第73話 七年前
73話 七年前
東京駅の時計の下。
小さな将太。
小さな真心。
二人は手を繋いでいた。
将太は動けなかった。
視線が離せない。
「何だよ……これ」
自分だった。
間違いなく。
幼い頃の自分。
だが、記憶にない。
真心と会ったのは、中学校に入ってからのはずだった。
少なくとも、将太の記憶では。
「そんなはず……」
第二候補の少女は静かに言った。
「忘れたんじゃない」
将太は振り返る。
「違う」
少女の声は淡々としていた。
「消された」
将太の背筋が凍る。
その瞬間、景色が揺れた。
現在の東京駅。
観測者たち。
リン。
第二候補の少女。
悠真。
天堂。
全てが遠ざかる。
代わりに、七年前の光景が近付いてくる。
将太は立っていた。
幼い自分の隣に。
誰にも見えないまま。
観測者のように。
東京駅。
人混み。
休日だった。
旅行客。
スーツ姿の大人。
大きな鞄を引く人。
駅弁の袋を持つ親子。
全てが生きている。
全てが動いている。
けれど、将太だけは知っていた。
このあと、何かが壊れる。
幼い将太が笑う。
「こっち!」
幼い真心が後ろから追いかける。
「待って!」
楽しそうだった。
知らない記憶。
知らない時間。
だが、確かに存在していた。
二人は知り合いだった。
しかも、ただの知り合いではない。
手を繋いで。
笑って。
東京駅の中を走るくらいには、近い存在だった。
「どういうことだ」
将太は呟く。
その時だった。
幼い真心が立ち止まる。
突然だった。
笑顔が消える。
ゆっくり、ある方向を見る。
将太もつられて振り返る。
人混みの向こう。
一人の男が立っていた。
黒いコート。
将太の呼吸が止まる。
一人目。
そう思った。
だが、違う。
今まで見ていた黒衣とは何かが違う。
圧力。
存在感。
空気。
比較にならない。
男は動かない。
ただ、二人を見ていた。
幼い真心が震える。
まだ七歳ほどの少女。
それなのに、その目は恐怖に染まっていた。
「見つかった」
小さな声だった。
将太は固まる。
聞いたことがある。
あの言葉。
幼い真心は、幼い将太の手を強く握る。
「逃げよう」
幼い将太は意味が分からない。
「何で?」
真心は答えない。
ただ、泣きそうな顔で言う。
「お願い」
「逃げて」
その時だった。
黒コートの男が右手を上げる。
人差し指。
一。
東京駅の音が消えた。
アナウンスも。
人の声も。
足音も。
全てが遠くなる。
幼い将太は周囲を見る。
人が止まっている。
大人も。
子どもも。
駅員も。
誰も動かない。
ただ一人、幼い真心だけが動いていた。
「真心ちゃん?」
幼い将太が言う。
その呼び方に、現在の将太は息を呑む。
知っていた。
名前を。
昔から。
自分は真心の名前を知っていた。
だが、忘れていた。
消されていた。
幼い真心は、将太の手を握ったまま叫ぶ。
「見ちゃだめ!」
「聞いちゃだめ!」
「名前を覚えちゃだめ!」
小さな声。
必死だった。
だが、幼い将太は分かっていない。
黒コートを見る。
その瞬間、黒コートの男が口を開いた。
『第一候補』
現在の将太の全身に鳥肌が立った。
ここからだった。
全ては。
七年前のこの日。
東京駅で。
自分は見つかっていた。
幼い真心が泣きながら首を振る。
「違う!」
「この子じゃない!」
「まだ違う!」
黒コートは答えない。
ただ、幼い将太を見ている。
そして、低い声で言った。
『観測を開始する』
次の瞬間、世界が砕けた。
ガラスが割れるような音。
東京駅。
人混み。
記憶。
全てが崩れていく。
幼い将太は膝をつく。
幼い真心が抱きしめる。
泣きながら。
何かを叫んでいる。
だが、聞こえない。
音が消えていく。
記憶が剥がれていく。
将太の中から。
東京駅が。
真心が。
黒コートが。
消えていく。
最後に、幼い真心の声だけが届いた。
「忘れて」
「お願い」
「生きて」
そして、将太は再び現在の東京駅へ戻った。
観測者たち。
リン。
第二候補の少女。
悠真。
天堂。
全員が将太を見ていた。
リンが静かに言う。
「思い出したか」
将太は答えられない。
喉が動かない。
息がうまく吸えない。
だが、一つだけ分かった。
真心は、最初から知っていた。
自分よりもずっと前から。
あの日のことを。
東京駅で何が起きたのかを。
そして、自分の記憶が消された理由を。
第二候補の少女が、静かに言った。
「七年前」
「第一候補は見つかった」
「でも観測は失敗した」
将太は顔を上げる。
「失敗?」
少女は頷く。
「田中真心が止めた」
その名前が出た瞬間、東京駅の空気が揺れた。
観測者たちがざわめく。
リンが目を伏せる。
悠真と天堂は何も言えない。
将太だけが、まだ理解できていない。
「真心が……?」
少女は続ける。
「だから第二候補になった」
将太の心臓が強く鳴る。
意味が分からない。
だが、真心が自分を助けた。
