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憑いてる。  作者: 受験孔明
空席
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78/82

第78話 田中真心

78話 田中真心


 東京駅の照明が消えた。


 闇。


 赤レンガも。


 改札も。


 白い列車も。


 観測者たちの顔も。


 すべてが黒に沈んでいく。


 その中で、一人だけが薄く光っていた。


 田中真心。


 影のない少女。


 忘れられた者。


 第二候補。


 一人目の名前を残す器。


 そう呼ばれてきた存在。


 だが、将太はもう分かっていた。


 そのどれもが、田中真心そのものではない。


 真心は、真心だ。


 ただ、それだけを忘れてはいけない。


『空白の観測を開始する』


 ダンニュクの声が響いた。


 東京駅の床に、白い線が走る。


 線は真心の足元へ向かって伸びていく。


 真心は動かない。


 いや。


 動けない。


 足元に影がない。


 だから、踏みとどまる場所がない。


 立っているように見えるだけで、実際にはもう半分、空白に沈みかけていた。


「田中!」


 将太は叫んだ。


 真心は顔を上げる。


 その目は、ひどく静かだった。


 泣いていない。


 怯えてもいない。


 ただ、諦めに似た色があった。


「大丈夫」


 真心が言った。


 声が遠い。


 すぐ近くにいるのに、遠くから聞こえる。


「ここまでで十分」


「何が十分なんだよ」


「心陽ちゃん、戻せたでしょ」


 真心は心陽を見る。


 心陽は将太の後ろで立っていた。


 まだ震えている。


 だが、影は足元にある。


 薄いけれど、戻っている。


 真心は少しだけ笑った。


「よかった」


 その笑顔が、将太にはたまらなく腹立たしかった。


 自分が消えかけているくせに。


 自分が一番危ないくせに。


 真心は、誰かの心配をしている。


 七年前と同じだ。


 将太を守るために、自分を差し出した少女。


 今も同じことをしようとしている。


「よくない」


 将太は言った。


 真心の笑みが少しだけ揺れた。


「よくないだろ」


「将太くん」


「その呼び方、七年前もしてたんだな」


 真心の目が大きくなる。


 将太は一歩前へ出る。


 東京駅の床が伸びる。


 距離が歪む。


 真心へ近づこうとするほど、真心が遠ざかる。


 空白に落ちる者は、距離そのものからも消えていく。


 将太は歯を食いしばった。


「俺は覚えてなかった」


 真心は何も言わない。


「真心ちゃんって呼んでた」


 その言葉に、真心の顔が歪んだ。


「覚えて……」


「全部じゃない」


 将太は言った。


「まだ欠けてる。まだ思い出せないこともある」


 真心の体が薄くなる。


 ダンニュクの声が響く。


『空白確認』


『第二候補、分離開始』


 第二候補の少女が、真心の横に現れた。


 真心によく似た顔。


 同じ輪郭。


 同じ目。


 だが、違う。


 第二候補の少女は真心の残響。


 七年前に真心が空白へ落とした役割。


 一人目の名前を残すために、真心から剥がれたもの。


 少女は静かに言った。


「田中真心は、役割を終えた」


 将太は少女を見る。


「勝手に終わらせるな」


「役割がなければ、真心は残れない」


「違う」


 将太は即答した。


 少女の目が揺れた。


「違わない」


「違う」


 将太は真心を見た。


「真心は役割で残ってたんじゃない」


 東京駅の空気が震える。


「七年前から、ずっと俺を覚えてた」


 真心の唇が震える。


「俺が忘れても」


「世界が消しても」


「観測者が見失っても」


「一人で覚えてた」


 将太は一歩前へ進む。


 床が歪む。


 白い線が足元を裂く。


 それでも進む。


「それは役割じゃない」


 真心の目に涙が浮かぶ。


「そんな綺麗なものじゃない」


 真心は小さく言った。


「私は、将太くんを助けたかっただけじゃない」


 将太は足を止めた。


「怖かった」


 真心の声が震える。


「選ばれるのが怖かった」


「見られるのが怖かった」


「第一候補って呼ばれるのが怖かった」


「だから」


 真心は涙をこぼした。


「将太くんに、押しつけた」


 東京駅が静まり返る。


 観測者たちが動かない。


 リンが苦しそうに目を伏せる。


 悠真も、天堂も、何も言えない。


 真心は続けた。


「将太くんを守ったんじゃない」


「自分も逃げたかった」


「だから、私が空白になって」


「将太くんを空席にした」


 将太は黙って聞いていた。


「それで、将太くんは忘れた」


「私は覚えてた」


「でも、それは優しさじゃない」


 真心は自分の胸を押さえる。


「ただ、私が選んだことを忘れられなかっただけ」


 第二候補の少女が静かに言った。


「それが罪」


 真心の体がさらに薄くなる。


「田中真心は、罪を記録するために残った」


「違う!」


 将太の声が響いた。


 少女が将太を見る。


「何が違う」


「罪だけで人間を決めるな」


 将太は真心へ向かって進む。


「真心が怖かったことも」


「逃げたかったことも」


「俺を巻き込んだことも」


「俺の記憶を消したことも」


 真心が顔を伏せる。


「全部、消えない」


 将太は言った。


「でも、それだけで田中真心を終わらせるな」


 真心が顔を上げる。


「将太くん……」


「俺は怒ってる」


 将太は言った。


 真心の目が揺れる。


「忘れさせられたことも」


「何も知らないまま巻き込まれたことも」


「一人で全部知ってる顔してたことも」


「腹が立つ」


 真心は何も言えなかった。


