第8話 選ばれる者
# 第八話 選ばれる者
白い列車が霧の向こうへ消えていく。
音はなかった。
レールを走る音も。
発車ベルも。
風を切る音さえ聞こえない。
将太はホームに立ち尽くしていた。
読めない駅名標。
白い霧。
どこまでも続く静寂。
列車が見えなくなっても、その場から動くことができなかった。
ふいに、背後で足音がした。
コツ。
コツ。
ゆっくりと近づいてくる。
将太は振り返る。
白い少年だった。
少年は何も言わない。
ただ将太の前まで来ると、小さく右手を差し出した。
将太はその手を見つめる。
「……帰れるのか?」
少年は答えない。
静かな笑みを浮かべたまま、将太を見つめている。
その瞳には、不思議と恐怖はなかった。
あるのは、どこか懐かしい温かさだけだった。
将太はゆっくりと手を伸ばす。
指先が触れた、その瞬間――。
世界が白く弾けた。
◇
ガタン。
大きな音に、将太は飛び起きた。
見慣れた天井だった。
自分の部屋。
机。
本棚。
壁に掛かった制服。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
「……夢?」
息が荒い。
心臓だけがまだ白い駅に置き去りになっているようだった。
枕元の時計を見る。
午前六時三十二分。
いつもの時間。
いつもの朝。
「……だよな。」
力が抜ける。
夢だった。
そう思いながら制服を手に取る。
昨日の制服だった。
胸ポケットが少し膨らんでいる。
「……?」
中へ手を入れる。
指先が紙に触れた。
白い紙。
昨日、入れた覚えはない。
ゆっくり広げる。
何も書かれていない。
真っ白だった。
「何だ、これ。」
その瞬間。
紙の中央へ黒い染みがにじみ始めた。
インクではない。
墨でもない。
生き物のように文字が浮かび上がってくる。
将太は息をのんだ。
やがて、一行だけ文字が現れる。
**――まだ振り返るな。**
将太の背筋を冷たいものが走った。
「将太ー!」
一階から母・康子の声が聞こえる。
「朝ご飯よ!」
「……あ、うん!」
慌てて返事をする。
もう一度紙を見る。
文字は消えていなかった。
確かにそこに書かれている。
夢じゃない。
白い駅も。
白い列車も。
全部、本当にあった。
将太は紙をそっと制服の胸ポケットへ戻した。
誰にも見せてはいけない。
そんな気がした。
校門をくぐると、いつもの朝が広がっていた。
グラウンドではサッカー部が声を張り上げている。
校舎の窓からは吹奏楽部の音合わせが聞こえる。
友達同士が笑いながら教室へ向かっていく。
昨日までと、何一つ変わらない。
「将太!」
来海が後ろから駆け寄ってきた。
「おはよ!」
「おう。」
「元気なくね?」
「ちょっと寝不足。」
「また夜更かし?」
「まあ、そんな感じ。」
「ゲーム?」
「動画。」
「ほどほどにしとけよ。」
「分かってる。」
笑って返す。
嘘ではない。
でも、本当でもなかった。
昨日のことを話したところで、信じてもらえるはずがない。
教室へ入る。
友達が宿題を写している。
誰かが昨日の模試の答え合わせをしている。
黒板には今日の日直の名前。
すべてが、いつもの朝だった。
将太は自分の席へ座る。
胸ポケットの上から、そっと白い紙に触れた。
まだ入っている。
夢ではない。
ホームルーム開始のチャイムが鳴る。
担任が教室へ入ってきた。
「はい、席につけー。」
教室が少しずつ静かになる。
出席簿が開かれる。
その時だった。
胸ポケットが、じわりと熱くなる。
将太は小さく息をのんだ。
熱は一瞬で消えた。
代わりに、頭の奥で昨日見た文字が浮かぶ。
**――まだ振り返るな。**
理由は分からない。
それでも、振り返ってはいけない。
そんな確信だけがあった。
「綾小路。」
担任が名前を呼ぶ。
「……はい。」
「聞いてるか?」
「聞いてます。」
「じゃあ、このプリント後ろへ回して。」
「あ、はい。」
教室に小さな笑いが起こる。
将太も照れ笑いを浮かべながらプリントを回す。
その時だった。
プリントを受け取った女子が、一瞬だけ将太の肩越しを見た。
「あれ?」
小さく首をかしげる。
「どうした?」
隣の友達が聞く。
「いや……何でもない。」
女子はすぐ前を向いた。
将太の鼓動が速くなる。
今、何を見た?
