第75話 ダンニュク
75話 ダンニュク
『ダンニュクを確認』
『観測を開始します』
アナウンスが響いた。
東京駅全体が震えていた。
赤レンガの壁。
高い天井。
無数の改札。
白い列車。
膝をつく観測者たち。
その全てが、巨大な影の出現によって歪んでいく。
将太は振り返った。
東京駅の入口。
いや。
入口だった場所。
そこに巨大な影が立っていた。
人の形に見える。
だが、人ではない。
黒い。
ただ黒い。
輪郭が定まらない。
見ようとすると崩れる。
目を逸らすと近付いている。
存在そのものが不安定だった。
「何だよ……あれ」
天堂の声が震える。
初めてだった。
天堂が恐怖を隠せないのは。
悠真も言葉を失っている。
いつもなら何かを考えている顔をする。
状況を整理し、最短で答えを探そうとする。
だが、今は違った。
目の前の存在が、考えることすら拒んでいた。
観測者たちが後退する。
一歩。
また一歩。
何千人もいる観測者が、同じ方向へ下がっていた。
誰も叫ばない。
誰も走らない。
ただ、静かに絶望していた。
リンが呟く。
「間に合わなかった」
将太は振り返る。
「ダンニュクって何なんだ」
リンは苦しそうに笑った。
「誰も知らない」
「は?」
「本当に知らない」
リンの目は巨大な影を見ている。
「観測者は何百年も調べた」
「何千人も消えた」
「名前だけが残った」
「でも」
そこで一度、言葉を切る。
「結局、分からなかった」
将太の背筋が冷える。
分からない。
またその言葉だった。
孔明も。
信長も。
三成も。
リンも。
真心も。
誰も知らない。
なのに、全員が恐れている。
「ただ、一つだけ分かっている」
リンが続けた。
「ダンニュクに見られた者は、名前から剥がれる」
「名前から?」
「そうだ」
リンの声は震えていた。
「人間は死んでも名前が残る。記憶が残る。誰かの中に、記録の中に、写真の中に、言葉の中に残る」
将太は黙って聞いていた。
「でも、ダンニュクは違う」
リンは唇を噛む。
「名前そのものを、世界から切り離す」
東京駅の照明が白く瞬いた。
「だから、消えた者は思い出せない」
「いたことだけが、抜け落ちる」
将太の胸が痛んだ。
一人目。
忘れていた名前。
七年前、東京駅で消えた誰か。
自分の代わりに観測を受けたかもしれない誰か。
その存在が、ようやく輪郭を持ち始めている。
なのに、名前だけが出てこない。
ダンニュクは、人を消すのではない。
名前を消す。
だから、真心は名前を残そうとした。
だから、将太は名前を呼ばなければならない。
その時だった。
巨大な影が動いた。
一歩。
東京駅が揺れる。
一歩。
空気が軋む。
一歩。
観測者たちが一斉に膝をついた。
将太は息を呑む。
白い駅で見た光景。
無数の観測者が、自分の前に膝をついた光景。
だが、今度は違う。
全員が、ダンニュクへ向かって膝をついている。
恐怖。
服従。
絶望。
そんな感情が見えた。
見えてしまった。
「まずい」
リンが低く言う。
「見すぎるな」
「見ないと分からないだろ」
「分かろうとするな」
リンの声が鋭くなる。
「理解した瞬間に持っていかれる」
将太は言葉を失う。
理解してはいけないもの。
名前を付けてはいけないもの。
見てはいけないもの。
だが、それでも見えてしまう。
ダンニュクは怪物ではない。
場所でもない。
ただの影でもない。
名前が世界から剥がれ落ちる時に現れる、穴。
呼ばれなかった者。
忘れられた者。
見られすぎて本人ではなくなった者。
その全てが最後に落ちる、出口のない仕組み。
そう理解しかけた瞬間、将太の頭に激痛が走った。
「ぐっ……!」
「言っただろ!」
リンが叫ぶ。
「分かろうとするな!」
その時。
第二候補の少女が前へ出た。
真心によく似た顔。
だが、真心ではない。
感情のない瞳。
白い肌。
東京駅の闇の中で、彼女だけが淡く光っていた。
「停止します」
感情のない声。
「観測継続のため」
「対象を保護します」
将太は気付く。
対象。
自分だ。
「勝手に決めるな」
将太が言う。
少女は将太を見ない。
ただ、ダンニュクへ向かって手をかざした。
次の瞬間、少女の周囲に白い光が広がる。
東京駅全体を包むほどの光。
観測者たちの影が薄れる。
柱が白く染まる。
改札が消えかける。
駅の形そのものが、白い駅へ近付いていく。
将太は目を見開いた。
真心に似た少女。
いや。
その奥に、別の何かが見えた。
巨大な影。
無数の光。
幾つもの駅。
幾つもの時間。
幾つもの記憶。
人ではない。
少女の姿は器だった。
田中真心に残された、記憶の器。
一人目の名前を残すための器。
そして、七年前に将太を生かすために生まれた、第二候補の残響。
「お前……」
少女が初めて笑う。
ほんの少し。
真心に似た笑い方だった。
「思い出した?」
その言葉と同時に、将太の頭に激痛が走った。
東京駅。
七年前。