それだけは分かった。
七年前。
自分の記憶を消してまで。
何かから守った。
リンが低く言った。
「だから言っただろ」
「お前は最初じゃない」
将太は黙る。
「一度、観測されている」
東京駅のアナウンスが響いた。
『第一候補の記憶接続を確認』
『第二候補との接続を確認』
『観測を再開します』
将太は息を呑む。
再開。
開始ではない。
再開。
つまり、これは七年前の続きだった。
天堂が低く言った。
「ちょっと待て」
その声には、珍しく怒りが混じっていた。
「真心が将太を守ったのは分かった」
天堂は第二候補の少女を見る。
「じゃあ、その時消えたやつは誰だ」
東京駅の空気が、さらに重くなる。
将太も、悠真も、リンも、黙った。
そこだった。
一番大事なところ。
七年前、将太と真心のほかに、もう一人いた。
顔の見えない子ども。
名前の出てこない誰か。
一人目。
第二候補の少女は、静かに時計の下を見た。
過去の光景が再び揺れる。
幼い将太。
幼い真心。
そして、三人目の子ども。
白い光の中で、その子だけが少しずつ薄れていく。
将太の胸が痛む。
知っている。
間違いなく知っている。
でも名前が出ない。
第二候補の少女が言った。
「第一候補を守るために」
「第二候補は、観測の向きを変えた」
将太は息を止める。
「向きを変えた?」
「そう」
少女は頷く。
「綾小路将太に向かっていた観測を、別の子へ逸らした」
将太の脳が、その言葉を拒否した。
「待て」
声が震える。
「それって」
少女は答えない。
だが、沈黙だけで十分だった。
七年前、真心は将太を守った。
その結果、別の誰かが消えた。
それが一人目。
名前を失った子ども。
将太が忘れている誰か。
将太の胸の奥に、耐えがたい痛みが走る。
「俺の代わりに……?」
リンが顔を上げる。
「言うな」
低い声だった。
「今それを言葉にするな」
「でも」
「言葉にすれば固定される」
リンは鋭く言った。
「今ここで罪として認識すれば、一人目はお前を入口にして戻る」
将太は口を閉じた。
だが、もう遅かった。
胸の奥で、何かが動いている。
忘れていた痛み。
忘れていた罪悪感。
忘れていた名前。
第二候補の少女は、将太を見た。
「だから、順番が必要なの」
将太は顔を上げる。
「光」
「如月心陽」
少女が言う。
「空白」
「田中真心」
「最後に」
少女は、白くぼやけた三人目の子どもを見る。
「忘れていた名前」
将太は唇を噛む。
ようやく、全部が繋がり始めていた。
心陽を先に戻さなければならない理由。
真心を忘れてはいけない理由。
一人目の名前を早く呼んではいけない理由。
一人目は、将太の罪悪感と結びついている。
今呼べば、将太が壊れる。
将太が壊れれば、心陽も真心も戻せない。
悠真が静かに言った。
「なら、今やるべきことは一つだ」
将太は悠真を見る。
悠真の顔は青ざめていた。
だが、目は冷静だった。
「心陽を戻す」
天堂が頷く。
「あいつを二人目にしない」
将太は拳を握った。
そうだ。
今は過去に飲まれている場合ではない。
七年前の真実は見えた。
だが、まだ名前を呼ぶ順番ではない。
今は、光。
如月心陽。
東京駅の電光掲示板が赤く光った。
『始発まで』
『残り 一分』
心陽の影は、白いホームの端に立っていた。
今にも列車に乗ろうとしている。
将太は走り出した。
「如月心陽!」
観測者たちの視線が一斉に将太へ向く。
リンが叫ぶ。
「強く呼ぶな! ここでは固定される!」
将太は歯を食いしばる。
呼ばなければ届かない。
強く呼べば固定される。
なら。
本人へ届く距離まで行くしかない。
将太は走る。
東京駅の床が伸びる。
改札が遠ざかる。
白いホームが近づかない。
距離が壊れる。
だが、悠真が叫んだ。
「綾小路、見るな!」
将太は一瞬だけ振り返る。
悠真は東京駅の天井を見ていた。
「心陽の影を見るな」
孔明の影が、悠真の背後で羽扇を上げる。
「影を見れば、影が固定される」
将太は前を向く。
心陽の影ではなく。
その向こうにいるはずの、如月心陽本人を思い浮かべる。
塾の教室。
ノートを取る横顔。
麻里と話して笑う声。
苦しそうに自分の名前を確認していた姿。
見られすぎていたのに、平気なふりをしていた少女。
影ではない。
二人目ではない。
如月心陽。
その名前を、胸の中で呼ぶ。
声に出さずに。
観測者に拾われないように。
本人へだけ届くように。
すると、東京駅の床が少しだけ戻った。
距離が縮む。
心陽の影が立ち止まる。
始発のアナウンスが鳴る。
白い列車の光が、ホームの奥から近づいてくる。
天堂が叫ぶ。
「急げ!」
将太は走った。
心陽の影が、ゆっくり振り返る。
笑っていた。
本人ではない笑み。
だが、その奥に、ほんの少しだけ揺れがあった。
まだ戻れる。
将太はそう感じた。
そして、心の中で強く呼んだ。
如月心陽。
その瞬間、白い列車の扉が開いた。




