第01話 文化街での邂逅
死ノ儀流一郎は大きく落胆していた。
時女宵子に対してだ。
彼女は現実に何が起きているかを知らなさすぎる。
孤児の施設で七年ほど暮らしていたらしいが、自分の取るべき道が分かっていれば、もっと早くにこの街を訪れていたことだろう。それが十七歳になるまで先延ばしになっていたのは、やはり自分が何者であるか無自覚だったということだ。それは流一郎にとって歯がゆい現実だった。確かにかつてのように血で血を洗う戦場は過去の話になりつつある。あたら血を流すことよりも、これからは自然の成り行きに身を任せるほうが人道的な考え方だと信じて疑わぬ一定の層が居ることも事実だ。だがそれは人間側の驕りに過ぎない。滅びへの道を歩み続ける『麒族』を、自らの手を汚さずに黄泉へと葬るための方便に過ぎないのだ。
流一郎が戦いを放棄することはない。彼は待っていたのだから。時女宵子が流一郎の救世主として目の前に現れる時を――。
夕焼けはとうに去り、あたりには夜の帳が降りていた。
流一郎は舞鶴市にたった一つしかない夜の歓楽街「文化街」を練り歩いている。
ここには古くからの花街があり、決して高校生である流一郎が出歩くような場所ではないが、彼には彼の確信と信念があった。
それは、日本中のあらゆる夜闇から麒族を駆逐し浄化する――というものだ。
その目的のためには遠慮などなかった。流一郎にとって麒族がうごめく場所は、どんな曰く付きの場所であっても等しく戦場なのだ。老いた先達諸兄姉も、年端も行かぬ幼き子供たちも、昼夜を問わずこの日本の町を自由に行き交える未来。そこには温かな微笑みだけがある。それが流一郎の夢見る「本来あるべき人々の姿」だった。
もちろんそんな思想信条は舞鶴学園の生徒たちにとって知ったことではない。クラスメイトの側からしてみれば、死ノ儀流一郎は「群れずに一人で校則破りを続ける風変わりな非行少年」だ。そんな流一郎だからこそ、生徒たちのみならず、教師たちからも煙たがられる存在になっている。殺人鬼の息子――誰がそう名付けたかは知らないが、案外、それは教師の仕業なのかもしれなかった。日々の安寧を享受する者たちにとって、亡霊人も麒族も流一郎も、等しく「この世界の異物」ということなのだろう。それらが起こす「抗争」は一般市民にとって、反社の者が起こす銃撃事件と本質的な差異はないのだ。
だがそのことを流一郎は悲観してはいなかった。幼き日の父の言葉がいつも胸の奥にあるからだ。
父は言った。「世界が自分たちを疎ましく思い、排除しようとすればするほど、世界は平和な未来に近づいている証だ」と。その予言めいた言葉を流一郎は日々の戦いの中で肌身で感じていた。
そう、悲願成就の時は近いのだと。
文化街の巡回を始めて二時間あまり。次第に夜は深くなり、行き交う人々の泥酔した姿が目立つようになってきた。いよいよこの歓楽の都がいつもの表情を見せ始める頃合いだ。流一郎も周囲への警戒を厳にした。もっとも、およそ二五〇〇軒の飲食店や風俗店が立ち並ぶ文化街だから、そうそう特定の相手と出くわすことはない。そういう意味では流一郎の行動は、巡回ではなく徘徊に過ぎない。
だがもちろん、流一郎は根拠もなく行動しているわけではなかった。
『文化街に複数の亡霊人がたむろしている』
攻類神道の総本山・美鶴神社に、そのような密告……いや「市井からの意見書」がもたらされたのだという。情報の確度は決して高くない。だが二五〇〇軒を流一郎だけでローラー作戦するわけにもいかないし、件の情報が酔っぱらい同士の逆恨みによる虚偽の投書だったきらいすらある――だから流一郎も、自分の第六感を信じて巡回するしかなかった。これはもう見つけ出せれば僥倖というべきレベルだ。しかしそれは、思った以上に容易く実を結んだ。
「――!」
さすがの流一郎も、今夜の捜索をそろそろ終えようとしていたその時、視界に「人にあらざる者」が飛び込んできた。それは街行く大勢の人の群れに溶け込んで何の違和感もないように思えたが、流一郎の目には「完全な異物」として映っている。
亡霊人。
黒いTシャツにジーンズ姿のそれは、確かな足取りで人混みの中を歩いている。その所作だけを見れば人間と何ら変わりはない。だがそこに、生きとし生ける者なら、全ての者がまとっている生者のオーラは微塵もなかった。精巧に動く瀬戸物人形――流一郎の目にはそのようにしか見えない。
流一郎は金属バットを持つ右手に力を込めた。だが、まだだ――今ここで「奴」を割るわけにはいかない。この亡霊人が行き着く先に「奴らの巣」が待ち構えている可能性が高いからだ。
流一郎は、処刑人である自身の渡殺者としての存在感を消して、亡霊人のあとをつけた。
