第68話 間違い
68話 間違い
雪が降っていた。
白い駅。
リン。
首に浮かぶ黒い文字。
『見つけた』
そして、ホームの奥に立つ少女。
真心。
いや。
真心の姿をした何か。
「ずっと間違えてる」
その言葉だけが、白いホームに残った。
将太は動けなかった。
「何をだ」
ようやく絞り出した声。
少女は答えない。
ただ、将太を見ている。
「一人目だよ」
静かな声だった。
「あなたたちは、最初から間違えてる」
将太の脳裏に浮かぶ。
黒いコート。
フード。
停止世界。
指を立てる仕草。
何度も見た存在。
将太は、ずっとあれを一人目だと思っていた。
だが違う。
黒衣は境界を見る存在。
一人目そのものではない。
それは前にも告げられていた。
なのに、将太はまだ心のどこかで、黒衣を一人目として見ていた。
「違うのか」
少女は頷いた。
「違う」
その瞬間、リンが苦しそうに呻いた。
「将太……」
わずかに意識が戻っている。
「聞くな」
かすれた声。
「そいつの話を聞くな」
少女の表情が、わずかに曇った。
「リン」
「黙れ」
今まで聞いたことのない声だった。
リンが少女を睨んでいる。
いや。
少女そのものではない。
その奥にある何かを睨んでいる。
「お前のせいだ」
将太は固まった。
初めてだった。
リンが真心に似た少女へ、明確な敵意を向けたのは。
「俺たちは」
リンは苦しそうに続ける。
「ずっと警告してた」
少女は何も言わない。
「それでも」
「お前は選んだ」
将太には意味が分からない。
「何の話だ」
二人とも答えない。
まるで、自分だけが知らない話をしている。
その時だった。
駅のアナウンスが鳴った。
『観測を継続します』
『残り八日』
数字が減った。
将太は息を呑む。
時間が加速している。
残り九日だったはずだ。
それが、八日になった。
リンが見つかったことで、観測が早まっている。
少女が空を見る。
初めてだった。
彼女が焦っているように見えたのは。
「もう始まってる」
小さな声。
「何が」
少女は将太を見る。
「観測」
「だから何の」
言葉が止まった。
ホームの向こう。
雪の中。
人影。
一人。
二人。
三人。
違う。
もっといる。
無数の人影が、白い駅へ集まってくる。
日本人。
外国人。
老人。
子供。
制服姿の生徒。
スーツ姿の男。
見たことのない民族衣装の者。
顔の見えない者。
名前の分からない者。
全員が黙って歩いてくる。
以前、リンが言っていた。
世界中で同じことが起きている。
中国も。
韓国も。
アメリカも。
ヨーロッパも。
みんな同じ夢を見る。
みんな同じ影を見る。
みんな同じ言葉を聞く。
世界中の観測者たち。
その全員が、白い駅へ向かっている。
「何だ、あれ」
将太は後ずさった。
その時だった。
一番前の男が立ち止まった。
将太を見る。
そして、ゆっくり膝をついた。
次の瞬間、全員が同じ動きをした。
膝をつく。
何百人も。
何千人も。
一斉に。
将太の心臓が止まりそうになる。
「何してるんだ」
誰も答えない。
だが、少女だけは知っていた。
その顔から血の気が引いている。
「そんな……」
初めて聞く声だった。
恐怖。
そして、絶望。
少女は震える声で言った。
「ありえない」
将太は振り返る。
「何が」
少女の視線は将太に向いていた。
いや。
違う。
将太の後ろ。
その何かを見ている。
将太が振り返ろうとした瞬間。
「見るな!!」
少女が叫んだ。
しかし、遅かった。
将太は振り返ってしまった。
そこには、何もいなかった。
誰もいない。
白いホーム。
降り続ける雪。
ただ、将太の影だけがあった。
雪の上に伸びる影。
その影が、将太とは違う動きをしていた。
