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憑いてる。  作者: 受験孔明
空席
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77/82

第77話 如月心陽

77話 如月心陽


 白い列車の扉が弾け飛んだ。


 光が溢れる。


 東京駅の天井が白く染まる。


 赤レンガの壁が歪み、改札が遠ざかり、観測者たちの視線が一斉に将太へ向いた。


 その中心で、将太は一人の少女を抱き止めていた。


 如月心陽。


 冷たい。


 軽い。


 けれど、確かにそこにいた。


 影ではない。


 像ではない。


 本人だった。


 心陽はゆっくり目を開ける。


 焦点の合わない目。


 震える唇。


 そして、小さく言った。


「……私」


 将太は息を止めた。


 心陽は自分の手を見る。


 足元を見る。


 そこには影があった。


 だが、薄い。


 まだ完全には戻っていない。


 心陽の足元にあるはずの影は、まるで少し遅れて現実に追いつこうとしているようだった。


「私、まだ私?」


 その声を聞いた瞬間、将太の胸が締め付けられた。


 如月心陽。


 いつも明るくて。


 友人に囲まれていて。


 周囲から見られていて。


 その視線に応えようとしていた少女。


 見られすぎた者。


 二人目。


 そう呼びそうになる。


 だが違う。


 それが間違いだった。


 将太は心陽の肩を支えたまま、はっきり言った。


「如月心陽だ」


 心陽の目が揺れる。


「私……?」


「そうだ」


 将太は続ける。


「お前は二人目じゃない」


 東京駅の空気が震えた。


 観測者たちがざわめく。


 ダンニュクの巨大な影が、ゆっくりと将太を見る。


 だが、将太は止まらなかった。


「見られすぎた者でもない」


 心陽の影が、足元で小さく震える。


「誰かが勝手に作った像でもない」


 白い列車の内側から、黒い影が滲み出す。


 心陽の影。


 いや。


 心陽の形をした、別のもの。


 それが列車の中からゆっくり出てきた。


 本人よりも美しく。


 本人よりも明るく。


 本人よりも完璧に笑っている。


 クラスで見られてきた心陽。


 塾で見られてきた心陽。


 周囲が勝手に期待し、羨み、評価し、作り上げた如月心陽。


 その影が、将太たちの前に立った。


 心陽本人が息を呑む。


「あれ……私?」


 将太は首を振った。


「違う」


 影が笑った。


 本人そっくりの顔で。


 本人そっくりの声で。


「違わないよ」


 心陽の声だった。


 だが、心陽ではなかった。


「みんなが見てる私」


「みんなが知ってる私」


「みんなが好きな私」


 影はゆっくり歩いてくる。


「だから、私の方が本物だよね」


 心陽の体が震えた。


 将太はそれを感じた。


 恐怖。


 羞恥。


 怒り。


 そして、諦め。


 心陽はずっと、自分でそう思っていたのかもしれない。


 周囲が見ている自分。


 期待される自分。


 明るく、強く、傷ついていない自分。


 その方が本物で、自分の弱さの方が偽物なのだと。


「違う」


 将太はもう一度言った。


 影が将太を見る。


「あなたが決めることじゃない」


「俺が決めることでもない」


 将太は心陽を見る。


「決めるのは、本人だ」


 心陽は何も言えない。


 唇が震えている。


 影は笑った。


「本人?」


「この子、ずっと私になりたがってたよ」


 心陽の顔が青ざめる。


「違……」


 声が詰まる。


 影はさらに近づく。


「嫌われたくない」


「失望されたくない」


「弱いと思われたくない」


「普通でいたくない」


「すごいと思われたい」


「ちゃんとしていたい」


 影の声が重なる。


 東京駅全体の視線が、心陽へ向く。


 観測者たち。


 ダンニュク。


 白い駅。


 東京駅。


 全てが心陽を見る。


 心陽の影が、再び薄くなった。


 将太は歯を食いしばる。


 見るな。


 そう叫びたかった。


 だが、それでは駄目だ。


 心陽は見られすぎた。


 だから、見ないことだけでは戻らない。


 見た上で、役割ではなく本人を呼ばなければならない。


 悠真が低く言った。


「綾小路」


 将太は振り返らない。


「視線をずらす。時間は少ししかない」


 悠真の背後で孔明の分霊が羽扇を掲げる。


 その瞬間、東京駅の視線の一部が揺れた。


 観測者たちの焦点が、心陽からわずかに外れる。


 天堂も前に出た。


「派手なのは任せろ」


 信長の分霊が、天堂の背後で笑う。


 次の瞬間、東京駅の別の場所で炎のような赤い光が弾けた。


 観測者たちの視線がさらに乱れる。


 将太は理解した。


 悠真と天堂が、観測を散らしている。


 孔明と信長の分霊が、心陽へ集中していた視線を乱している。


 だが、それでも足りない。


 心陽の影はまだ立っている。


 本人よりも強く。