尾行を始めて五分――亡霊人がそれに気付くことはなかった。それどころか、見えない糸に誘われるように、どこかへ迷いなく向かっている。そこが亡霊人たちの巣だ……。
やがて亡霊人はとある雑居ビルの中へと消えた。その看板には、ディスコ『ケイオス』とあった。おどろおどろしい水棲クリーチャーの彫像が十数体出迎える店構えは、お世辞にも趣味がいいとは言えなかったが、一度見たら忘れないという意味では商売として成功しているのだろう。
流一郎がクリーチャーたちを避けて店内に入ろうとした時、背後から声がかかった。
「えっ!? 死ノ儀くん!?」
振り返ると、そこには時女宵子の姿があった。
「時女……どうしてこんなところに?」
流一郎が驚くのも無理はなかった。宵子は今、性風俗店が立ち並ぶエリアからやって来たのだ。知らずに迷い込んだのだとは思うが、危機管理の意識が低すぎる。
「どうしてって……私、まだ不案内だから、早く土地勘を持とうと思って――」
自分のやっていることをまったく分かっていないようだ。
だが、それはそれとして、思えば昨夜、警察官姿の亡霊人たちを割ったときから「違和感」はあった。あれ以来、流一郎が亡霊人を割りに行った先には、必ず時女宵子の姿があったからだ。狭い町のことだから、奇遇が三回続く確率もゼロではないだろう。しかし今回の場合、宵子自身もまた何かを感知して引き寄せられていると考えたほうが、自然な成り行きであるように思えた。
「死ノ儀くんこそ……また、亡霊人を?」
「俺の質問がまだだ。なぜこんなところに? ディスコは校則違反だぞ?」
「ディスコ? これがディスコ!?」
宵子は目の前の雑居ビルを見上げた。そして壁面を彩る極彩色のネオンに思わず見とれてしまう。中高生用の過激なファッション誌でしか知らなかった歓楽施設「ディスコ」が今、自分の目の前にあるのだ。宵子は思わず吸い込まれそうになると、ふいにハッと我に返った。そして顔の前で手のひらを素早く振って全否定する。
「違う違う! 私そんな不良じゃないよ!」
「この文化街に足を踏み入れている時点で、十二分に素行不良だがな」
「文化街? ――私、この通りならお店がたくさんあって明るいから安心かなと思って」
なるほど。昨夜、国道沿いで警察官の亡霊人に襲われたことがトラウマになっているのだ。より明るいエリアを求めてこのネオン華々しい文化街に入り込んだということか。電気の明かりは人間を安心させる文明の利器だが、だからといって決して治安がいいとは言えない文化街を選ぶあたり、やはり時女宵子の危機管理の意識はどこか少しズレているように思えた。二択しかない選択肢を確実に間違い続けるようなそれだ。
「そうか――道端のキャッチセールスは全部無視して帰れよ」
「キャッチセールス……?」
流一郎は宵子の返事を半分聞き流しながら『ケイオス』に入っていこうとする。
「ちょっと、死ノ儀くん――!」
呼び止められて、流一郎が宵子に首を巡らす。
「何だ?」
「私の質問がまだだよ。ここには亡霊人を?」
「時女――好奇心が勝ると、痛い目にあうぞ」
「同じようなこと、姫野先生にも言われた。亡霊人に気持ちを注ぐなって」
姫野美人の言いそうな物言いだと流一郎は思った。彼女はすべてを知っておきながら、無条件に正解を与えるようなことをしない。人がどの選択を選ぶのか予想して楽しんでいるような節がある。
「姫野先生がそう言うんなら、守ったほうがいいかもな」と、白々しい流一郎。
「どういうこと? 私、知りたいの。亡霊人のこと……」
「美鶴神社で清められてないきみは、まだ不浄の者だ。不浄の者が亡霊人の深淵を覗けば、きみ自身も亡霊人になるぞ――帯同したいと言うんなら、答えはノーだ」
「そう言う死ノ儀くんはお清めを受けたの?」
「さあな……産湯で清められたと聞いているが、さすがに覚えていない」
「産湯で……」
宵子は言葉を続けた。
「私にも亡霊人にまつわる生い立ちがあるなら、きっと清められていると思わない?」
「可能性の話をするなら、大抵のことはグレーだ」と溜め息をつく流一郎。
流一郎はさらに何かを言いかけたが、すぐに諦めた。一般市民を渦中に巻き込むことはしたくないが、もとより時女宵子は当事者……いや、あらゆる出来事の中心人物だ。もう一度くらい怖い目にあって、事件を避けるようになってくれたほうが流一郎としてはやりやすい。
「危ないと感じたら、すぐに退場してもらうからな」
しっかりとうなずき、満足げな笑みを浮かべる宵子。
「じゃあ、行くぞ――」
「えっ、もう――!?」
「立ち話でずいぶん時間ロスをしたからな」
言いながら、流一郎は『ケイオス』の入り口、その観音開きのドアを開け放った。




