第6話:『千夜一夜』
「お茶ばかり飲んで反省してます」と可愛らしく拗ねる杏菜の姿に、昇吾はふと彼女の切実な本心に気づかされる。
「プロの接客」という常識を脱ぎ捨て、ただ嘘偽りのない素顔で隣にいてくれたことの意味。
夜の世界の喧騒を抜け出した二人にしか味わえない、世界でたった一つの愛おしい時間が胸に刻まれていく——。
翌日、ふとスマートフォンの画面を開くと、そこには昨夜の余韻を残した杏菜からのメッセージが並んでいた。
高額なシャンパン『クリュッグ』の横で深々とブランケットに包まれ、
「お茶ばかり飲んで反省してます」
と可愛らしく拗ねていた姿。そして、ヘパリーゼを買い溜めして肝臓を整えるね、とどこかズレた一生懸命さで返してきていた彼女の顔が鮮明に思い浮かぶ。
『なんでもない日だからこそ特別な時間にしたかったんだよ! お茶すすってる杏菜が一番可愛いから気にしないで!』
画面越しにそう語りかけると、すぐに既読がつき、彼女が安堵したように胸を撫でおろし、くすりと笑っている気配が伝わってきた。
昼間の陽光の下で過ごす自分の日常と、夜の不夜城でプロとして気を張る彼女の日常。生きている世界は違っても、画面を通じて交わされる一言一言は、どんな恋人たちよりも自然で、飾らない温もりに満ちていた。
そういえば以前、店で彼女が「他の客の前ではお酒も飲むし笑顔も作るけど、昇吾さんの前だと全部忘れちゃうんだよね」と、困ったように笑っていたことがあった。
あの時は「仕事しろよ」と呆れて返したが、昇吾は今になってようやく気づかされたのだ。
彼女は気を抜いていたわけでも、ましてやだらけていたわけでもなかった。
杏菜はただ、二人だけの時間を真っ直ぐに、嘘偽りなく過ごしたかっただけなのだ。「プロとしての接客」という夜の街の常識に縛られていたせいで、彼女の切実な本心にすぐ気づけなかった自分を、昇吾は深く後悔した。
この席は、彼女としか作れない。他の誰を隣に座らせても決して味わえない、世界にたった一つだけのスペシャルシートなのだと。
その奇跡のような一瞬は、誰も見たことがない。他人の目には映らないし、誰も体験することなどできない。そして、その時間の圧倒的な尊さは、二人以外の誰にも理解すら及ばないのだ。
夜の世界の喧騒を抜け出し、満天の星空へと二人だけで抜け出すような密やかな逃避行。夜空を駆け巡る流れ星の輝きすら霞んでしまうほど、二人の時間は淡く、それでいて瞬く間に過ぎ去っていく。
『この時間が、ずっと永遠に続けばいいのに』
まるで静かな童話の一説のように、星に願いを捧げたくなるような愛おしい時間。それはどれだけ時が流れても決して褪せることなく、昇吾の胸の奥深くに鮮明に刻み込まれ、離れることはなかった。




