第64話 恐怖
64話 恐怖
田中真心が恐怖していた。
将太は目を疑った。
いつも冷静だった。
何を見ても動じない。
何かを知っているようで、決して語らない。
そんな真心が、今、確かに怯えていた。
黒衣は動かない。
真心も動かない。
停止した世界の空気だけが重くなる。
塾ビルの裏手。
止まった街。
動かない人々。
白くひび割れかけた地面。
その中心で、真心と黒衣だけが向かい合っている。
「どうして」
真心が呟いた。
「まだ早いはずだった」
将太は聞き逃さなかった。
まただ。
リンも。
孔明も。
真心も。
皆、同じことを言う。
早い。
何が。
何に対して。
観測開始まで、まだ十日あるはずだった。
だが、目の前では何かが始まっている。
黒衣が首を傾げる。
そして、初めて言葉を続けた。
『見つけた』
沈黙。
『二人目』
真心の顔色が変わる。
『ようやく』
黒衣が一歩前へ出る。
その瞬間だった。
「逃げて!!」
真心が叫んだ。
世界が歪む。
塾ビル。
非常階段。
空。
地面。
全てが波打つ。
将太は目を見開いた。
黒衣の背後。
そこに、さらに黒いコートがいた。
一人。
二人。
三人。
四人。
いや。
違う。
増えたんじゃない。
最初からいた。
見えていなかっただけだ。
塾ビルの窓。
非常階段の踊り場。
電柱の影。
止まった人々の背後。
路地の奥。
駐車場の車の隙間。
無数。
数え切れない。
全員がこちらを見ている。
「嘘だろ……」
天堂が呟く。
悠真も言葉を失っていた。
将太の頭に激痛が走る。
耳鳴り。
吐き気。
視界の揺れ。
聞こえる。
声。
無数の声。
『見つけた』
『見つけた』
『見つけた』
そして、全ての声が重なる。
『ダンニュク』
その瞬間。
将太は理解しかけた。
ダンニュク。
それはただの名前じゃない。
人名ではない。
普通の場所でもない。
もっと大きな何か。
世界そのものに関わる言葉。
見られすぎたもの。
忘れられたもの。
名前を失ったもの。
それらが最後に流れ着く、出口の消えた場所。
理解しかけた瞬間、誰かが腕を掴んだ。
真心だった。
「聞いちゃダメ!」
必死な声。
「名前を認識しちゃダメ!」
「何なんだよ!」
将太が叫ぶ。
真心は数秒迷った。
そして、初めて本気で焦った顔をした。
「リンを探して」
「は?」
「今すぐ」
「リンしか知らない」
「何をだよ!」
真心は答えない。
代わりに、震える声で言った。
「生き残る方法を」
将太の呼吸が止まる。
生き残る。
その言葉は重かった。
戦う方法ではない。
勝つ方法でもない。
生き残る方法。
つまり、これはもう、勝ち負けの話ではない。
戻れるか。
戻れないか。
名前を保てるか。
名前ごと消えるか。
その話なのだ。
悠真が一歩前に出る。
「リンはどこにいる」
真心は首を振った。
「分からない」
「分からないのに探せって言うのか」
「リンは逃げてる」
「何から」
真心は黒衣たちを見た。
「前に起きたことから」
その言葉で、リンの話が繋がった。
上海。
四人。
消えた名前。
生き残りは一人だけ。
リンは観測者なのではない。
ただの案内役でもない。
あの出来事を一度経験して、戻ってきた者。
生き残った者。
だから恐れていた。
だから隠していた。
だから全部を話さなかった。
話せば、同じことが起きると知っていたから。
天堂が奥歯を噛んだ。
「じゃあ今、あいつを捕まえないとまずいってことか」
真心は頷いた。
「リンは知ってる」
「何を」
「一人だけ生き残った理由」
将太の胸が冷たくなる。
一人だけ。
その言葉が嫌だった。
将太。
悠真。
天堂。
心陽。
真心。
今はもう、一人で済む話ではない。
黒衣たちの声がまた重なる。
『見つけた』
『二人目』
『鍵』
『ダンニュク』
真心が将太の腕をさらに強く掴んだ。
「聞かないで」
「無理だろ」
