第66話 東京駅
66話 東京駅
屋上からの帰り道。
三人とも無言だった。
リンが見つかった。
一人目に。
真心はそう言った。
だが、それ以上は何も話さなかった。
いや、話せなかったのかもしれない。
真心の顔色は、最後まで戻らなかった。
「どうする」
最初に口を開いたのは天堂だった。
「東京行くか」
将太は苦笑する。
「簡単に言うな」
「冬休みだぞ」
「親に何て説明する」
それはそうだった。
東京は遠い。
中学生だけで行くには、かなり遠い。
だが、悠真は違った。
何か考えている。
「いや」
悠真が言った。
「行く必要はないかもしれない」
将太と天堂が振り返る。
「どういう意味だ」
悠真は少し黙った。
そして言う。
「今までを整理する」
その声は静かだった。
いつもの悠真の声。
問題の条件を一つずつ並べる時の声だった。
「東京駅は夢で見た」
「停止世界でも見た」
「白い駅とも繋がっている」
「リンは上海から来ている」
「真心は行ったことのない東京駅を知っている」
「心陽も東京駅を懐かしがっていた」
将太は黙る。
全部、その通りだった。
悠真は続ける。
「そして、停止世界では距離が現実の地図と一致していない」
将太の胸がざわつく。
近い場所ほど遠く。
遠い場所ほど近い。
観測したものほど現れる。
意識したものほど、地図の上で席を持つ。
三成が言っていたことと重なる。
「つまり」
悠真は静かに言った。
「東京駅そのものが重要なんじゃない」
「観測上の東京駅が重要なんだ」
将太は息を呑んだ。
確かに。
停止世界は距離と関係ない。
現実の東京へ行けるかどうかではない。
将太たちが見ている東京駅。
真心が夢で見る東京駅。
心陽が懐かしむ東京駅。
白い駅と重なった東京駅。
その場所へ、観測地図の中で行けるかどうか。
「じゃあ」
天堂が言う。
「停止世界で行けばいいのか」
悠真は頷く。
「多分な」
その瞬間だった。
『その通りだ』
三成だった。
将太は足を止める。
『初めてまともなことを言ったな』
「聞こえてるぞ」
将太が小さく呟く。
「何か言ったか?」
天堂が聞く。
「いや」
誤魔化すしかなかった。
だが、悠真は将太を見ていた。
「三成か」
将太は黙る。
もう誤魔化しても意味がない。
「そうだ」
悠真は少しだけ頷いた。
「なら、行ける可能性は高い」
「何で」
「三成が否定しないなら、少なくとも方向は間違っていない」
将太は妙な気分になった。
悠真はもう、この異常を普通の条件として扱い始めている。
恐怖がないわけではない。
ただ、恐怖よりも先に構造を見る。
それが森岡悠真だった。
その夜。
将太は眠れなかった。
真心。
リン。
一人目。
残り九日。
全部が近付いている。
机の上には将太のノート。
閉じられている。
だが、そこにあるだけで重かった。
時計を見る。
午前一時。
「行くか」
三成は何も言わなかった。
止めない。
それが答えだった。
世界が静かになる。
時計の音が消える。
外の車の音も。
冷蔵庫の音も。
全部。
停止世界。
将太は目を開いた。
駅前。
いつもの場所。
だが、すぐに違和感を覚えた。
静かすぎる。
もともと停止世界は静かだ。
だが今日は違う。
静寂ではない。
空白だった。
人はいる。
車もある。
信号も止まっている。
だが、影がない。
気配がない。
街全体から何かが抜け落ちている。
『急げ』
三成が言う。
「どうした」
『嫌な感じがする』
将太は走った。
駅前広場。
ベンチ。
ノート。
何もない。
リンもいない。
黒衣もいない。
だが、そこに立った瞬間、景色が歪んだ。
駅。
ビル。
空。
全てが引き延ばされる。
距離が壊れる。
現実の地図が意味を失う。
将太は知っていた。
この感覚。
白い駅へ繋がる時だ。
視界が白く染まる。
雪。
ホーム。
線路。
白い駅。
将太は息を切らしながら立っていた。
雪が降っている。
音もなく。
風もなく。
ただ白く。
そして、すぐに気付く。
いつもの白い駅ではない。
遠くに、赤いレンガのような輪郭が重なっている。
高い天井。
広い通路。
人の流れの残像。
案内板。
改札。
丸い屋根。
見たことがないはずなのに、見覚えがある。
東京駅。
だが、現実の東京駅ではない。
白い駅と重なった、観測上の東京駅。
将太は喉が渇くのを感じた。
「ここか」
『おそらくな』
三成の声も硬い。
『見られすぎた場所だ』
将太は周囲を見る。
人はいない。
だが、いないはずなのに、視線だけが残っている。
何万人。
何十万人。
何年も、何十年も。
通り過ぎ、待ち合わせ、別れ、再会し、忘れていった人々の視線。
その全部が、この場所に染み込んでいる。
東京駅は、場所である前に、記憶の集積だった。
だから白い駅と重なる。
将太は本能的に理解した。
ホームの先。
ベンチ。
一人の少年が座っている。
リンだった。
「リン!」
将太は駆け出す。
だが、リンは振り返らない。
「おい!」
返事がない。
将太は立ち止まる。