ゆっくりと立ち上がる。
人の形になる。
将太と同じ背丈。
将太と同じ輪郭。
だが、顔だけがない。
周囲の観測者たちは膝をついたまま動かない。
少女は呆然とそれを見ていた。
リンは苦しそうに息を吐く。
三成が、初めて完全に言葉を失っていた。
将太の影は、静かに将太を見た。
目などないのに。
確かに見ていた。
声が響く。
『ようやく』
低く。
懐かしく。
そして、恐ろしく近い声。
『思い出す時が来た』
将太の呼吸が止まった。
少女が小さく呟く。
「一人目……」
その瞬間、白い駅の全ての灯りが消えた。
暗闇。
雪だけが白く浮かぶ。
観測者たちは膝をついたまま動かない。
将太の影だけが立っている。
そして、ゆっくりと右手を上げた。
人差し指。
一。
次に、中指。
二。
薬指。
三。
小指。
四。
将太の背筋が凍る。
四人目。
自分の顔をした黒衣。
ダンニュクに触れた痕跡。
名前を失いかけた欠けた部分。
だが、今目の前に立っている影は、それだけではなかった。
もっと奥にいる。
将太の影の奥に。
もっと古い何かが。
少女が震える声で言った。
「違う」
将太は少女を見る。
「何が」
「あなたの影が一人目なんじゃない」
少女は唇を噛んだ。
「一人目が、あなたの影を通って戻ろうとしている」
将太は言葉を失った。
影が揺れる。
その輪郭が、将太とは違う形に変わりかける。
細く。
小さく。
誰かの姿へ。
だが、顔は見えない。
名前も分からない。
将太は胸を押さえた。
痛い。
名前を思い出そうとすると、胸の奥がひどく痛む。
それは恐怖ではなかった。
罪悪感に近かった。
忘れてはいけない誰かを、自分だけが忘れている。
そんな痛みだった。
リンがかすれた声で言う。
「まだ……呼ぶな……」
将太はリンを見る。
「何でだ」
「順番が……崩れる……」
順番。
またそれだった。
光。
空白。
忘れていた名前。
最初に光。
次に空白。
最後に一人目。
つまり、今ここで一人目の名前を思い出してはいけない。
先に如月心陽を戻さなければならない。
次に田中真心を繋ぎ止めなければならない。
その後で、一人目の名前を呼ぶ。
将太は、ようやく順番の意味を理解し始めていた。
一人目の名前は、答えであると同時に罠だ。
早く呼べば、心陽が落ちる。
遅すぎれば、真心が消える。
そして、間違えれば将太自身が影に戻る。
将太の影が、さらに近づく。
『思い出せ』
声がする。
『お前は知っている』
その声は、将太自身の声にも聞こえた。
少女の声にも。
リンの声にも。
白い駅そのものの声にも聞こえた。
将太は歯を食いしばった。
「まだだ」
影が止まる。
「まだ、呼ばない」
影の輪郭が揺れた。
『なぜ』
「順番を間違えたら、心陽が落ちる」
将太は声を振り絞る。
「如月心陽を見失うな」
暗闇の中で、白い駅のどこかが震えた。
「田中真心を忘れるな」
少女の姿が一瞬だけ揺らぐ。
真心の顔。
真心ではない顔。
その二つが重なって見える。
「一人目の名前は」
将太は息を吸った。
「その後だ」
影は動かない。
観測者たちは膝をついたまま。
リンの首筋の文字が、黒く脈打っている。
少女は将太を見ていた。
その顔には、驚きと悲しみが混じっていた。
「覚えてないのに」
少女が言う。
「順番だけは覚えてるんだね」
将太は少女を見る。
「お前は誰だ」
少女は答えない。
だが、今までとは違った。
答えないのではない。
答えられないのだと分かった。
彼女自身もまた、名前に縛られている。
真心の姿をしている。
だが真心ではない。
一人目の記憶を持っている。
だが一人目でもない。
空白の中に残った、名前の器。
それが、彼女の正体に近い。
