第28話:『唯一のヒーロー』
夜の静寂の中で流した涙とともに、俺は彼女を追うことをやめた。
手放したわけでも、冷めたわけでもない。ただ、静かな余白の中で彼女が自分の答えを見つけるのを待とうと決めたのだ。
けれど、その静寂を優しく溶かすように届いた彼女からの温もりは、俺の理性を一瞬で解きほぐしていく。
静まり返った部屋で涙を拭ってから、昇吾の中で何かが静かに澄み渡っていた。
彼女に対する焦燥感や、見返りを求めるような一方的な思いは消えていた。どれだけ振り回されようと、あの夜に分かち合った熱と信頼が真実であったなら、今はただ静かに彼女の歩幅を待てばいい。
昇吾は、日常の距離感をわずかに変化させた。
毎朝決まって送っていた「おはよう、今日も無理しないでね」という気遣いのメッセージを取りやめた。彼女から連絡が来れば穏やかに返すが、自分から追いかけるような言葉や、彼女の動向を探るような質問は一切投げかけない。
突き放すのではない。大人の男としての「静かな余白」を作り、彼女が自らの意志で戻ってこられる場所を保ち続けるための、寛容な引き算だった。
(これでいい。彼女が本当の意味で心を落ち着かせたとき、また笑って会えればそれでいいんだ)
昇吾はそう信じ、自分の時間に没頭しようとしていた。
——だが、その静寂は、意外な形で破られることになる。
大宮の夜の街。『Club ETERNAL』の控室。
スマートフォンの画面を開いた杏菜は、ここ数日、昇吾からの定期的な気遣いメッセージが届いていないことにふと気づいた。
「……昇吾さん」
ぽつりとその名を呟き、胸の奥に小さな寂しさが広がる。いつも当たり前のように自分を包み込んでくれていた昇吾の温かな言葉がないことに気づいた瞬間、彼女の中で彼に対する愛おしさと、頼りたい気持ちが急激に溢れ出していた。
自分を追いかけてもらうことに甘えるのではなく、自分からも素直な気持ちを伝えたい。昇吾さんがくれたあの優しい温もりに、今度は私から甘えたい。
杏菜はドレスの胸元を愛おしそうに整えると、スマートフォンの画面に向かい、溢れるような想いを文字に変えていった。
深夜2時過ぎ。
仕事を終え、自宅で静かにグラスを傾けていた昇吾のスマートフォンが短く震えた。
画面に表示されたのは、数日ぶりとなる「杏菜」からのLINE。
開いた画面に躍っていたのは、画面越しにも息遣いが伝わってくるような、甘く可憐な長文のメッセージだった。
『昇吾さん、お仕事お疲れ様……!
最近なかなかゆっくり連絡できなくて、本当にごめんなさい。昇吾さんに甘えてばかりで、寂しい思いさせてなかったかなって、ずっと気になってて……。
今ね、お店が終わってひと息ついたところなんだけど、ふとした瞬間に昇吾さんの顔が浮かんで、声が聞きたくなっちゃったの。昇吾さんと過ごした時間は2人の宝物、優しく抱きしめてくれた時の体温が、恋しくてたまらないです……。
私ね、やっぱり昇吾さんの前でしか、本当の素直な自分でいられないみたい。
昇吾さんは、私にとって世界で一番大切な、私だけのヒーローだから……。
明日、少しだけでも声聞けたりしないかな……?』
ドクン、と昇吾の胸が大きく跳ね上がった。
数日間かけて築き上げたはずの「静かに待つ」という理性が、その甘く切ない言葉の数々によって一瞬で溶けていく。
画面を見つめる昇吾の脳裏に、あの夜、胸の中で甘えつくしてきた彼女の熱い体温と吐息、そして「昇吾さんは私のヒーローだよ」と耳元で囁かれた甘やかな温もりが、より鮮烈なリアリティをもって甦ってきた。
(彼女も……俺と同じように俺を想い、恋しがってくれていたんだ)
昇吾の手が微かに震える。
彼女が自分を求めている。あの可憐で素朴な彼女が、自分という存在を唯一の心の拠り所として、全身で愛を伝えてきてくれている。
「静かに見守る」という自分自身の決意などどこかへ吹き飛び、昇吾の心は再び、彼女を愛おしく抱きしめたいという激しい愛情と熱情によって満たされていったのだった。




