エピローグ
エピローグ
翌日。
塾の教室は、いつも通りだった。
冬期講習。
模試直前。
張り詰めた空気。
問題集。
過去問。
シャープペンの音。
講師の声。
誰も昨日の東京駅を知らない。
誰も白い駅を知らない。
誰もダンニュクを知らない。
世界は、何事もなかったように動いていた。
将太は自分の席に座り、数学の問題集を開いていた。
だが、最初の一問を読む前に、つい足元を見る。
影がある。
ちゃんとある。
少しだけ歪んでいる気もする。
でも、自分の影だった。
『いちいち確認するな』
三成の声がした。
「うるさい」
『戻ったのだろう』
「分かってる」
『なら問題を解け』
「お前、急に現実的だな」
『戦も受験も、準備を怠った者から死ぬ』
「言い方」
将太は小さく息を吐き、問題集へ視線を落とした。
だが、集中する前に、前方で声がした。
「綾小路くん」
心陽だった。
振り返ると、心陽が少し困ったように笑っていた。
「何?」
「いや、別に」
「別にで呼ばないでしょ」
心陽は少し迷ってから、小さく言った。
「影、ある?」
将太は一瞬だけ固まった。
それから心陽の足元を見る。
影がある。
薄くはない。
遅れてもいない。
心陽本人の足元に、きちんと落ちている。
「ああ」
将太は答えた。
「ある」
心陽はほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
「毎朝確認してるのか」
「悪い?」
「悪くない」
将太がそう言うと、心陽は少しだけ笑った。
その笑顔は、以前より少し弱い。
でも、以前より本物に見えた。
「私さ」
心陽は言った。
「まだ、ちょっと怖い」
「何が」
「また、自分じゃなくなるんじゃないかって」
将太は黙った。
簡単に大丈夫とは言えなかった。
それはたぶん、心陽が一番聞きたくない言葉だ。
だから、将太は少し考えてから言った。
「怖くなったら、自分の名前を呼べばいい」
「自分で?」
「ああ」
「変じゃない?」
「昨日の俺たちに比べたら、何も変じゃない」
心陽は吹き出した。
「それはそう」
少し離れた席で、天堂が机に突っ伏していた。
「お前ら、朝から重い話してんな」
眠そうな声だった。
悠真が隣から淡々と言う。
「寝るな」
「寝てない」
「寝ている」
「目を閉じて考えてるだけだ」
「その状態を睡眠という」
天堂は顔だけ上げて、悠真を睨んだ。
「お前、昨日の後でも通常運転かよ」
「昨日の後だからこそだ」
悠真は問題集を開く。
「現実に戻ったなら、現実の問題を解く」
将太はその言葉を聞いて、妙に納得した。
白い駅があっても。
ダンニュクがいても。
名前を失った子がいても。
模試は来る。
受験も来る。
日常は待ってくれない。
それは冷たいようで、少し救いでもあった。
教室の扉が開いた。
真心だった。
将太は自然とそちらを見る。
真心はいつも通り静かに入ってくる。
席に向かう。
問題集を置く。
シャープペンを出す。
ただ、それだけ。
だが、昨日までとは違う。
足元に影があった。
薄く、淡く、頼りない影。
それでも確かに、真心の足元に落ちている。
真心がふと顔を上げた。
将太と目が合う。
何も言わない。
将太も何も言わない。
だが、それで十分だった。
田中真心。
忘れない。
将太は心の中で、その名前を呼んだ。
真心は小さく笑った。
まるで、それが聞こえたように。
授業が始まった。
講師が黒板に問題を書く。
「今日は、条件整理の問題です」
将太は思わず苦笑した。
条件整理。
今の自分たちには、嫌というほど必要な言葉だった。
講師は続ける。
「見えている情報に飛びつかないこと。書かれていない条件を拾うこと。順番を間違えないこと」
将太はシャープペンを止めた。
悠真も、わずかに顔を上げた。
天堂も、寝たふりをやめた。
心陽は苦笑している。
真心は静かにノートを見ていた。
順番を間違えないこと。
光。
空白。
忘れていた名前。
その順番で、自分たちは戻ってきた。
将太はノートの端に、小さく名前を書いた。
如月心陽。
田中真心。
白石灯。
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
だが、もう空白ではない。
名前は、そこにある。
授業が進む。
問題を解く。
間違える。
解き直す。
当たり前の時間が流れていく。
昼休み。
将太は廊下の窓から外を見ていた。
冬の空。
白く高い空。
その向こうに、白い駅があるような気がした。
だが、見えない。
見えなくていい。
今は。
「将太くん」
真心が隣に来た。
「何だ」
「灯のこと」
将太は黙る。
「忘れてない?」
「昨日の今日で忘れるかよ」
「将太くんだから」
「どういう意味だ」
真心は少しだけ笑った。
それから、窓の外を見る。
「私、まだ全部受け止めきれてない」
「だろうな」
「自分がしたことも」
「覚えていたことも」
「忘れたかったことも」
「全部、一気に戻ってきたから」
将太は何も言わなかった。
真心は続ける。
「でも、影がある」
足元を見る。
「だから、たぶん大丈夫」
「たぶんかよ」
「断言するのは怖い」
その正直さに、将太は少しだけ笑った。
「じゃあ、たぶん大丈夫だ」
