第8話:『残香の深度』
静まり返った店内に残されたのは、昇吾さんの残香と微かな体温の残滓だった。
「客とキャスト」という安全な境界線の陰で、傷つかないための鎧を纏い、冷徹な自己防衛を生きる術としてきた杏菜。しかし、彼の肩に額を預けた瞬間の体温と、耳元で響いた「どこまでもだよ」という低い熱は、彼女の防壁を脆く崩し去っていく。
抱かれたいような、逃げ出したいような葛藤と、大人だからこそ恐れる甘やかな破滅。鏡に映るプロの顔を取り払ったとき、そこにいたのは一人の男の熱に狂わされ、解けない結び目に捉われた一人の女性だった。
誰もいなくなった営業後の水底で、彼女がひとり静かに噛み締める、甘い降伏の物語——。
重厚な扉が閉まり、店内の喧騒が遠ざかっていく。
案内されたソファの奥、つい先刻まで二人が肩を寄せていたその席には、昇吾さんの残香と微かな体温の残滓が漂っていた。
閉店を告げるBGMが消え、フロアの明かりがひとつ、またひとつと落とされていく。営業中の賑やかさが嘘のように静まり返った店内で、杏菜はドレスの裾にそっと指を滑らせ、深く、静かな溜め息を吐き出した。吐息が碧い影の中に溶けていく。
――「じゃあ……覚悟しておけばいい?」
口をついて出たその言葉が、静寂に包まれた空間でゆっくりと胸の奥へ熱を帯びていく。
夜の街で幾度となくプロの笑みを振りまき、男たちの身勝手な欲望や甘い言葉を巧みにかわしてきた。傷つかないための鎧と、踏み込ませないための冷徹な自己防衛。それが彼女の生きる術であり、大人としての矜持だったはずだ。
それなのに、昇吾さんの前ではそのすべてが脆く崩れ去る。
スマホを覗き込めば、沈黙した画面の向こうに夕方のやり取りが浮かぶ。
『これ以上きゅんきゅんさせられたら困る』
と杏菜が本音を漏らすと
『えーまだまだ、これからなんだけどな』
と応じる昇吾
「……ずるい人」
誰もいないフロアに落とした声は、滑らかな微熱を帯びていた。
「客とキャスト」という都合のいい境界線を引いておけば、お互いに安全な場所で綺麗でいられた。けれど、彼の肩に額を預けた瞬間に伝わってきた体温や、耳元で響いた「どこまでもだよ」という低い熱に、全身の感覚が痺れるような陶酔に侵されていく。
抱かれたいような、逃げ出したいような、相反する感情が胸の奥で渦巻く。
この甘美な深海へ身を投げ出してしまえば楽になれると知りながらも、大人だからこそ、その先にある甘やかな破滅や取り返しのつかない感情の深さに足がすくむ。踏み込みたいのに踏み込めない、無力で切ない弱さ。
胸元をかすめるドレスの隙間に手を添え、指先で自身の鎖骨をなぞる。
昇吾さんに触れられていた肌が、今も微かに疼いている気がした。一人の「大人の女性」として彼を欲してしまう自分がそこにいた。
片付けを始める黒服たちの足音が遠くで響く中、鏡に映る自分を見つめる。
そこにあるのは完璧に作り込んだ夜の女の顔でもなく、純粋な少女の顔でもない。
ただ一人の男の熱に狂わされ、解けない結び目に捉われた、艶やかで滑稽な一人の女性の姿だった。
「……ずるいよ、本当に」
もう一度溜め息を吐き出すと、杏菜はゆっくりと目を閉じ、指先に残る温もりを確かめるように胸元へと引き寄せた。誰もいなくなった営業後の水底で、彼女はひとり、甘い降伏の痛みに揺れていた。