将太がそう思った瞬間、少女の表情が変わった。
まるで心を読まれたように。
いや。
ここでは、思うことも観測なのだ。
少女は小さく言った。
「もう少しで、思い出せる」
将太の影が、静かに下がり始める。
一歩。
また一歩。
そして、雪の上に戻っていく。
ただの影へ。
将太の足元へ。
周囲の観測者たちが、ゆっくり顔を上げた。
誰も何も言わない。
だが、その視線だけが将太へ注がれている。
見られている。
世界中の観測者に。
白い駅に。
一人目に。
将太は、自分がもう完全に隠れられない場所へ来てしまったことを理解した。
駅のアナウンスが、再び響く。
『オブザーバー候補、接続深化』
三成が目を細める。
将太は拳を握った。
候補。
まだ候補なのか。
それとも、もう候補では済まないのか。
答えを考える前に、リンが倒れた。
「リン!」
将太が駆け寄ろうとする。
だが、少女が叫んだ。
「触らないで!」
将太は止まった。
リンの体が雪に沈みかけている。
首筋の文字がさらに広がる。
『見つけた』
その下に、新しい文字が浮かんだ。
『封鎖』
少女が息を呑む。
「生き残りが閉じられる」
「どうすればいい」
将太が聞く。
少女は一瞬だけ迷った。
そして言った。
「忘れて」
将太は固まる。
「リンを」
リン自身も言っていた。
俺を忘れろ。
将太は理解できないまま、ただ少女を見る。
「忘れたら消えるだろ」
「違う」
少女は首を振った。
「リンは、覚えられているから縛られている」
将太は息を呑む。
「上海で生き残った者」
「ダンニュクを知る者」
「順番を知る者」
「その名前で観測されているから、封鎖される」
将太はリンを見る。
リンは雪に沈みかけている。
苦しそうに、しかしどこか諦めたように。
「じゃあ、どう忘れればいい」
将太の声が震えた。
少女は言った。
「役割を忘れて」
「役割?」
「生き残りとしてのリンを忘れて」
将太は目を見開いた。
「上海の生き残りでも、観測者でも、手掛かりでもない」
少女は続ける。
「名前だけを残して」
将太の胸に、ようやく意味が落ちた。
忘れるとは、消すことではない。
役割を外すこと。
リンを「生き残り」として観測し続けるから、リンは封鎖される。
なら、その役割を忘れる。
ただのリンとして呼ぶ。
将太は息を吸った。
そして、静かに言った。
「リン」
首筋の文字がわずかに揺れる。
「お前が何を知ってるかは、今はどうでもいい」
リンの指がかすかに動く。
「生き残りでも、観測者でもない」
将太は続ける。
「リン」
その名前だけを呼んだ。
白い駅が震えた。
リンの体が雪から少しだけ浮き上がる。
黒い文字の下の『封鎖』が薄くなる。
だが、完全には消えない。
少女が言った。
「今はそれでいい」
「助かったのか」
「少しだけ」
リンの目が、ほんのわずかに将太を見た。
声は出ない。
だが、唇が動く。
ありがとう。
そう見えた。
次の瞬間、白い駅の景色が崩れ始める。
少女が遠ざかる。
観測者たちが雪の中へ消えていく。
三成の声も遠くなる。
将太は最後に、少女へ向かって叫んだ。
「お前の名前は何だ!」
少女は答えなかった。
ただ、微かに笑った。
そして、声だけが残る。
「まだ、順番じゃない」
世界が白に溶けた。
将太は自室に戻っていた。
机の上のノートが開いている。
そこには、新しい文字が浮かんでいた。
『間違いを一つ修正』
その下に、もう一行。
『一人目は黒衣ではない』
将太は震える手で、その下に書いた。
リン。
そして、その横に小さく書き足した。
生き残りではなく。
観測者ではなく。
リン。
その瞬間、ノートの端にあった黒い染みが、ほんの少しだけ薄くなった。




