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憑いてる。  作者: 受験孔明
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80/82

第80話 憑いてる。

80話 憑いてる。


 朝が来ていた。


 東京駅の天井に、柔らかい光が差し込んでいる。


 人が歩いている。


 スーツ姿の大人。


 旅行鞄を引く親子。


 眠そうな学生。


 駅員の声。


 始発のアナウンス。


 もう誰も止まっていない。


 世界は動いていた。


 将太はしばらく、その光景を見ていた。


 本当に普通だった。


 あまりにも普通で。


 少しだけ怖かった。


 さっきまで白い駅だった場所。


 ダンニュクが現れた場所。


 白石灯の名前を呼んだ場所。


 そこを、何も知らない人々が当たり前のように歩いている。


 世界は簡単に戻る。


 だが、戻らないものもある。


 将太の中に、白石灯という名前が残っていた。


 七年前、東京駅で消えた子。


 一人目と呼ばれていた存在。


 役割に閉じ込められていた名前。


 その名前は、もう空白ではなかった。


「将太くん」


 声。


 真心だった。


 隣に立っている。


 顔色は悪い。


 目は赤い。


 だが、ちゃんとそこにいる。


 足元には薄い影があった。


 頼りない。


 まだ少し揺れている。


 けれど、真心の影だった。


「帰ろう」


 真心が言った。


「ああ」


 将太は頷いた。


 少し離れた場所で、心陽が自分の足元を見ていた。


 影がある。


 薄いが、ちゃんとある。


 心陽は何度もそれを確認している。


 天堂がその様子を見て、軽く笑った。


「影確認しすぎだろ」


 心陽はむっとした顔で睨む。


「うるさい」


「戻った証拠だな」


 天堂が言うと、心陽は少しだけ黙った。


 そして、小さく笑った。


「うん」


 悠真は駅の柱にもたれ、静かにノートを閉じた。


「帰ったら説明が面倒だな」


「そこかよ」


 天堂が呆れる。


「現実的な問題だ」


 悠真は淡々と言う。


「夜に中学生が東京駅にいた理由を、どう処理するか」


「知らん。奇跡で帰ったって言え」


「余計にまずい」


 その会話を聞いて、将太は少しだけ笑った。


 普通の会話。


 ばかみたいな会話。


 それが、妙にありがたかった。


 リンは少し離れた場所に立っていた。


 首筋を何度も触っている。


 黒い文字はもうない。


『見つけた』


 その印は消えた。


 リンは、まだ信じられないような顔をしている。


「リン」


 将太が呼ぶと、リンは顔を上げた。


「何だ」


「帰るのか」


 リンは少し考える。


「多分な」


「上海に?」


「ああ」


 そう答えた後、リンは少しだけ笑った。


「でも、その前に少し寝たい」


 天堂が鼻で笑う。


「普通だな」


「俺は普通だ」


「どこが」


 リンは肩をすくめた。


 その顔に、初めて年相応の疲れが見えた。


 生き残り。


 観測者。


 案内役。


 そんな役割が少しずつ剥がれて、ただのリンに戻っているようだった。


 将太はそれを見て、少し安心した。


 その時。


 背後に気配が立った。


 三成だった。


 いつものように腕を組み、少し皮肉っぽい顔をしている。


『終わったな』


「お前、さっきもそれ言ったぞ」


『何度言ってもよかろう』


「似合わない」


 三成は小さく笑った。


『では言い方を変えよう』


「何だよ」


『一区切りだ』


 将太は頷いた。


「そうだな」


 全部が終わったわけではない。


 ダンニュクが完全に消えたわけではない。


 観測という仕組みが消えたわけでもない。


 分霊たちもまだいる。


 孔明も。


 信長も。


 三成も。


 そして、将太自身の空席も。


 けれど、一つは終わった。


 心陽は二人目にならなかった。


 真心は空白に落ちなかった。


 白石灯は名前を取り戻した。


 リンは生き残りという役割から少しだけ解放された。


 それだけで、十分だった。


 ふと、悠真の背後に孔明の分霊が見えた。


