第20話:『雨の初日と唯一無二の温もり』
雨音だけが響く、静かな夜の始まり。
華やかなイベントの裏側で、本当の想いはたった一人の存在を求めている。
外はしとしとと雨が降り続く月曜日の夜。周年イベントの初日だというのに、店内は人影もまばらで、静かな時間が流れていた。
フロアの奥から現れた杏菜は、体のラインを綺麗に見せる黒いドレスを纏っていた。ずっと昇吾が来るのを信じて待っていたのだろう。彼の姿を捉えた瞬間、パッと花が咲くような満面の笑顔を浮かべて席へと駆け寄ってきた。その無邪気なリアクションだけで、待っていた時間の長さと愛おしさが痛いほど伝わってくる。
「はい、これ。この前のパスタの材料」
昇吾がテーブルに置いた手提げ袋。中には、手に入りにくい芳醇なトリュフオイル、厳選した乾燥ポルチーニ、パスタ。そしてその横には、彼女が大好きな「ちいかわ」のグミがちょこんと添えられている。
「凄い……! こんな本格的なの、わざわざ用意してくれたの……?」
袋の中を覗き込み、子供のように目を輝かせる彼女。その嬉しそうな顔を見つめながら、昇吾はル・レーブ ロゼを注文した。グラスに注がれた綺麗なピンクの泡を掲げ、静かに乾杯を交わす。イベント特有の指定シャン雨音だけが響く、静かな夜の始まり。
華やかなイベントの裏側で、本当の想いはたった一人の存在を求めている。パン、期間中の指名数、売上、出勤日数といった重いノルマ。そのプレッシャーを少しでも軽くしてあげたくて、昇吾は初日のこの時間に駆けつけたのだ。
そこへ、普段は滅多に席につかない店長が挨拶にやってきた。
「一杯お付き合いさせていただいてもいいですか」
と頭を下げる店長に対し、杏菜は誇らしげに胸を張り、昇吾がどれほど素晴らしい人なのかをここぞとばかりに自慢し始めた。誇らしげに目を輝かせる彼女の可愛らしさに、閑散としていた席が一気に華やいでいく。
「……ねえ、昇吾さん。なんで今日来てくれたの?」
ふと、杏菜が不思議そうに、どこか甘えるような上目遣いで尋ねてきた。
「月曜日はそもそも出勤してなかったけど、不動産関係のお客さんが火曜と水曜休みだから、最近は月曜も出るようにしてるんだよね。……イベントって、営業に見えちゃうから避ける人が本当に多いのに」
「映画行こうとか、休みの日に出掛けようとか言ってくる奴は分かってないんだよ。俺が杏菜を好きになるっていうのは、素の杏菜も、お店でお仕事してる杏菜も、全部含めてのことだから」
言葉を一つひとつ確かめるように重ね、昇吾は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「来てほしいなって思ってる日に、当たり前のように一緒に過ごすこと。初日の一番に来ないと、意味がないんだよ」
昇吾の手を握る杏菜の指先に、キュッと愛おしそうな力がこもる。見上げる彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かび、キュンと胸を締め付けられたような表情でぽつりと呟いた。
「……そんな人、昇吾さんしかいないよ」
重なり合った手から伝わる体温と、周囲の視線すら届かない濃厚な甘さ。他人がどれほど調子のいい言葉を並べようと、杏菜の心を根底から満たしているのは昇吾の圧倒的な行動と、包み込むような愛だけだった。
だが、その甘い時間は唐突に終わりを迎える。
「……なんか、急にすごく寒い……」
急に身をすくめ、肩を小さく震わせ始めた杏菜。異変に気づいた昇吾はすぐに黒服を呼び、ブランケットを2枚借りて温かいお茶を用意させた。それでも顔色は急速に蒼白くなり、弱々しく体を丸めていく。
「もう帰ろう。身体が限界だよ」
「……やだ、まだお酒残ってるし……まだ帰らない。黒服さんと話しても大丈夫だから……」
そうやって無理に強がり、まだ一緒にいたいと駄目をこねる姿がたまらなく愛おしい。けれど、昇吾は彼女のグラスに残っていたロゼを一気に飲み干すと、優しく、半ば強制的にその手を引いて席を立った。
「今日はここまで。しっかり休むんだよ」
階段の下まで、トボトボと弱々しい足取りで見送りに来た杏菜。雨の冷気が満ちる夜気の中で、彼女は離れがたそうに、けれど愛おしさをいっぱいに込めて、小さく手を振り続けていた。その守ってあげたくなるような後ろ髪引かれる姿を見届けながら、昇吾は彼女の全回復を祈り、静かに夜の街へと踏み出した。