「うん」
真心は頷いた。
その時、心陽が廊下の向こうから手を振った。
「二人とも、先生呼んでるよ」
「何で?」
将太が聞くと、心陽は肩をすくめる。
「小テストの点、悪かった人」
「……マジか」
真心が小さく笑う。
「現実だね」
「現実すぎる」
二人は教室へ戻った。
夕方。
塾が終わる頃には、空が赤く染まっていた。
駅前広場。
将太たちは自然と足を止めた。
あのベンチがある。
白いノートが置かれていた場所。
真心の名前が書かれていた場所。
リンの警告が現れた場所。
今は何もない。
ただのベンチだった。
「何もないな」
天堂が言う。
「何もない方がいい」
悠真が答える。
その時、背後から声がした。
「そうでもない」
振り返る。
リンだった。
将太は目を見開く。
「お前、上海に帰ったんじゃ」
「まだ帰ってない」
「何してんだよ」
「見送り」
リンは軽く笑った。
「それと、確認」
「何の」
「本当に名前が残っているか」
将太は少し黙り、言った。
「白石灯」
その名前を口にした瞬間、冬の風が吹いた。
ベンチの上に、白い光がほんの一瞬だけ揺れた。
誰かが座っていたような気配。
だが、すぐに消えた。
リンはそれを見て、静かに頷いた。
「残ってるな」
「ああ」
「なら大丈夫だ」
リンはそう言って、背を向ける。
「また会うのか」
将太が聞く。
リンは振り返らずに言った。
「会わない方がいい」
「そういうこと言う奴は、だいたいまた出てくる」
天堂が言う。
リンは少しだけ笑った。
「かもな」
そして、人混みの中へ消えていった。
今度は、消えたのではない。
ただ、歩いて去っていった。
それだけだった。
夜。
将太は自室で机に向かっていた。
問題集を開く。
ノートを出す。
シャープペンを握る。
普通の夜。
だが、ページの端に、薄い文字が浮かんでいた。
『観測保留』
『空席、未着席』
将太はしばらくそれを見ていた。
そして、消しゴムで消そうとした。
だが、消えない。
「しつこいな」
『世界とはそういうものだ』
三成が言った。
「お前も大概しつこい」
『私は見届けると言った』
「いつまで」
『さあな』
将太はため息をつく。
それから、ノートの別の場所に名前を書いた。
白石灯。
田中真心。
如月心陽。
森岡悠真。
天堂。
リン。
書いてから、少し迷って、石田三成も書いた。
『なぜ私の名を書く』
「忘れないため」
『私は忘れられるほど軽くない』
「はいはい」
将太はさらに、諸葛亮孔明、織田信長、と書いた。
名前が並ぶ。
重い。
けれど、嫌ではない。
将太は最後に、自分の名前を書いた。
綾小路将太。
その下に、小さく書き足す。
空席。
少し考えて、さらにその横に書いた。
未着席。
誰にも座らせない。
それを見て、三成が小さく笑った。
『少しは分かってきたようだな』
「うるさい」
将太はノートを閉じた。
眠気が来ていた。
久しぶりに、まともに眠れそうな気がした。
ベッドに入る。
部屋の明かりを消す。
暗闇。
天井。
静かな夜。
目を閉じる直前、将太はふと思った。
誰かに憑かれているというのは、怖いことだと思っていた。
自分の後ろに、何かがいる。
自分ではないものが、自分に影響している。
それは不気味で、危険で、逃げたいことだった。
でも、今は少し違う。
人は、誰かの言葉に憑かれている。
誰かの名前に憑かれている。
誰かとの記憶に憑かれている。
後悔にも。
願いにも。
約束にも。
それらが全部、今の自分を作っている。
なら、憑いていることは、悪いことだけではない。
忘れないということでもある。
将太は目を閉じた。
夢を見た。
白い駅。
だが、もう怖くない。
ホームの端に、白石灯が立っていた。
灯は手を振っている。
隣には、幼い真心がいた。
幼い将太もいた。
三人は笑っていた。
雪は降っていない。
白い駅は、ただ静かだった。
灯が口を動かす。
声は聞こえない。
だが、意味は分かった。
――忘れないでね。
将太は夢の中で頷いた。
忘れない。
次に目を覚ました時、朝だった。
窓の外は明るい。
現実の朝。
学校へ行く時間。
塾へ行く時間。
模試が近い。
受験も近い。
世界の観測よりも、まず目の前の問題集。
将太は起き上がった。
机の上のノートを見る。
昨日書いた名前が、そのまま残っている。
白石灯。
田中真心。
如月心陽。
そして、綾小路将太。
将太は小さく息を吐いた。
「行くか」
三成の声がした。
『遅れるぞ』
「分かってる」
鞄を持つ。
部屋を出る。
階段を降りる。
玄関で靴を履く。
ドアを開ける。
冬の空気が頬に触れた。
冷たい。
だが、ちゃんと現実の冷たさだった。
将太は外へ出る。
足元に影が伸びる。
その影は、朝の光の中で静かに揺れていた。
もう怖くない。
将太は歩き出した。
空席のまま。
けれど、空っぽではないまま。
その背中には、誰にも見えないものがいくつも残っている。
名前。
記憶。
後悔。
約束。
そして、見届ける者。
将太は少しだけ振り返る。
誰もいない。
だが、確かにいる。
そう思った。
将太は前を向いた。
今日も世界は動いている。
そして人は、何かを背負って歩いている。
憑いてる。
その言葉が、もう怖くはなかった。




