第7話:『碧い水底で』
夕方交わした「これ以上きゅんきゅんさせたら困る」という甘いLINEの余韻を抱えたまま迎えた夜。
重厚な扉の向こう、絢爛な虚飾が渦巻くフロアで手に入れたのは、すべての喧騒を削ぎ落とした二人だけの静寂だった。
プロの仮面を脱ぎ捨て、体温を預けてくる杏菜。
逃れられない愛の深海へ、二人はどこまでも深く沈み込んでいく——。
重厚な扉を押し開けると、濃密な香水の香りと重たい空気圧が肌にまとわりつく。天井から滴るようなクリスタルの光散乱、磨き上げられたフロアに揺れる影、虚栄と欲望が交錯する熱気。しかし、黒服に導かれて指定のテーブルへと沈み込んだ瞬間、そのすべての騒乱が遠い境界線の向こうへと隔絶されていった。
「あ、昇吾さん」
少し低めの、どこか安心したような声。
そこにいたのは、さきほどのLINEで見せていた甘い余韻をそのまま残した杏菜だった。ドレスを纏い、夜のプロとしての緊張感を漂わせながらも、昇吾の顔を見た瞬間にその肩からふっと力が抜けていくのが分かった。
「お疲れ様。今日も頑張ったね」
昇吾が声をかけると、彼女は照れくさそうに小さくうなずいた。
『これ以上きゅんきゅんさせられたら困る』
夕方、彼女から届いたその素直で愛おしい言葉に、昇吾は余裕を魅せながら言葉を返していた。
『えーまだまだ、これからなんだけどな』
「昇吾さん、あんなLINE送ってきてずるい……」
隣に腰掛けた彼女が、グラスを持つ手の手首をそっと昇吾の膝の上に預けるように寄せてくる。他の客の前では決して見せない、距離感を完全に踏み越えた甘え方。触れ合う肌の微かな熱から、彼女の鼓動の早さが伝わってくるようだった。
「ずるくないよ。本当のこと言っただけだから」
昇吾が静かにそう返すと、杏菜は耳までほんのりと赤く染め、逃げるように彼の肩へと小さく額を預けた。甘く香る髪の残り香が、昇吾の感覚をゆっくりと麻痺させていく。
フロアを包む煌びやかな照明と、グラスの隙間をすり抜ける深みのある碧い影。繊細なドレスの衣擦れや氷の溶けていく微かな響きすらも、彼女が体温を寄せてきた瞬間、すべての感覚が心地よい陶酔の中へと溶けていく。
日常の重力を削ぎ落としながら、光の届かない二人だけの深い深度へと、ゆったりと静かに沈み込んでいくような感覚だった。
「これ以上きゅんきゅんさせたら困る」と怯えていたはずの彼女が、自らその甘い深海へとどこまでも深く身を沈め、昇吾の体温だけを命綱にして縋りついている。
「ねえ、昇吾さん……私をどこまで連れて行くつもり?」
肩に顔を埋めたまま、くぐもった声で囁く彼女。その問いは、夜の街の客に向けられた営業の言葉ではなく、誰も辿り着けない聖域で迷子になりかけた少女の、切実で甘い降伏の証だった。
「どこまでもだよ」
昇吾が耳元でそう囁くと、杏菜は顔を上げ、潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめ返してきた。
「じゃあ……覚悟しておけばいい?」
少し挑むような、けれど隠しきれない愛おしさを孕んだその微笑みに、二人の心は深く、揺るぎなく結びついていった。地上のどんな喧騒も届かない静寂の中で、昇吾はそっと彼女の体温を抱きしめた。