おかしい。
リンが動かない。
その肩に、白い雪が積もっていた。
髪にも。
膝にも。
指先にも。
まるで、何日もそこに座っていたかのように。
将太の心臓が嫌な音を立てる。
ゆっくり近付く。
一歩。
また一歩。
ベンチの前に立つ。
そして、リンの顔が見えた。
目は開いている。
だが、何も映していなかった。
生きているのか。
眠っているのか。
それすら分からない。
「リン……?」
返事はない。
三成も黙っている。
その沈黙が恐ろしかった。
将太はリンの肩へ手を伸ばそうとする。
『触るな』
三成の声。
低く、鋭い。
将太の手が止まる。
その時、見えた。
リンの首筋。
黒い文字。
皮膚の上に、焼き付けられたように浮かんでいる。
『見つけた』
将太は凍り付いた。
真心のノート。
心陽の影。
黒衣。
何度も見た言葉。
それが、リンに刻まれている。
「何したんだよ……」
声が震える。
返事はない。
雪だけが降っている。
その時だった。
駅全体にアナウンスが響いた。
聞いたことのない言語。
だが、意味だけは分かった。
『二人目の観測を開始します』
将太の顔から血の気が引いた。
二人目。
観測。
開始。
全ての言葉が頭の中で繋がる。
だが、理解したくなかった。
観測開始まで残り九日。
そのはずだった。
なのに、二人目の観測はもう始まっている。
カウントダウンは、本番までの残り時間ではない。
完全に確定するまでの時間だ。
始まるのは、もっと前からだった。
ホームの向こう。
白い雪の奥。
誰かが立っている。
黒いコート。
黒衣。
その隣に、もう一つの影。
顔は見えない。
輪郭も曖昧だ。
けれど、将太には分かった。
その影は、自分たちの誰かに似ている。
悠真か。
天堂か。
心陽か。
真心か。
それとも、自分か。
分からない。
分からないまま、白い駅の電光掲示板に赤い文字が浮かび上がった。
『観測開始まで』
『残り九日』
数字は変わらない。
だからこそ、怖かった。
残り九日。
それは猶予ではない。
九日後に始まるのではない。
九日後に、戻れなくなる。
次の瞬間。
リンの口がわずかに動いた。
声は出ない。
だが、将太には読めた。
たった一言。
『逃げろ』
その直後。
ホームの灯りが、一斉に消えた。
暗闇。
白い雪だけが見える。
将太は動けない。
そして暗闇の奥から、無数の声がした。
『見つけた』
『見つけた』
『見つけた』
その声の中に、一つだけ違う声が混じっていた。
リンの声だった。
かすれて。
途切れながら。
それでも確かに、将太に届いた。
「……順番を……」
将太は息を呑む。
「リン!」
「……最初に、光……」
声が遠ざかる。
「……次に、空白……」
将太は必死に聞き取ろうとする。
光。
心陽。
空白。
真心。
「……最後に……」
リンの声が途切れる。
黒衣たちの声が一気に大きくなる。
『ダンニュク』
将太の頭に激痛が走る。
耳を塞ぎたくなる。
だが、リンの声を聞き逃せない。
「最後に何だ!」
将太は叫んだ。
暗闇の奥で、リンの目がほんの少しだけ動いた気がした。
そして、声にならない声が届く。
「……忘れていた名前……」
将太の呼吸が止まる。
一人目。
まだ思い出せない名前。
順番。
最初に光。
次に空白。
最後に、忘れていた名前。
その瞬間、ホームの灯りが一つだけ戻った。
リンの姿が薄くなっていく。
首筋の文字がさらに濃くなる。
『見つけた』
将太は手を伸ばす。
「リン!」
リンの口が、もう一度だけ動いた。
今度は声はない。
けれど、将太には読めた。
――俺を忘れろ。
将太は凍り付いた。
忘れろ。
田中真心を忘れるな。
如月心陽を見失うな。
その流れの中で、リンは逆のことを言った。
俺を忘れろ。
なぜ。
どういう意味だ。
問いかける間もなく、白い駅の奥で警告音が鳴った。
『観測干渉を検知』
『生き残りを封鎖します』
リンの体が白い雪に包まれていく。
将太は叫んだ。
「リン!」
だが、三成が鋭く言った。
『戻れ、将太!』
「でも――」
『今は駄目だ! 順番を得た。それ以上は奪われる!』
将太は歯を食いしばる。
戻るしかない。
リンを助ける方法は分からない。
だが、順番は聞いた。
最初に光。
次に空白。
最後に、忘れていた名前。
そして、リンを忘れろ。
将太はその矛盾した言葉を抱えたまま、白い駅から弾き出された。
現実。
自室。
時計は午前一時三分。
現実では、三分しか経っていない。
だが、全身は冷え切っていた。
机の上のノートが開いている。
そこに新しい文字が浮かんでいた。
『順番を守れ』
その下に、三行。
『光』
『空白』
『忘れていた名前』
そして、さらに下。
かすれた文字で、もう一行。
『生き残りを忘れろ』
将太はノートを見つめた。
リンを忘れる。
それが、生き残る方法なのか。
それとも。
リンを救うための、残酷な条件なのか。
答えはまだ分からない。
だが、ひとつだけ分かった。
もう猶予はない。
観測は、始まっている。




