表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

第8話 敗者側

第八話 敗者側


 放課後。


 将太は一人で歩いていた。


 夕方の街。


 自転車のブレーキ音。

 スーパーの袋を下げた主婦。

 部活帰りの中学生。

 駅へ向かう会社員。

 遠くを走るバス。


 普通の景色。


 普通の福岡の夕方。


 なのに、将太にはもう、全部が少し違って見えた。


 人の背後に、薄い影がある。


 濃いものもあれば、今にも消えそうなものもある。

 名を持つものもあれば、ただの気配にしか見えないものもある。


 通り過ぎる人たちの後ろに、それぞれ別の重さが揺れている。


 父の言葉が、頭から離れなかった。


『……まだいるのか』


 あれは何だったのか。


 なぜ父は、三成のいる方向を見たのか。


 父は本当に三成を知らないのか。


 それとも、知らないことにしたかっただけなのか。


 将太はポケットに手を突っ込み、歩きながら言った。


「なあ」


 三成は電柱の横に立っていた。


『何だ』


「父さんと、何かあったのか」


 三成は答えなかった。


 珍しかった。


 いつもなら、皮肉の一つでも返すのに。


「昔、父さんも見えてたのか?」


 沈黙。


 夕方の風が、通学路の端に落ちた枯れ葉を転がす。


 将太は少し苛立った。


「何とか言えよ」


 三成は空を見たまま、小さく呟いた。


『少し似ていた』


「え?」


『お前にな』


 将太は眉をひそめる。


 三成は続けた。


『だが、違った』


「何が」


『泰之は、戻った』


「戻った?」


『普通へ』


 将太は言葉を失った。


 父の顔を思い出す。


 静かな人。

 怒鳴らない人。

 余計なことを言わない人。

 どこにでもいそうな会社員。


 だが、昨日の父は確かに何かを知っていた。


 見える世界の入口に、かつて立っていた人間の顔をしていた。


「お前、父さんを知ってるんだな」


『知っているというほどではない』


「じゃあ何だよ」


『見ていただけだ』


「また、それかよ」


『俺は、見る側だからな』


 その言葉は軽く聞こえた。


 だが、軽くはなかった。


 三成は、夕焼けの空を見上げる。


『王になれそうな人間は、意外と多い』


「父さんが?」


『ああ』


「でも、父さんは普通の会社員だぞ」


『普通を選べる人間は、弱いとは限らん』


 将太は黙った。


『大半の人間は、王になれないのではない。途中で降りる。家族、仕事、生活、諦め、恐怖。理由はいくらでもある』


「父さんも?」


『そうだ』


 三成は淡々と言った。


『だが、それは敗北とは限らん』


 将太は父の言葉を思い出す。


 普通を捨てるな。

 その普通が、最後に残る。


 将太にはまだ、その意味がよくわからなかった。


 しばらく歩いたあと、将太はふと疑問を口にした。


「……でもさ」


『何だ』


「お前って、結局、負けた側なんだろ」


 空気が止まった。


 三成が黙る。


 将太は言った瞬間、まずいと思った。


 言い方が悪かった。


 だが、言葉は戻らない。


 その瞬間だった。


 視界が揺れた。


 雨。


 泥。


 怒号。


 崩れる陣。


 裏切り。


 走る兵。

 折れる旗。

 濡れた草。

 血の匂いではなく、土と鉄の匂い。


 将太の呼吸が止まる。


 そして、一人の男がいた。


 雨の中。


 歯を食いしばって立っている。


 周囲には兵がいる。

 旗もある。

 声もある。


 なのに、その背中だけは孤独だった。


 誰も、本当にはそこにいない。


『関ヶ原』


 三成の低い声がした。


 気づけば、景色は戻っていた。


 住宅街。

 夕方。

 電柱。

 遠くの車の音。


 だが、三成の空気だけが違っていた。


 冷たい。


 将太は、言葉を探した。


「……悪い」


『別に』


 三成は静かに言った。


『事実だ』


「でも」


『俺は負けた』


 その言葉には、怒りよりも、疲れに近いものがあった。


『勝った者は、いつも正しくなる。負けた者は、間違っていたことになる。歴史はそういう顔をして残る』


 将太は何も言えなかった。


『だが、本当にそうか』


 三成は将太を見る。


『勝ったから正しいのか。負けたから間違いなのか。生き残ったから善で、消えたから愚かだったのか』


 将太は、ゆっくり首を横に振った。


「……わかんない」


『それでいい』


 三成は小さく笑った。


