第65話 リンを探せ
65話 リンを探せ
将太は飛び起きた。
自室だった。
窓の外はまだ暗い。
時計を見る。
午前五時七分。
最近では珍しくない時間だった。
息が荒い。
心臓が速い。
額には冷たい汗。
夢ではない。
もう、そんな段階は過ぎていた。
停止した世界で起きたことは、現実にも影響する。
将太はそれを知っている。
いや、知ってしまった。
机を見る。
自分のノート。
嫌な予感がした。
開く。
白紙。
白紙。
そして、あのページ。
『観測開始まで』
『残り九日』
数字が減っていた。
将太は目を閉じる。
時間がない。
それだけは分かる。
真心の声が耳に残っている。
『リンを探して』
『生き残る方法を聞いて』
生き残る。
その言葉の重さが、今になって体に沈んできた。
勝つ方法ではない。
救う方法でもない。
まず、生き残る方法。
つまり、今のままでは誰かが消える。
名前ごと。
いたことごと。
将太はノートの端に、震える手で三つの名前を書いた。
如月心陽。
田中真心。
綾小路将太。
そこまで書いて、手が止まる。
もう一つ、書くべき名前がある。
一人目。
だが、思い出せない。
白い柱に刻まれていた、消えかけた名前。
フードの奥に見えた、見覚えのある顔。
塾で。
教室で。
毎日のように視界に入っていたはずの誰か。
そこまで分かっているのに、名前だけが出てこない。
『焦るな』
三成の声がした。
「焦るなって方が無理だろ」
『焦れば順番を間違える』
将太はノートを見る。
「如月心陽を先に」
『そうだ』
「田中真心を忘れない」
『そうだ』
「リンを探す」
三成は少し黙った。
『あの男は信用ならん』
「でも、生き残った」
『だからこそだ』
三成の声は低かった。
『生き残った者は、助ける方法だけでなく、見捨てる方法も知っている』
将太は返事ができなかった。
その言葉は、嫌なほど現実的だった。
塾。
冬期講習前。
将太は教室へ入るなり、悠真と天堂を探した。
二人とも来ていた。
悠真は問題集を開いている。
天堂は机に突っ伏していた。
どちらも明らかに寝不足だった。
「聞け」
将太が言う。
二人が顔を上げる。
「リンを探す」
悠真と天堂は顔を見合わせた。
そして、ほぼ同時に頷いた。
「俺もそう思っていた」
悠真が言う。
「田中があそこまで言うならな」
天堂も腕を組む。
「今のところ唯一の手掛かりだ」
三人とも同じ結論だった。
リン。
上海の観測者。
白い駅を知っている男。
ダンニュクを恐れる男。
そして、一度同じ現象を経験し、ただ一人戻ってきた生き残り。
悠真が低く言った。
「問題は、どこにいるかだ」
「停止世界の駅前には出る」
将太が答える。
「でも、向こうから出てくるだけだ。こっちから捕まえたことはない」
「現実のリンは?」
天堂が聞く。
「知らない」
「上海出身なんだろ」
「それしか知らない」
天堂は舌打ちした。
「使えねぇな、あいつ」
悠真は静かに言った。
「使えないんじゃない。使わせないようにしている」
将太は悠真を見る。
「どういう意味だ」
「リンは情報を持っている。でも全部は出さない」
悠真はノートの端を指で叩く。
「出せないのか、出したくないのかは分からない。ただ、少なくともこちらが聞きに行く必要がある」
その通りだった。
待っていても、リンは核心を話さない。
なら、探すしかない。
その時だった。
「何の話?」
三人が固まる。
振り返る。
心陽だった。
「最近、三人とも怪しいよね」
笑いながら言う。
いつもの心陽。
だが、将太は気付く。
足元。
心陽の影。
薄い。
前よりも、さらに。
輪郭が曖昧になっている。
消えかけている。
影は何も言わない。
ただ、将太を見ていた。
助けを求めるように。
あるいは、何かを伝えようとするように。
「どうしたの?」
心陽が首を傾げる。
「いや」
将太は視線を逸らした。
今ここで話してはいけない。
心陽に直接伝えたいことは山ほどある。
だが、真心は言った。
如月心陽を先に。
それは、今すぐ全部を話せという意味ではない。
順番を間違えるなということだ。
その時、教室の扉が開いた。
真心だった。
将太は反射的に立ち上がる。
真心は少し驚く。
だが、すぐに察したように笑った。
「放課後」
「え?」
「話したいんでしょ」
将太は黙る。
「屋上」
それだけ言って、真心は自分の席へ向かった。
悠真が小声で言う。
「向こうも分かってるな」
「だな」
天堂も頷いた。
心陽は三人を見比べて、少し不満そうに眉を寄せた。
「何それ。私だけ知らない感じ?」
将太は一瞬迷った。
