第76話 空席
76話 空席
世界が止まっていた。
東京駅。
観測者たち。
リン。
悠真。
天堂。
第二候補の少女。
全てが静止している。
動いているのは二つだけ。
将太。
そして、ダンニュク。
『ようやく会えた』
声が響く。
頭の中ではない。
もっと深い場所。
記憶よりも奥。
自分の名前よりも前にある場所。
そこへ直接、声が落ちてくる。
将太は巨大な影を見上げた。
「お前は何なんだ」
返事はすぐには来なかった。
長い沈黙。
やがて、ダンニュクは言った。
『観測の終着点』
意味が分からない。
だが、その言葉を聞いた瞬間、東京駅の空気がさらに重くなった。
『人は見る』
『理解しようとする』
『名を付ける』
『分類する』
『記録する』
『それが観測だ』
将太は黙って聞いていた。
『王』
『軍師』
『英雄』
『怪物』
『光』
『影』
『人間』
言葉が次々と落ちてくる。
まるで、将太が今まで見てきたものを、全て読み上げるように。
『だが』
『全てを観測した先に何がある』
影が揺れる。
『誰も知らなかった』
『だから私が生まれた』
将太は理解できない。
だが、なぜか、その言葉は嘘ではない気がした。
ダンニュクは敵なのか。
災厄なのか。
神なのか。
それとも、人間が見続けた果てに生まれた、ただの影なのか。
何も分からない。
だからこそ恐ろしかった。
「俺は何なんだ」
将太は聞いた。
「空席って何だ」
ダンニュクは答えない。
代わりに、将太の後ろを見る。
将太はゆっくり振り返った。
そこにいた。
幼い将太。
七年前の自分。
そして、幼い真心。
二人は手を繋いでいた。
東京駅。
時計の下。
あの日の光景。
今度は途切れない。
幼い真心が泣いている。
「嫌だ」
「絶対嫌」
将太は固まる。
その先の記憶。
今まで見えなかった部分。
黒コートの人物。
停止した人々。
白く歪んでいく東京駅。
そして、白い駅で見た少女。
第二候補の少女。
同じ存在だった。
『選べ』
声が響く。
『世界を残すか』
『空席を残すか』
幼い将太には意味が分からない。
だが、真心は理解していた。
「将太を消さないで」
泣きながら叫ぶ。
「お願い」
「私がやるから」
将太の心臓が止まりそうになる。
私がやるから。
その言葉。
リンの言葉。
第二候補。
七年前。
真心が止めた観測。
全てが繋がる。
「まさか……」
ダンニュクが言う。
『本来、選ばれたのは田中真心だった』
『だが、お前は残った』
『存在してはいけない形で』
将太は動けない。
『だから空席』
『誰のものでもない席』
『誰も座っていない席』
『それでいて』
『誰にでも開かれている席』
沈黙。
将太は目を閉じる。
ようやく分かった。
なぜ三成が、自分の後ろに何も見えなかったのか。
なぜ孔明も信長も、自分を警戒したのか。
なぜ真心が、ずっと「間に合うといいね」と言っていたのか。
なぜ一人目は、待っていたのか。
なぜ観測者たちは、自分の前で膝をついたのか。
空席とは、何もない人間のことではなかった。
まだ誰も座ってはいけない場所。
誰かが座れば、世界の形が変わる場所。
それが、綾小路将太だった。
その時だった。
「将太」
声。
真心だった。
止まっていた世界に、細いひびが入る。
東京駅。
観測者たち。
リン。
悠真。
天堂。
止まっていた時間が少しずつ戻る。
真心が立っている。
涙を流しながら。
「ごめん」
将太は首を振った。
「知ってたんだな」
真心は頷く。
「ずっと」
「何で言わなかった」
「言ったら」
真心は唇を噛む。
「思い出すから」
「思い出したら」
「また見つかるから」
将太は言葉を失った。
七年前。
真心は将太を助けた。
記憶を消して。
自分が第二候補になって。
将太を空席のまま残した。
それは優しさだったのか。
罪だったのか。
将太にはまだ分からなかった。
だが、一つだけ分かる。
真心はずっと、一人で覚えていた。
将太が忘れた七年前を。
将太の代わりに。
ずっと。
「田中真心」
将太は名前を呼んだ。
真心の肩が小さく震える。
「俺は、お前を器とは呼ばない」
第二候補の少女の輪郭が揺れる。
「第二候補とも呼ばない」
東京駅の影が波打つ。
「田中真心」
もう一度呼ぶ。
「お前は田中真心だ」
真心は何も言わなかった。
ただ、涙を流したまま、小さく頷いた。
