが、膝のうえで、ぎゅっと握りなおされた。
俺はミラーから視線を前へ戻した。
窓の外の景色は、市街地の中心部へ近づくにつれて、少しずつ建物の高さが揃ってくる。ガラス張りの低層ビル、看板を更新したばかりの店舗、街路樹の影。三車線が二車線になり、信号の間隔が短くなる。
数十万人に一人〜二人。
俺は胸のうちでつぶやいた。超能力者そのものの母数は、それくらいだ。世間の人間のほとんどが、超能力という言葉を、創作の中の話だと思って暮らしている――それは秘匿が機能している証拠であり、同時に、現場員が背負っている重さの理由でもあった。
「桐野」
ルームミラー越しに、後部に声を向けた。
「は、はいっ」
「肩に、力が入りすぎだ」
「……あ」
桐野が、ぎゅっと上げていた肩を、自分で意識して下ろした。
「現場までは、あと少しだ。呼吸を浅くするな。深く吸って、長く吐け」
「は、はい。……すみません」
「謝ることじゃない。初日に緊張しないやつはいない。緊張するな、とも言わない。ただ、息だけは止めるな。止めると、見えるものも見えなくなる」
「……はい」
短い返事で、桐野の語尾が、最初よりも一段、まっすぐになった気がした。
ハンドルの感触は、いつもどおりだ。長距離の通勤で慣らした重さが、手のひらの真ん中に乗っている。事案の重さを、ハンドルの重さで打ち消すつもりはない。ただ、いつもどおりであることが、現場員には要る。
『現場、見えてきました』
二号車からの九条さんの声が、静かに割り込んできた。
「了解。鳴瀬、減速」
「はい」
俺はアクセルから足を抜いた。
目の前の二号車のテールランプが、ゆっくりと赤を強くする。幹線から脇道へ折れ、さらに細い通りへ入る。市街地の表向きの賑わいから、人通りの少ない区画へ、車二台がそろって滑り込んでいく。
遠くで、所轄の規制線の青いラインが、ちらりと視界の端に入った。
俺はそれを、長くは見なかった。
まだ、現場の温度に触れる前だ。視線を前に戻し、車間を一台ぶん詰める。うしろに連れた新人を、これからあの青いラインの内側へ連れて入る。
車を停める場所を、目で探した。




