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憑いてる。  作者: 受験孔明
白い駅
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63/80

第63話 もう遅い

63話 もう遅い


 停止した世界。


 静まり返った塾ビルの裏手。


 風もない。


 音もない。


 動くものは、自分たちだけだった。


 将太は言葉を失っていた。


 田中真心。


 その名前を何度も見てきた。


 ノートで。


 夢で。


 白い駅で。


 リンの警告で。


 そして今。


 彼女は当たり前のように、停止した世界に立っている。


 将太の常識は、とうに壊れていた。


「田中……」


 真心は少し困ったように笑った。


「そんな顔しないでよ」


「何でお前がここにいる」


「説明してる時間がないかな」


 その返答は、あまりにも自然だった。


 まるで、停止した世界にいること自体が普通であるかのように。


 悠真が前へ出る。


「お前は何を知ってる」


 真心は悠真を見る。


 数秒。


 静かに考える。


「たくさん」


「答えになってない」


「そうだね」


 真心は苦笑した。


 だが、その目だけは笑っていない。


 何かを背負っている人間の目だった。


「リンに会った?」


 将太たち三人が固まる。


 真心は続ける。


「会ったよね」


「何で知ってる」


 将太が聞く。


 真心は答えない。


 ただ、塾ビルの向こうを見ていた。


 遠く。


 見えない何かを。


「思ったより早かったな」


 独り言のような声。


「何が」


 天堂が聞く。


 真心は三人を見た。


 そして、少しだけ寂しそうに笑った。


「間に合うと思ってたんだけど」


 将太の背筋が冷える。


「何に」


 真心は答えない。


 代わりに、将太を見た。


「綾小路くん」


「何だ」


「私のこと、忘れないでね」


 将太は息を止めた。


「何を言ってる」


「そのままの意味」


 真心は目を伏せる。


「これから、私のことを忘れたくなる」


「は?」


「忘れた方が楽になる」


 真心の声は静かだった。


「でも、忘れたら開かない」


 将太は瞬きをする。


「何が」


「白い駅」


 その言葉と同時に、止まった空気がわずかに震えた。


 三成が顔を上げる。


 悠真の背後で孔明の気配が濃くなる。


 天堂の影も、足元でわずかに揺れた。


「田中真心を忘れるな」


 真心は自分の名前を、他人事のように言った。


「如月心陽を見失うな」


 将太の胸が重くなる。


「お前は何なんだ」


 真心は答えない。


「それを言ったら」


 少しだけ、声が揺れた。


「全部変わっちゃうから」


 風が吹いた。


 止まった世界の中で。


 あり得ないはずの風。


 三成が顔を上げる。


 将太も気付く。


 空気が変わった。


 温度が下がる。


 嫌な予感。


 今まで何度も感じてきた感覚。


 だが、今回は比べものにならない。


「まずい」


 真心の表情が変わった。


 初めてだった。


 焦った顔を見せたのは。


「どうした」


 将太が振り返る。


 誰もいない。


 そのはずだった。


 塾ビルの向こう。


 止まった人々の間。


 そこに、黒いコートが立っていた。


 黒衣。


 境界を見る存在。


 だが、今までとは違う。


 遠くに現れて、指を立てるだけではない。


 今回は歩いている。


 真っ直ぐ、こちらへ向かって。


 逃げない。


 隠れない。


 止まらない。


「何なんだ、あいつ」


 天堂が呟く。


 真心は答えない。


 ただ、珍しく警戒していた。


「来ちゃったか」


 小さな声。


 その声に、将太は違和感を覚えた。


 恐怖ではない。


 驚きでもない。


 もっと別の何か。


 ずっと避けていた未来が来たような。


 そんな響きだった。


 黒衣は近付く。


 あと十メートル。


 あと九メートル。


 あと八メートル。


 悠真も。


 天堂も。


 動けない。


 三成ですら黙っていた。


 そして、黒衣は立ち止まる。


 真心の前で。


 沈黙。


 誰も喋らない。


 止まった世界。


 止まった時間。


 その中心で、二人だけが向かい合う。


 やがて、黒衣が右手を上げた。


 人差し指。


 一。


 将太は見覚えがあった。


 一人目。


 ずっとそう思っていた。


 黒衣はいつも、最初に一本の指を立てる。


 だが、今回はそこで終わらなかった。


 中指も立つ。


 二。


 将太の全身に鳥肌が走る。


「二人目……」


 真心が小さく呟いた。


 その声には、怒りも驚きもなかった。


 ただ、諦めに似た何かが混じっていた。


 その瞬間。


