第29話:『夜を駆ける足音』
画面に躍る「声が聞きたい」の文字。
作り上げたはずの大人の静寂は、彼女の微かな息遣いひとつで綺麗に解け落ちた。
受話器越しに交わす言葉の熱が、俺の足を、心を、二人の未来へと突き動かしていく。
深夜2時半過ぎの静まり返った部屋。
昇吾は溢れ出る衝動を抑えきれず、震える指先で発信ボタンをタップした。
スマホを耳に当て、深く息を吐き出す。
短いコール音が二回鳴り響いたところで、カチリと通話が繋がる音がした。
『……昇吾さん?』
受話器越しに届いたのは、少し縮こまったような、けれどどこか心細そうな彼女の声だった。
店内の喧騒はすでに消え去り、静まり返った控室か帰り道の送りの中にいるのだろう。言葉の端々に、過酷な一日を終えた後の疲弊と、微かな緊張が滲んでいる。
「杏菜……急に電話してごめんね。メッセージ、すごく嬉しかった」
昇吾が静かに語りかけると、受話器の向こうで「ふふ……」と小さく息を漏らす気配がした。
『ううん……私の方こそ、あんな甘えたLINE送っちゃってごめんなさい。でも……昇吾さんの声聴いたら、なんだか急に胸がいっぱいになっちゃって……』
「甘えていいんだよ。ずっと我慢させてたのは俺の方だろ?」
「ううん、違うの」
と、杏菜はすがるような愛おしい声で言葉を重ねてくる。
『私ね……昇吾さんから連絡が来なくなった数日間、すごく怖かったの。私が我ままばかり言って、昇吾さんを疲れさせちゃったのかなって。私、昇吾さんがいないと、自分の心の置き場が分からなくなっちゃうみたい……』
受話器から伝わってくる、甘く切ない吐息。
その言葉ひとつひとつが、昇吾の胸の奥の一番柔らかい場所を容赦なく揺さぶる。
ただの客とキャバ嬢という線を遥かに超えた、生々しく、けれどどこまでも可憐で透明な「信頼」の響き。
「そんなことないよ。俺だって、ずっと杏菜のことばかり考えてた。追うのが負担になるんじゃないかって、勝手に我慢しようとしてただけなんだ」
『……本当? 嫌いになったわけじゃない……?』
「嫌いになれるわけないだろ。……会いたいよ、杏菜」
言葉が途切れ、夜のしじまの中で二人の重い呼吸だけが静かに重なり合う。
ほんの数秒の静寂。受話器の向こうで、杏菜がキュッと身を縮ませるような、衣擦れの音が聞こえた。
『……私も。今すぐ昇吾さんに抱きしめてほしい……っ』
消え入りそうな声で漏らされたその可憐な本音が、昇吾の心に決定的な火をつけた。
「明日の夜、早い時間にお店に行くよ。ゆっくり二人で話そう」
『え……? でも、昇吾さんお仕事あるのに……早い時間から来てくれるの……?』
「仕事はなんとか調整する。杏菜の顔を見て、ちゃんと二人で過ごしたいんだ。明日、待っててくれる?」
『……うん! 待ってる……っ! 昇吾さんと早く会えるなら、私、明日の仕事も全部頑張れる……!』
声のトーンが一瞬で華やぎ、受話器越しでも分かるほどぱっと表情を輝かせた杏菜の気配。
照れくさそうに
「早く明日にならないかな……」
と呟くその愛らしい声に、昇吾の胸は温かい熱で破裂しそうだった。
——翌日の夜。
大宮南銀のネオンが灯り始めた早い時間帯、ビルの前に滑り込んだタクシーから昇吾は飛び降りた。
『Club ETERNAL』の重い扉を押し開けると、店内は開店直後のゆったりとしたラグジュアリーな空気が流れていた。
黒服に案内され、奥の慣れ親しんだボックス席へ腰を下ろす。
テーブルの上には、二人の再会と仲直りを祝うように、アイスペールの中で美しいピンクのボトル——クリュッグのロゼが、氷に包まれて静かに光を反射していた。
数分もしないうちに、奥の控室から足早に駆け寄ってくる影があった。
ドレスの裾を少し持ち上げ、待ちきれないといった様子で小走りにやってくる姿。
昇吾の姿を視界に捉えた瞬間、彼女の瞳にポッと灯りがともり、耳まで真っ赤にして花が綻ぶようなとびきりの笑顔を浮かべた。
「昇吾さん……っ!」
席につくのももどかしそうに、昇吾の目の前に立ち尽くす杏菜。
その瞳には、昨夜の電話で交わした言葉の熱と、ひと目会いたかったという情熱が、隠しようもないほど溢れ出ていた。
数日間作っていた大人の理性も、余白も、すべてが吹き飛んだ。
昇吾は彼女の手を優しく取り、引き寄せるようにソファの隣へと招き入れた。
テーブルの上に置かれたクリュッグ・ロゼの繊細な泡がグラスで静かに立ち上る中、二人の運命が再び重なり合う、濃密な夜の幕が上がろうとしていた。