だが、心陽の影が足元で小さく揺れた。
言うな。
そう言っているように見えた。
「後で話す」
将太は言った。
心陽は目を細める。
「本当に?」
「本当に」
「約束ね」
「ああ」
心陽は少しだけ笑った。
だが、その笑顔はどこか薄かった。
放課後。
塾ビルの屋上。
冬の風が強かった。
灰色の空。
遠くに街並み。
真心は先に来ていた。
フェンスにもたれている。
「来たね」
三人を見る。
「リンを探したいんでしょ」
三人は固まった。
真心は苦笑した。
「その顔やめて」
「大体分かるから」
将太が前へ出る。
「お前は何者なんだ」
真心は少し黙った。
風が吹く。
長い髪が揺れる。
「今は言えない」
やはりそれだった。
天堂が苛立ったように言う。
「今は、今はって、いつになったら言うんだよ」
真心は天堂を見た。
「順番がある」
将太の胸が重くなる。
また順番。
黒衣も言った。
真心も言う。
三成も言う。
つまり、この順番そのものが鍵なのだ。
悠真が静かに聞いた。
「その順番を間違えたら?」
真心はすぐには答えなかった。
そして、小さく言った。
「誰かが消える」
屋上の風が冷たくなる。
「心陽か」
将太が聞く。
真心は目を伏せた。
「心陽だけじゃない」
その答えが一番嫌だった。
真心は続ける。
「でも、リンは探した方がいい」
「どこにいる」
「東京」
三人は顔を見合わせる。
「東京?」
「東京駅」
将太の鼓動が跳ねた。
東京駅。
最初の夢。
最初の違和感。
停止世界で見た巨大な影。
白い駅と重なる場所。
全ての始まり。
「待て」
悠真が言う。
「何でそんなことを知っている」
真心は答えない。
代わりに、空を見上げた。
そして、その瞬間だった。
表情が変わる。
血の気が引く。
将太は初めて見た。
真心が本気で動揺する姿を。
「まずい」
小さな声。
「今度は何だ」
天堂が聞く。
真心は答えない。
何かを聞いているようだった。
誰にも聞こえない何かを。
数秒。
沈黙。
そして、真心は震える声で言った。
「リンが見つかった」
風が止んだ気がした。
三人は固まった。
「は?」
天堂が聞き返す。
真心の顔色は真っ青だった。
今までで一番悪い。
そして、初めてだった。
真心が迷わず答えたのは。
「一人目に」
沈黙。
誰も言葉を発しない。
真心は空を見たまま、小さく呟く。
「間に合わなかった」
その声は、諦めにも、後悔にも聞こえた。
将太は気付く。
真心は今、リンの心配だけをしているのではない。
もっと大きな何かを恐れている。
リンが見つかったことで、何かが始まってしまったのだと。
悠真が言った。
「一人目がリンを見つけると、何が起きる」
真心は唇を噛んだ。
今度は沈黙が長かった。
だが、逃げなかった。
「リンは、生き残った人だから」
真心は言った。
「一度だけ、ダンニュクから戻る順番を見ている」
将太の心臓が跳ねる。
「順番?」
「誰の名前を先に呼ぶか」
真心の声が震える。
「誰を忘れてはいけないか」
「誰を見失ってはいけないか」
「誰の名前を最後まで呼んではいけないか」
将太は息を呑む。
最後まで呼んではいけない名前。
一人目。
まだ思い出せない名前。
真心は続ける。
「リンが見つかったら、その順番を向こうも知る」
悠真の表情が硬くなる。
「つまり、攻略法が奪われる」
真心は頷いた。
「そう」
天堂が低く言った。
「なら、急ぐしかねぇな」
将太も頷く。
「東京駅に行く」
真心が将太を見る。
「現実で?」
「ああ」
「危ないよ」
「停止世界でも危ないだろ」
真心は何も言わなかった。
将太は続ける。
「リンを探す。生き残る方法を聞く。順番を知る」
そして、一度息を吸った。
「その前に、如月心陽を見失わない」
真心の目が少しだけ揺れた。
「田中真心を忘れない」
その言葉に、真心はほんの一瞬だけ泣きそうな顔をした。
だが、すぐにいつもの静かな表情へ戻る。
「だったら、急いで」
真心は言った。
「東京駅は、もう白い駅に近い」
その瞬間。
屋上の床に、白い線が一本走った。
駅のホームの端のような線。
現実の屋上に、あるはずのない線。
悠真が目を細める。
天堂が一歩下がる。
将太はその白い線を見つめた。
残り九日。
だが、もうカウントどおりに進んでいない。
リンが見つかった。
一人目が動いた。
そして東京駅が、白い駅に近づいている。
真心は最後に言った。
「リンを見つけて」
風が戻る。
白い線は消えた。
だが、将太の目には、その線がまだ焼き付いていた。
東京駅。
白い駅。
ダンニュク。
全部が、そこへ向かっている。