 静かに立っている。


 羽扇を持ち、いつものように何もかも読んでいるような顔で。


 だが、今は少し違って見えた。


 人を操る存在ではない。


 悠真に憑いているもの。


 悠真が背負っているもの。


 知恵。


 冷静さ。


 戦場を見る目。


 その欠片。


 天堂の背後には信長がいた。


 相変わらず圧が強い。


 だが、天堂本人も負けていない。


 信長に憑かれているのではない。


 信長を背負ってもなお、自分の足で立っている。


 心陽の足元には影が戻った。


 真心にも影が戻った。


 リンの首には文字がない。


 そして将太の足元にも影がある。


 少し歪んでいる。


 少しだけ、誰かの輪郭を含んでいる。


 白石灯。


 その名前を思い出すと、胸が痛む。


 だが、もう空白ではない。


 痛みごと、名前が残っている。


『将太』


 三成が言った。


『お前は勘違いしていたな』


「何を」


『憑くということを』


 将太は三成を見る。


『憑くとは、支配することではない』


 三成は東京駅の人混みを見る。


『残ることだ』


 将太は黙った。


『誰かの中に』


『名前として』


『記憶として』


『癖として』


『傷として』


『誇りとして』


『悔いとして』


『それでも残る』


 三成の声は珍しく静かだった。


『それを人は、時に憑いていると言う』


 将太は息を止めた。


 憑いている。


 第一話からずっと、この世界の異常を示す言葉だった。


 強い人間には何かが憑いている。


 天才には軍師が。


 カリスマには魔王が。


 勝者には英雄が。


 敗者には亡霊が。


 そう思っていた。


 だが違った。


 憑いているのは、歴史上の偉人だけではない。


 誰かに言われた言葉。


 忘れられない後悔。


 守れなかった手。


 呼べなかった名前。


 それらもまた、人に憑く。


 白石灯は、将太に憑いている。


 呪いとしてではない。


 忘れないために。


 真心もまた、将太に残っている。


 七年前の真実として。


 心陽の名前も。


 リンの声も。


 悠真や天堂と見た東京駅も。


 全部、将太の中に残っている。


 将太は足元の影を見る。


「空席ってさ」


 三成が横目で見る。


「何もない場所じゃなかったんだな」


『今さらか』


「うるさい」


 将太は小さく笑った。


「誰にも座らせないための場所」


『そうだ』


「でも、名前は残せる」


 三成は答えなかった。


 だが、その沈黙は肯定だった。


 将太は真心を見た。


「田中」


 真心が顔を上げる。


「何?」


「灯のこと」


 真心の表情が揺れる。


「忘れない」


 真心は唇を噛む。


 そして、小さく頷いた。


「うん」


「お前のことも」


 真心の目が少しだけ大きくなる。


「忘れない」


 真心は泣きそうな顔で笑った。


「忘れたら怒る」


「覚えとく」


「それ、忘れそうな言い方」


「うるさい」


 心陽が近づいてくる。


「ねえ」


「何だ」


「私のことも忘れないでよ」


 将太は少し困る。


「忘れないだろ」


「本当に?」


「さっきあんな大騒ぎしたんだから忘れようがない」


 心陽は少しだけ笑った。


「ならいい」


 その笑顔は、以前より少し弱かった。


 けれど、それでよかった。


 完璧な笑顔ではない。


 見られるための笑顔ではない。


 如月心陽本人の笑顔だった。


 悠真が言う。


「そろそろ戻るぞ」


「どうやって?」


 天堂が聞く。


 リンが東京駅の改札の方を見る。


「普通に帰ればいい」


「普通に?」


「もう白い駅は閉じた」


 リンはそう言った。


「ここは現実の東京駅だ」


 将太は周囲を見る。


 本当に現実なのか。


 まだ少し信じられない。


 だが、人々は普通に歩いている。


 誰も将太たちを見ていない。


 観測者たちもいない。


 ダンニュクもいない。


 白い駅もない。


 あるのは、朝の東京駅だけだった。


「帰ろう」


 悠真がもう一度言った。


 将太は頷く。


 その時だった。


 ポケットの中でスマホが震えた。


 将太は取り出す。


 通知。