いや。
見えたわけじゃない。
「何かいる気がした。」
そんな顔だった。
将太は奥歯を噛む。
振り返るな。
振り返るな。
頭の中で、その言葉だけが何度も繰り返される。
ホームルームが終わる。
一時間目の準備が始まる。
椅子を引く音。
教科書を取り出す音。
笑い声。
その全部が、少しずつ遠く聞こえてきた。
将太は机の下で拳を握る。
自分のすぐ後ろに、誰かが立っている。
そんな気配だけが、はっきりと伝わってきた。
振り返れば確かめられる。
でも――。
振り返ってはいけない。
将太は黒板だけを見つめ続けた。
放課後。
将太はリュックを肩に掛け、校門を出た。
来海たちは部活へ向かっている。
「将太、今日は塾?」
「うん。」
「また模試の復習?」
「たぶん。」
「大変やな。」
「まあね。」
軽く手を振り、駅へ向かう。
昨日と同じ道。
昨日と同じ景色。
それでも胸の奥は落ち着かなかった。
制服の胸ポケットに触れる。
白い紙は、まだそこにある。
『まだ振り返るな。』
その一文だけは消えていなかった。
駅前の交差点。
信号が青へ変わる。
待っていた人たちが一斉に歩き始めた。
その時だった。
「きゃっ!」
小さな悲鳴が聞こえた。
ランドセルを背負った女の子が、人混みの中で転んでいた。
弾かれたように帽子が転がる。
前から右折車が近づいてくる。
運転手はまだ気づいていない。
将太は考えなかった。
身体が先に動いていた。
「危ない!」
女の子の腕をつかみ、そのまま歩道へ飛び込む。
キィィィッ――!
タイヤが路面を擦る音。
車は将太たちの目の前で止まった。
一瞬の静寂。
すぐに周囲がざわめき始める。
「大丈夫!?」
「危なかった……。」
女の子の母親が駆け寄り、何度も頭を下げる。
「ありがとうございました、本当に……。」
「大丈夫です。」
将太は照れくさそうに笑った。
「ケガない?」
女の子は涙を拭きながら、小さくうなずく。
その瞬間だった。
世界から音が消えた。
車のエンジン音。
信号機の電子音。
人々の話し声。
すべてが、すっと消える。
将太はゆっくり顔を上げた。
止まっている。
車も。
人も。
風に揺れていた街路樹の葉まで、空中で静止していた。
「……またか。」
今度は驚かなかった。
止まった世界。
白い駅とは違う。
ここは現実の街のままだ。
ただ、時間だけが止まっている。
コツ。
コツ。
静かな足音が響く。
将太は音のする方を見る。
横断歩道の向こう。
黒い影が立っていた。
人の形をしている。
だが輪郭は揺らぎ、顔は見えない。
影はゆっくり歩き出す。
一歩。
また一歩。
急がない。
将太だけを見つめながら、静かに近づいてくる。
胸ポケットが熱くなる。
将太は反射的に紙を握った。
頭の中へ、あの文字が浮かぶ。
**――まだ振り返るな。**
振り返る……?
今は正面を向いている。
意味が分からない。
それでも、紙は熱を帯び続けていた。
黒い影は将太から数歩離れた場所で止まる。
動かない。
何も話さない。
ただ見つめている。
将太も見返した。
怖い。
それなのに、不思議だった。
初めて会うはずなのに。
どこかで知っているような気がした。
その時。
黒い影が、ゆっくりと右手を上げる。
招くようにも。
制するようにも見える動きだった。
次の瞬間。
クラクションが鳴り響く。
世界が、一斉に動き出した。
「お兄ちゃん?」
女の子が心配そうに将太を見上げている。
「あ……ああ、大丈夫。」
将太は慌てて辺りを見回す。
人が歩いている。
車が走っている。
信号も変わる。
さっきまでの静寂が嘘だったように、街はいつもの夕方へ戻っていた。
黒い影は、もういない。
将太は胸ポケットから白い紙を取り出す。
そこには、新しい文字が浮かび始めていた。
ゆっくりと。
墨がにじむように。
将太は息を止める。
やがて現れたのは、たった一行。
**――次は、お前が選ぶ。**
その文字を見つめたまま、将太は立ち尽くしていた。