その瞬間、第二候補の少女の表情がほんの少し変わった。
真心に似た顔。
だが真心ではない存在。
その残響が、将太を見ていた。
「空白を忘れなかった」
少女は静かに言った。
「なら、次は光」
将太の胸が跳ねる。
如月心陽。
白い列車。
閉じかけた扉。
触れた指先。
心陽はまだ戻っていない。
将太は振り返る。
白い列車の扉は、わずかに開いたまま止まっている。
その隙間から、心陽の手が伸びていた。
冷たく。
震えている。
だが、生きている。
影ではない。
本人の手。
将太は歯を食いしばる。
順番。
光。
空白。
忘れていた名前。
本当は光が先だった。
だが東京駅では、真心を忘れなければ進めなかった。
だから今、戻す。
光を。
如月心陽を。
ダンニュクが動いた。
東京駅が崩れ始める。
赤レンガが剥がれる。
コンコースが白い雪に飲まれていく。
改札が消える。
観測者たちが悲鳴を上げる。
白い駅と東京駅が重なり始めていた。
「将太!」
悠真が叫ぶ。
「こっちへ来い!」
天堂も腕を伸ばす。
「ぼーっとすんな!」
リンが顔を上げる。
首の黒い文字はまだ消えていない。
それでも、かすれた声で言った。
「急げ」
ダンニュクは将太を見ていた。
そして、初めて笑った。
『面白い』
巨大な影が揺れる。
『空席はまだ空席のままか』
『ならば続けよう』
将太は息を呑む。
「何を」
『観測を』
ダンニュクの声が、東京駅全体に響いた。
『二人目の確定を再開する』
白い列車の扉が閉まり始めた。
心陽の手が、隙間から消えかける。
将太は走った。
観測者たちの視線が突き刺さる。
ダンニュクの影が背後から迫る。
東京駅が白い駅へ変わっていく。
それでも走る。
心陽の影を見るな。
二人目を見るな。
見られすぎた像を見るな。
本人だけを思い出せ。
将太は心の中で呼ぶ。
如月心陽。
塾の教室で笑っていた。
自分の異変に気付いてくれた。
無理して普通の顔をしていた。
影ではない。
役割ではない。
二人目ではない。
如月心陽。
将太は白い扉へ手を伸ばす。
閉まりかけた扉の隙間。
消えかける指先。
あと少し。
届かない。
東京駅の床が伸びる。
距離が壊れる。
見ているだけでは届かない。
観測するだけでは救えない。
なら。
将太は目を閉じた。
見ることをやめた。
名前だけを掴む。
「如月心陽」
今度は声に出した。
東京駅の観測者たちがざわめいた。
ダンニュクが大きく揺れる。
リンが叫ぶ。
「強く呼ぶな!」
だが、もう止めなかった。
将太は手を伸ばし続ける。
「お前は二人目じゃない」
白い列車の光が割れる。
「見られすぎた者でもない」
扉の内側から、指が将太の手を掴んだ。
冷たい。
震えている。
だが、確かに力がある。
「如月心陽だ」
その瞬間、白い列車の扉が弾け飛んだ。
光が溢れる。
東京駅の観測者たちが一斉に顔を上げる。
ダンニュクの影が大きく歪む。
白い光の中から、心陽が倒れ込むように出てきた。
将太はその体を受け止める。
軽い。
冷たい。
でも、そこにいる。
影ではない。
像ではない。
如月心陽本人だった。
心陽はゆっくり目を開ける。
焦点の合わない目。
震える唇。
そして、小さく言った。
「……私」
将太は息を呑む。
心陽は自分の手を見る。
影を見る。
そして、泣きそうな顔で言った。
「私、まだ私?」
将太は頷いた。
「如月心陽だ」
心陽の目から、涙がこぼれた。
その瞬間、足元の影が心陽に戻った。
薄く。
まだ不安定で。
それでも、本人の足元へ。
東京駅のアナウンスが響く。
『二人目確定、失敗』
『光の回収を確認』
観測者たちがざわめく。
リンが大きく息を吐く。
悠真が目を閉じる。
天堂が小さく笑った。
「やったじゃねぇか」
だが、終わっていなかった。
ダンニュクが、静かに将太を見ている。
『光は戻った』
巨大な影が揺れる。
『ならば次は空白』
真心の体が、一瞬だけ透けた。
将太は振り返る。
真心がそこに立っている。
だが、さっきより輪郭が薄い。
影はない。
声も出ない。
ただ、将太を見ている。
第二候補の少女が静かに言った。
「順番は進んだ」
「次は」
少女の声が少しだけ震える。
「田中真心を、忘れないで」
ダンニュクの声が響く。
『空白の観測を開始する』
東京駅の照明が、再び消えた。