 差出人不明。


 一瞬、背筋が冷えた。


 画面には、一行だけ表示されていた。


『観測保留』


 将太は息を止める。


 続けて、もう一行。


『空席、未着席』


 それだけだった。


 将太はしばらく画面を見つめた。


 そして、スマホをしまった。


「何だった?」


 天堂が聞く。


「何でもない」


「嘘くせぇ」


「うるさい」


 将太は歩き出す。


 保留。


 未着席。


 つまり、終わってはいない。


 でも、それでいい。


 今すぐ全部を終わらせる必要はない。


 空席は空席のまま残す。


 誰かが勝手に座らないように。


 誰かが勝手に誰かの代わりにならないように。


 そのための場所として。


 東京駅の出口へ向かう途中、将太は一度だけ振り返った。


 時計の下。


 七年前、幼い自分と真心と灯が立っていた場所。


 今は誰もいない。


 けれど。


 将太には、そこに三人の子どもが並んでいるように見えた。


 幼い将太。


 幼い真心。


 そして、白石灯。


 三人は手を繋いでいた。


 灯がこちらを見て、小さく笑った気がした。


 次の瞬間には、もう何もなかった。


 将太は前を向く。


 真心が隣にいる。


 心陽が少し後ろにいる。


 悠真と天堂が歩いている。


 リンが遠くで手を振った。


 三成の気配が、背後にある。


 孔明も。


 信長も。


 それぞれの場所にいる。


 誰も完全には一人ではない。


 誰の後ろにも、何かがある。


 記憶。


 名前。


 影。


 言葉。


 後悔。


 願い。


 分霊。


 それらを背負って、人は歩いている。


 将太は小さく息を吐いた。


 そして、思った。


 人には、何かが憑いている。


 それは呪いかもしれない。


 力かもしれない。


 傷かもしれない。


 名前かもしれない。


 けれど、それを全部消してしまったら、人は自分が誰なのか分からなくなる。


 だから。


 忘れない。


 呼ぶ。


 名前で。


 役割ではなく。


 影ではなく。


 本人の名前で。


 将太は東京駅の出口へ向かって歩いた。


 朝の光が差し込んでいる。


 世界は動いている。


 受験も。


 日常も。


 これからの人生も。


 何も終わっていない。


 けれど、確かに一つの夜は終わった。


 真心が隣で言う。


「将太くん」


「何だよ」


「帰ったら、ちゃんと勉強しないとね」


 将太は顔をしかめる。


「この流れでそれ言うか」


「だって、模試近いし」


 心陽が後ろから笑う。


「現実に戻された感じする」


 天堂が大きく伸びをする。


「俺、今日絶対寝るわ」


 悠真が即座に言う。


「寝るな。授業がある」


「鬼かよ」


 そのやり取りに、真心が笑った。


 心陽も笑った。


 将太も、少しだけ笑った。


 その時。


 足元の影が、朝の光の中で揺れた。


 けれど、もう怖くなかった。


 将太は自分の影を見下ろす。


「行くぞ」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 三成か。


 灯か。


 自分自身か。


 あるいは、空席に向けてか。


 影は何も答えない。


 ただ、将太の足元にあった。


 ちゃんと。


 そこに。


 東京駅を出ると、冬の空が高かった。


 白い駅の雪とは違う。


 現実の、冷たい朝の空。


 将太はその空を見上げた。


 どこかで、まだ誰かが見ている気がした。


 でも、今はそれでいい。


 見られているなら。


 こちらも見返せばいい。


 観測されるだけではなく。


 自分も、世界を見る。


 そして、名前を呼ぶ。


 将太は歩き出した。


 空席のまま。


 けれど、もう空っぽではなかった。


 白石灯。


 田中真心。


 如月心陽。


 森岡悠真。


 天堂。


 リン。


 三成。


 孔明。


 信長。


 その名前たちが、自分の中に残っている。


 憑いている。


 将太は小さく笑った。


 そして、朝の光の中へ進んでいった。


 憑いてる。

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