「無理でも聞かないで!」
真心の声が震えていた。
「意味を理解したら、向こうに場所を知られる」
「もう知られてるだろ!」
「違う!」
真心が初めて声を荒げた。
「今はまだ、見つかってるだけ」
将太は息を呑む。
「理解されたら、繋がる」
その言葉の意味は、すぐには分からなかった。
だが、怖さだけは分かった。
見つかることと、繋がることは違う。
見られているだけなら、まだ逃げられる。
だが、繋がれば。
向こうから来る。
白い駅が開く。
ダンニュクが近づく。
三成が低く言った。
『将太、名を呼べ』
「誰の」
『今は自分の名だ』
将太は足元を見る。
自分の影が揺れている。
さっきから、黒衣たちの声に反応している。
四人目の黒衣。
自分の顔をした影。
まだ半分だけだ。
もう一つの名前を思い出していない。
その声が蘇る。
将太は歯を食いしばった。
「俺は、綾小路将太だ」
影の揺れが少しだけ止まる。
続けて言う。
「如月心陽を見失わない」
白い線の広がりが一瞬だけ鈍る。
「田中真心を忘れない」
真心の手が震えた。
黒衣たちが一斉に沈黙する。
その沈黙が、逆に怖かった。
中心にいる黒衣が、ゆっくりと将太を見た。
フードの奥。
闇の中に浮かぶ目。
人間のものではない。
怪物のものでもない。
見られたものが最後に残す、穴のような目。
その目が、細くなる。
笑ったのだと、将太には分かった。
『足りない』
声が響いた。
将太の背筋が凍る。
『一人目の名前が足りない』
真心の顔が強張る。
悠真が息を呑む。
天堂の影がわずかに立ち上がる。
将太は叫んだ。
「一人目は誰なんだ!」
答えはない。
黒衣の群れだけが、静かにこちらを見ている。
だが、その瞬間。
中心の黒衣が少しだけフードを上げた。
将太は見た。
フードの奥の輪郭。
ほんの一瞬。
顔の一部。
目元。
口元。
頬の線。
将太の心臓が止まりそうになった。
見覚えがある。
知らない顔ではない。
どこかで見た。
最近。
毎日のように。
見ていた。
塾で。
教室で。
自分の視界の端で。
だが、思い出せない。
あと少しで分かるのに、届かない。
頭の奥で、何かが強く押し戻す。
思い出すな。
呼ぶな。
その名前を呼べば、戻れなくなる。
そんな声がする。
将太は額を押さえた。
「誰だ……」
真心が震える声で言った。
「まだ駄目」
「何で」
「今思い出したら、順番が崩れる」
「また順番かよ!」
「順番を間違えたら、心陽が落ちる」
その言葉で、将太は動きを止めた。
如月心陽。
二人目になりかけている少女。
見られすぎた者。
本人よりも影が形を持ち始めている者。
真心は続ける。
「先に心陽を呼び戻して」
「それから一人目か」
真心は小さく頷いた。
「その後で、私を思い出して」
「お前は今ここにいるだろ」
「今は、いる」
真心は寂しそうに笑った。
「でも、それがいつまで続くか分からない」
黒衣たちが一斉に動いた。
世界が砕け始める。
ガラスが割れるような音。
白い光。
闇。
崩壊。
悠真が叫ぶ。
「綾小路、戻るぞ!」
天堂が真心の腕を掴もうとする。
だが、その手は白い光に弾かれた。
「くそっ!」
真心の姿が薄くなる。
将太は手を伸ばす。
「田中真心!」
真心は将太を見た。
泣いているわけではない。
だが、泣きそうに見えた。
「リンを探して」
声が遠ざかる。
「生き残る方法を聞いて」
白い光が真心を飲み込む。
その直前。
真心はもう一度、声を出さずに口を動かした。
将太には読めた。
――如月心陽を先に。
次の瞬間、世界は完全に砕け散った。
現実へ戻る直前。
将太はもう一度だけ、黒衣の顔を見た。
フードの奥。
消えかける輪郭。
やはり知っている。
だが、名前だけが出てこない。
その名前は、将太の中にある。
あるのに、思い出せない。
まるで誰かが、そこだけを白く塗りつぶしたように。