 本人よりも鮮明に。


 影が将太を見る。


「無駄だよ」


 声が響く。


「みんな、私を見てる」


「この子じゃなくて」


「私を」


 心陽本人の目から涙がこぼれた。


「……そうだよ」


 小さな声。


 将太は心陽を見る。


「みんなが見てる私は、ちゃんとしてる」


「明るくて」


「友達もいて」


「勉強もできて」


「弱くなくて」


 心陽の声が震える。


「私より、私みたい」


 将太は何も言わなかった。


 否定だけでは届かない。


 ここで簡単に「そんなことない」と言えば、それもまた観測になる。


 将太は心陽を見た。


 影ではなく。


 理想でもなく。


 周囲の視線でもなく。


 震えている本人を見た。


「如月心陽」


 名前を呼ぶ。


 心陽が顔を上げる。


「俺は、お前がどんな奴か全部は知らない」


 心陽が瞬きをする。


「明るいところも」


「無理してるところも」


「怖がってるところも」


「見られるのが嫌なのに、見られないと不安になるところも」


 心陽の目が大きくなる。


 将太は続ける。


「全部知ってるなんて言わない」


 影が動きを止める。


「でも」


 将太ははっきり言った。


「知らないからって、影の方を本物にする理由にはならない」


 東京駅の空気が震えた。


「お前は、分からないままでも如月心陽だ」


「弱くても」


「怖くても」


「自分が自分じゃない気がしても」


「それでも」


 将太は心陽の手を強く握った。


「如月心陽だ」


 心陽の顔が歪む。


 涙が止まらない。


 影が初めて後退した。


「違う」


 影が言う。


「違わない」


 将太は即座に返す。


「お前は如月心陽じゃない」


 影が揺れる。


「お前は、如月心陽を見た人間たちが作った像だ」


 その言葉に、観測者たちの視線が大きく乱れた。


 像。


 影。


 二人目。


 その全てが、心陽本人から切り離されていく。


 ダンニュクの声が響いた。


『二人目の形成が崩れる』


 リンが顔を上げる。


「いける」


 真心が遠くで呟く。


「将太くん」


 将太は心陽だけを見ていた。


「自分で言え」


 心陽が震える。


「何を」


「名前」


 心陽の唇が動く。


 だが、声が出ない。


 影が叫ぶ。


「言えないよ」


「この子は私なしじゃ立てない」


「私がいないと、誰にも見てもらえない」


 心陽の肩が震える。


 将太は静かに言った。


「見てもらえなくても、いるだろ」


 心陽が息を呑む。


「誰かに見られないと存在できないなんて、そんなのおかしいだろ」


 それは心陽だけに言った言葉ではなかった。


 真心にも。


 一人目にも。


 将太自身にも。


 観測されなくても、存在していい。


 名前を呼ばれなくても、消えていいわけではない。


 けれど、消えそうな時には、誰かが名前を呼ばなければならない。


 心陽は涙を流しながら、自分の胸に手を当てた。


 そして、震える声で言った。


「私は」


 影が叫ぶ。


「やめて!」


 東京駅が揺れる。


 白い列車が軋む。


 ダンニュクが近づく。


 それでも心陽は言った。


「如月心陽」


 その瞬間、東京駅の照明が白く弾けた。


 影が大きく歪む。


 心陽の足元へ、薄かった影が一気に戻っていく。


 白い列車の扉が閉じる。


 だが、もう中には誰もいない。


 心陽の影だったものは、声にならない叫びを上げながら、床へ落ちた。


 そして、ただの影になった。


 心陽の足元に。


 本人の影として。


 東京駅のアナウンスが響く。


『二人目確定、失敗』


『光の回収を確認』


 観測者たちがざわめく。


 リンが大きく息を吐いた。


 悠真が目を閉じる。


 天堂が小さく笑う。


「戻ったか」


 心陽は立っていた。


 まだ震えている。


 まだ泣いている。


 けれど、立っていた。


 自分の影を足元に置いて。


 将太はようやく息を吐いた。


「戻ったな」


 心陽は頷いた。


「怖かった」


「だろうな」


「私、自分じゃなくなるところだった」


「なってない」


 心陽は涙を拭った。


 そして、小さく笑った。


「ありがとう」


 将太は何も言わなかった。


 言えば照れくさくなる。


 それに、まだ終わっていない。


 ダンニュクが、静かに将太たちを見ていた。


『光は戻った』


 巨大な影が揺れる。


『ならば次は空白』


 将太は振り返る。


 真心がそこに立っていた。


 だが、さっきより輪郭が薄い。


 影はない。


 声も出ない。


 ただ、将太を見ている。


 第二候補の少女が静かに言った。


「順番は進んだ」


「次は」


 少女の声が少しだけ震える。


「田中真心を、忘れないで」


 ダンニュクの声が響く。


『空白の観測を開始する』


 東京駅の照明が、再び消えた。

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