幼い真心。
泣いている。
黒コート。
停止した人々。
崩れていく駅。
そして、誰かの声。
『どちらかを選べ』
知らない声。
だが、どこかで聞いたことがある。
『空席を残すか』
『世界を残すか』
将太は膝をつく。
思い出しそうになる。
あと少し。
あと少しで届く。
だが、届かない。
記憶の奥で、幼い真心が叫んでいる。
「忘れて」
「お願い」
「生きて」
その声だけが鮮明だった。
「真心が……」
将太は歯を食いしばる。
「俺に何をしたんだ」
少女は答えない。
ただ、静かに将太を見る。
その時だった。
巨大な影。
ダンニュクが、初めて将太を見た。
世界が止まる。
東京駅。
観測者。
リン。
悠真。
天堂。
少女。
全てが静止した。
動いているのは、将太とダンニュクだけ。
音もない。
光もない。
距離もない。
ただ、見られている。
そう感じた。
将太は息ができなかった。
ダンニュクに目はない。
顔もない。
声帯もない。
それなのに、頭の中へ直接声が響いた。
『ようやく会えた』
聞いたことのない声。
なのに、なぜか知っている気がした。
『空席』
ダンニュクが呼ぶ。
『最後の観測者』
将太の影が震えた。
足元で。
黒く。
深く。
今まで見たどの影よりも濃く。
そして、その影が、将太より先にダンニュクへ向かって一歩踏み出した。
将太は息を呑む。
「戻れ」
影は止まらない。
「戻れ!」
声を荒げても、影は将太を振り返らない。
まるで、将太自身よりも先に、将太の欠けた部分がダンニュクを覚えているようだった。
『お前は一度、こちらへ来た』
ダンニュクの声。
『名前を落とした』
将太の胸が痛む。
『記憶を落とした』
頭が割れそうになる。
『影を落とした』
足元の影が、さらに前へ進む。
『それでも戻った』
ダンニュクの輪郭が膨らむ。
『ありえない』
東京駅の床が黒く染まり始める。
『だから、お前は空席になった』
将太は動けない。
その言葉が、胸の奥へ落ちていく。
空席。
誰にも憑かれていない者。
何もない者。
そう思っていた。
でも違う。
自分は一度、落としたのだ。
名前を。
記憶を。
影を。
その欠落が、空席に見えていた。
『戻れ、将太!』
三成の声が聞こえた。
止まっていたはずの世界の中で。
その声だけが届いた。
『影を見るな!』
将太は目を閉じる。
影を見るな。
ダンニュクを見るな。
理解しようとするな。
名前を呼べ。
誰の。
順番。
光。
空白。
忘れていた名前。
今は。
今は、光。
白い列車。
扉。
心陽の影。
将太は目を閉じたまま、心の中で呼んだ。
如月心陽。
すると、止まっていた世界に小さな亀裂が走った。
白い列車の中。
扉の向こう。
誰かが振り返る気配がした。
影ではない。
本物の心陽。
見られすぎた像の奥に閉じ込められている、本人。
将太はもう一度、心の中で呼ぶ。
如月心陽。
ダンニュクの声が低く響く。
『光を呼ぶか』
将太は歯を食いしばる。
『ならば空白が落ちる』
胸が凍る。
田中真心。
将太は一瞬だけ揺れた。
心陽を呼べば、真心が落ちる。
真心を呼べば、心陽が成る。
順番を間違えれば、誰かが消える。
その迷いを、ダンニュクは待っている。
将太は理解した。
これは選択ではない。
選ばされた時点で負ける。
七年前と同じだ。
空席を残すか。
世界を残すか。
あの時、真心は将太を生かすために自分を空白へ落とした。
同じことを繰り返してはいけない。
将太は目を開けた。
ダンニュクを見ない。
影を見ない。
ただ、白い列車の扉の向こうを見る。
「選ばない」
声が出た。
小さい。
だが、確かに東京駅に響いた。
「心陽も」
足元の影が止まる。
「真心も」
第二候補の少女の顔が揺れる。
「一人目も」
東京駅の奥で、白い柱が震える。
「俺は選ばない」
ダンニュクの輪郭が大きく歪む。
『空席が選ばぬなら、誰が座る』
将太は答える。
「誰も座らせない」
その瞬間、心陽の影が白い列車の中で揺らいだ。
扉がわずかに開く。
ほんのわずか。
だが、将太の指先が届く隙間。
将太は走った。
東京駅が伸びる。
床が黒く染まる。
観測者たちの視線が刺さる。
ダンニュクの影が背後から迫る。
それでも、将太は走る。
心陽の影を見るな。
列車を見るな。
ダンニュクを見るな。
本人を思い出せ。
如月心陽。
将太は白い扉へ手を伸ばす。
その指先が、内側から伸びた小さな手に触れた。
冷たい。
震えている。
だが、生きている。
影ではない。
本人の手だった。
将太は息を吸った。
今度は、声に出した。
「如月心陽」
東京駅の観測者たちがざわめいた。
ダンニュクが大きく揺れる。
リンが叫ぶ。
「強く呼ぶな!」
だが、もう遅い。
将太は手を離さなかった。
「お前は二人目じゃない」
白い列車の光が割れる。
「見られすぎた者でもない」
心陽の手が強く握り返す。
「如月心陽だ」
その瞬間、白い列車の扉が弾け飛んだ。