 初めて、黒衣が声を出した。


『見つけた』


 低い声。


 聞いたことのない声。


 だが、どこか懐かしい声。


 まるで、ずっと昔から知っていたような。


 そんな不気味な響きだった。


 将太は息を呑む。


 その言葉。


 真心のノート。


 心陽の影。


 停止世界の教室。


 何度も見た。


『見つけた』


 同じ言葉。


 だが、黒衣の視線は将太ではない。


 悠真でもない。


 天堂でもない。


 真心だった。


 静寂。


 真心は動かない。


 逃げない。


 目を逸らさない。


 ただ、ゆっくりと目を閉じた。


「……やっぱり」


 小さな声。


 まるで、ずっと前から分かっていたような声だった。


「間に合わなかったか」


 将太の背筋が凍る。


 その言葉。


 真心は何度も言っていた。


 間に合うといいね。


 間に合うと思ってたんだけど。


 全部繋がる。


 黒衣は一歩前へ出る。


 真心は怯えない。


 怒らない。


 戦おうともしない。


 ただ、静かに将太を見る。


「将太くん」


 将太は目を見開いた。


 初めてだった。


 真心が、綾小路ではなく、将太くんと呼んだのは。


「もう遅い」


 その瞬間、塾ビル全体の影が震えた。


 壁の影。


 階段の影。


 止まった生徒たちの影。


 電柱の影。


 看板の影。


 全てが一斉に揺れる。


 まるで、何かの開始を告げるように。


 そして、将太は見た。


 黒衣のフードの奥。


 初めて。


 ほんの一瞬だけ。


 闇の中に浮かぶ、二つの目を。


 その目は、人間のものではなかった。


 だが怪物の目でもなかった。


 もっと冷たい。


 もっと古い。


 見ているものではなく。


 見られたものが、最後に残す穴のような目だった。


 悠真が低く言った。


「一人目か」


 黒衣は答えない。


 天堂が奥歯を噛む。


「じゃあ、二人目って誰だよ」


 その問いに、真心が答えた。


「如月心陽」


 将太の心臓が跳ねた。


「でも、まだ確定していない」


 真心は続ける。


「だから、呼び戻せる」


「なら――」


「でも」


 真心が遮った。


「今、黒衣が見つけたのは私」


 将太は意味が分からなかった。


「何でだよ」


「鍵だから」


 真心は静かに言った。


「二人目を確定させるには、私が必要だから」


 将太の胸が冷える。


 光だけでは駅は開かない。


 空白だけでも戻れない。


 二つの名前を揃えろ。


 ただし、順番を間違えるな。


 黒衣の言葉が蘇る。


「お前を連れていく気か」


 将太が言う。


 真心は答えなかった。


 その沈黙が答えだった。


 三成が前へ出る。


『下がれ、将太』


「下がれるかよ」


『今は駄目だ』


「何が」


『ここで真心を掴めば、心陽が沈む』


 将太は固まった。


「どういう意味だ」


『順番だ』


 三成の声は硬かった。


『黒衣が言っていた。順番を間違えるなと』


 真心が小さく頷く。


「如月心陽を先に見つけて」


「でも、お前は」


「私は忘れられる方だから」


 真心は笑った。


 ひどく寂しい笑顔だった。


「少しなら、待てる」


 将太は言葉を失った。


 その時。


 黒衣が、再び手を上げた。


 一。


 二。


 そして、三本目の指がゆっくりと立つ。


 三。


 悠真の顔色が変わった。


 天堂の影が跳ねる。


 将太の足元の影も揺れた。


 白い駅のアナウンスが、遠くで響く。


『観測準備進行中』


『二つ目の鍵を確認』


『三人目、接続』


 リンの声がどこかから聞こえた。


「逃げろ!」


 その声は遠かった。


 だが、確かに届いた。


 黒衣の背後に、白い線が走る。


 駅のホームの線。


 塾ビル裏の地面が、白い駅へ変わりかけている。


 真心の足元には、やはり影がない。


 だが、その代わりに。


 黒衣の影が、真心の足元へ伸びていた。


 将太は叫んだ。


「田中真心!」


 真心の体がわずかに震える。


 黒衣の動きが止まる。


 将太は続ける。


「忘れない」


 真心が将太を見る。


 目が少しだけ揺れた。


 しかし、次の瞬間。


 黒衣のフードの奥で、目が細くなった。


 笑ったのだと分かった。


 そして、黒衣は低く言った。


「もう遅い」


 白い光が弾けた。


 塾ビル裏の地面が割れる。


 非常階段が伸びる。


 止まった生徒たちの影が一斉に立ち上がる。


 真心の姿が白い光に飲まれかける。


 将太は手を伸ばした。


 だが、届かない。


 真心は最後に、声を出さずに口を動かした。


 将太には読めた。


 ――如月心陽を先に。


 次の瞬間、世界が砕けた。

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