第12話:『呼吸するように、ただ深く』
夜の街で生きる女性を愛するということ。
それは軽やかな恋心などではなく、彼女が背負う十字架ごと人生を抱えるような、静かで強靭な覚悟を必要とするものだった。
なぜ数多の女性の中で、杏菜でなければならなかったのか。
夜の不夜城で完璧を演じながらも、己のプライドと孤独を抱えて必死に咲こうとするその姿、そして自分の前だけで見せる愛くるしい素顔に魅せられた昇吾。
直接言葉には出さずとも胸の奥で満ちていく熱情を、実在のLINEのやり取りと至高の比喩表現とともに描く、昇吾視点の物語。
深夜の冷たい雨が、歓楽街のアスファルトを静かに濡らし、街のネオンを鈍く反射させていた。
車のシートに深く背を預け、静かに夜の街を見つめる。フロントガラスを伝う雨滴が、街の灯りを滲ませていた。
夜の街で生きるトップキャストを好きになる——。
その意味の深さを、昇吾は自らの男としての本能で深く噛み締めていた。
世間の男たちは、金や見栄というメッキで彼女たちの周りを飾り立て、都合の良い幻想を買い求めようとする。そして、少しの態度に一喜一憂しては勝手に傷つき、去っていく。だが、昇吾の美学はそんな浅い次元には存在しない。
夜の世界で生きる人間を本気で愛するということは、優しさや甘さだけでは到底成立しない。彼女の纏う孤独や、決して他人には見せない傷跡のすべてを自分の人生の重みとして引き受ける、そんな不可避の覚悟を静かに強いるものだった。
なぜ、数多の女性の中で杏菜でなければならなかったのか。
その理由の原点は、夜の不夜城で「完璧なキャスト」として気高く咲き誇りながらも、昇吾の前でだけ魅せる、たまらなく愛くるしい素顔にあった。
数字と歓声が飛び交う殺伐とした現場で、ナンバーワンの重圧を背負いながら健気に踏ん張るプロ意識。それでいて、どれほど酔いが回ってもヘルプの残したグラスを黙って綺麗に飲み干すような、まっすぐで誠実な人間性。
己のプライドと孤独を抱えて必死に咲こうとするその姿は、痛切に美しかった。
そして、そんな凛とした誇りを持ちながら、昇吾の隣にいるときだけは、まるで小さな子供のように肩の力を抜き、無防備で愛くるしい笑顔を見せてくる。
強がりの裏にある繊細さ、少し照れ屋で不器用な性格、そして昇吾を真っ直ぐに頼ってくれる健気さ。そのギャップと純粋な可愛さに、昇吾の心はたまらなく揺さぶられ、心を奪われてしまったのだ。
彼女の放つプロとしての光も、自分にだけ差し出してくれる愛くるしい影も。そのすべてを理解しているからこそ、昇吾の愛は単なる独占欲ではなく、彼女の人生ごと優しく包み込む重厚な覚悟へと昇華していた。そして確実なことがもう一つ、世界のどこ探してもいない、こんないい女に出会うことは。誓って一生で1度きりの神様からのプレゼントということだ。
手元で小さく震えたスマートフォンを開く。画面には、彼女から届いたメッセージが浮かんでいた。
『昇吾さんありがとう』
『昇吾さんに新しいドレス姿見せたくて2着新しいの買ったよ』
『来週には届くかな』
『月曜日に会ったばかりなのにもう会いたいね』
「昇吾さんに見せたくて」という、飾りのない言葉。
何十万円ものシャンパンの気泡よりも、100万円のブランドバッグの輝きよりも、彼女にとっては昇吾がふと見せた日常の優しさや一言のほうが、遥かに胸を打つ「本物の宝物」なのだ。
先日の夜、店のルールという無機質な境界線を自ら踏み越え、地下から地上へと続く階段を登り切って昇吾の姿が見えなくなるまで見つめ続けていた杏菜の佇まい。
あの冷たい夜気の中でただ佇んでいた彼女の瞳は、まるで荒野で一羽の鳥がただ一人の主人をどこまでも追い続けるような、透明で狂おしいほどの情情に満ちていた。
言葉にして甘やかすのは易い。だが、男の本当の深みとは、直接触れない場所でどれだけ相手の魂を抱きしめられるかにある。
画面に指を滑らせ、言葉を紡いでいく。
「杏菜お疲れ様」
「ドレス2着買ったの?」
「見たいけど」
「来週までは待てそうにないな」
「うん呼吸するように会いたいと思ってるよ」
送信ボタンを押し、再び車窓の外のネオンに目をやる。
「呼吸するように会いたい」——
生きるために肺が空気を求め、脈拍が絶え間なく血を送り続けるように。意識すら挟まず、当たり前に、そして抗いようのない本能。
そのレベルで、日常の当たり前の無意識に存在している杏菜の存在。
夜の街がどれほど虚飾と計算で塗り固められていようと、二人の間で通わせている温度だけは、誰にも汚せない絶対の真実だった。
彼女が自分を選び、自分が彼女のすべてを背負う。
雨の音に包まれた静寂の中で、深く温かい愛しさとともに、昇吾は静かに息を吐き出した。