『すぐに答えを出す奴ほど、勝者の物語に飲まれる』


「勝者の物語?」


『勝った側は、自分の勝ち方を美しく語る。負けた側は、醜く、愚かに、都合よく削られる』


 三成は歩き出した。


 将太も、それに合わせて歩く。


『信長は奪った。家康は耐えた。孔明は読んだ。項羽は押し潰した。それぞれの勝ち方がある』


「お前は?」


 三成は少し黙った。


 そして、自嘲するように笑った。


『俺は、人を見すぎた』


「人を?」


『誰が裏切るか。誰が迷うか。誰が保身に走るか。誰が義を語りながら勝ち馬を探しているか。見えすぎた』


 将太は三成を見る。


『見えすぎる者は、人を信じるのが下手になる』


 その言葉は、妙に重かった。


 将太は、学校の教室を思い出した。


 陽斗の周りに集まる人。

 志保の空気に従う人。

 来海の距離感に流される人。

 誰かの後ろに隠れる人。


 見えると、わかってしまう。


 わかると、怖くなる。


 怖くなると、入れなくなる。


「だから俺のところに来たのか」


 三成は将太を見た。


『似ているからな』


「どこが」


『お前も、人の輪の中心へ入らない』


 将太は言い返せなかった。


 図星だった。


 クラスで孤立しているわけではない。

 友達がいないわけでもない。

 話を合わせることもできる。


 だが、いつも少し外側にいる。


 誰かが盛り上がっている時、その中心には入らず、端から見ている。


 勝った者より、負けた者が気になる。


 笑っている者より、笑えなかった者が気になる。


 それは優しさではない。


 ただ、目がそちらへ行く。


『何にもなりたくない奴ほど』


 三成は静かに言った。


『何にでもなれるように見える』


 将太は小さく息を吐いた。


「じゃあさ」


『何だ』


「普通に生きればいいんじゃねぇの?」


 沈黙。


 三成は少しだけ目を細めた。


『お前の父親は、そうした』


「なら俺も」


『無理だろうな』


「何で」


 三成は将太を見る。


『お前はもう見つかっている』


 将太の背筋が冷える。


 鏡。


 黒い影。


『見つけた』


 あの言葉。


「誰にだよ」


『わからん』


 その答えが、逆に怖かった。


 三成がわからない相手。


 三成が、見るなと言う相手。


 それが、将太を見ている。


『だが、嫌な予感はしている』


「何の」


『空席を欲しがる者は、勝者だけではない』


 将太は足を止めた。


「どういう意味だよ」


『勝者は、自分の型を広げたがる。だが、敗者は』


 三成はそこで言葉を切った。


「敗者は?」


『やり直したがる』


 夕方の空気が、急に冷えた気がした。


 その言葉は、なぜか将太の胸に残った。


 やり直す。


 勝つためではなく。


 失ったものを取り戻すために。


 負けたことをなかったことにするために。


 では、三成は。


 将太は聞きかけて、やめた。


 聞いてはいけない気がした。


 夜。


 将太は自室の窓を開けた。


 風が入る。


 昼間の会話が、まだ頭の中に残っている。


 敗者は、やり直したがる。


 その言葉だけが、何度も戻ってくる。


 向かいのマンションは、ところどころ明かりがついていた。


 テレビの光。

 カーテンの影。

 ベランダの洗濯物。


 普通の夜。


 そのはずだった。


 だが、向かいのマンションの暗いベランダに、誰かが立っていた。


 黒い影。


 顔は見えない。


 だが、そいつは確かに将太を見ていた。


 将太の喉が鳴る。


「……誰だよ」


 三成が低く呟いた。


『見るな』


「でも」


『今はまだ、目を合わせるな』


 将太は視線を逸らそうとした。


 だが、逸らせない。


 黒い影は動かない。


 ただ、こちらを見ている。


 鏡の中で見た影とは少し違う。


 天神で見た黒いコートの男とも違う。


 だが、同じ場所につながっている気がした。


 白い駅。


 一人目。

 二人目。

 空席の奥。


 将太は窓枠を握った。


 黒い影の口元が、ほんの少しだけ動く。


 声は聞こえない。


 だが、意味だけが届いた。


 ――敗者側は、こちらだ。


 将太の息が止まる。


 次の瞬間、向かいの部屋の明かりがついた。


 ベランダには、もう誰もいなかった。


 ただ、窓ガラスに映った自分の顔だけが、ひどく青ざめていた。


 三成は、珍しく何も言わなかった。


 その沈黙が、一番怖かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