「でも」


 将太は続けた。


「それでも、お前が消えていい理由にはならない」


 東京駅の白い線が止まる。


 ダンニュクの影が揺れる。


『空白の固定、失敗』


『再観測』


 第二候補の少女が一歩前へ出る。


「田中真心は空白」


「違う」


「田中真心は第二候補」


「違う」


「田中真心は器」


「違う」


「田中真心は罪」


「違う!」


 将太は叫んだ。


 東京駅全体が震える。


「田中真心は、田中真心だ!」


 その瞬間、真心の体がはっきりと見えた。


 薄れていた輪郭が戻る。


 白い線が砕ける。


 だが、まだ影はない。


 真心は涙を流しながら、将太を見ていた。


「私」


 声が震えている。


「まだ、私でいいの?」


 将太は答えた。


「いいとか悪いとかじゃない」


 一歩。


 また一歩。


 ようやく距離が縮まる。


「お前はもう、そこにいる」


 真心は自分の手を見る。


 透けていた指が、少しずつ戻っていく。


 第二候補の少女の輪郭が揺れた。


「役割が消えれば、名前を保てない」


 将太は少女を見る。


「役割は消さない」


 少女の目が動く。


「どういう意味」


「お前も真心の一部だ」


 少女が初めて言葉を失った。


「七年前に切り離された記憶」


「名前を残すための器」


「第二候補」


「全部、真心から生まれたものだろ」


 真心が息を呑む。


 将太は続ける。


「だから、捨てるんじゃない」


「戻れ」


 少女の表情が揺れる。


 感情のない顔に、初めて悲しみが浮かんだ。


「戻れば、田中真心は全部思い出す」


「思い出せば壊れるかもしれない」


「壊れたら支える」


 将太は即答した。


 自分でも驚くほど、迷いはなかった。


「俺だけじゃない」


 悠真が静かに前へ出た。


「覚えておく」


 天堂も肩をすくめる。


「忘れそうなら、しつこく言ってやる」


 心陽が涙を拭いて言った。


「私も」


 真心が心陽を見る。


 心陽は震えながら、それでも笑った。


「さっき助けてもらったから」


 リンも、かすれた声で言った。


「真心」


 真心がリンを見る。


「上海では、俺はそれができなかった」


 リンの声は重かった。


「役割を剥がせなかった」


「生き残りとして見ることをやめられなかった」


「だから、みんな消えた」


 リンは真心を真っ直ぐ見た。


「戻れ」


「田中真心として」


 真心の顔が歪む。


 第二候補の少女は目を閉じた。


 そして、静かに言った。


「田中真心」


 それは、自分自身を呼ぶ声だった。


 真心も同じように呟く。


「田中真心」


 二つの声が重なる。


 東京駅の闇が揺れる。


 第二候補の少女の体が白い光になってほどけていく。


 それは消滅ではなかった。


 帰還だった。


 真心へ戻っていく。


 七年前に切り離された記憶。


 選ばれた恐怖。


 逃げた罪。


 将太を守った願い。


 一人目の名前を残そうとした意志。


 そのすべてが、真心へ戻っていく。


 真心は声にならない悲鳴を上げた。


 将太は駆け寄る。


 今度は距離が壊れない。


 真心の肩を掴む。


 真心は崩れ落ちるように、将太にすがった。


「思い出した」


 真心が震える声で言った。


「全部じゃない」


「でも」


 将太は息を呑む。


 真心は顔を上げる。


 涙でぐしゃぐしゃになった顔。


 それでも、確かな目。


「一人目の名前」


 東京駅の空気が止まった。


 ダンニュクの影が大きく揺れる。


 観測者たちが一斉に真心を見る。


 リンが叫ぶ。


「まだ言うな!」


 真心は頷いた。


「分かってる」


 声は震えていた。


「でも、思い出した」


 将太の胸が強く鳴る。


 一人目。


 七年前に消えた誰か。


 将太の代わりに観測を逸らされた存在。


 名前を失った者。


 ずっと待っていた者。


 真心は将太の手を握った。


 冷たい。


 だが、確かにそこにある。


「将太くん」


「何だ」


「次で終わらせよう」


 将太は頷いた。


「終わらせる」


 その時、東京駅の床に影が生まれた。


 真心の足元。


 今までなかった影。


 薄く。


 頼りなく。


 けれど確かに、真心の足元に伸びていた。


 真心はそれを見て、泣きながら笑った。


「影、あった」


 将太は少しだけ笑った。


「あったな」


 東京駅のアナウンスが響く。


『空白の固定、失敗』


『第二候補の統合を確認』


『名前保持、再開』


 ダンニュクが低く唸る。


『光は戻った』


『空白も戻った』


 巨大な影が、将太たちを見下ろす。


『ならば最後だ』


 東京駅の奥。


 白い駅のホーム。


 そのさらに向こう。


 一人の子どもの影が現れた。


 顔は見えない。


 だが、今までよりも輪郭がはっきりしている。


 将太の胸が痛む。


 真心の手が震える。


 リンが目を伏せる。


 悠真と天堂も、何かを察したように黙った。


 その子どもは、ずっと待っていた。


 名前を呼ばれるのを。


 七年前から。


 ずっと。


 真心が小さく言った。


「一人目」


 将太は首を振った。


「違う」


 真心が将太を見る。


 将太は、その子どもの影を見つめた。


 もう、役割では呼ばない。


 一人目ではない。


 消えた者でもない。


 誰かの代わりでもない。


 名前で呼ばなければならない。


 まだ思い出せない。


 だが、次で思い出す。


 将太は一歩前へ出た。


 ダンニュクの声が響く。


『忘れていた名前の観測を開始する』


 東京駅が、白く染まった。

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