第62話 計算外
62話 計算外
真心が教室へ入ってくる。
ただそれだけだった。
入口で小さく会釈する。
席に向かう。
問題集を机に置く。
シャープペンを出す。
いつも通り。
どこにでもいる女子生徒だった。
だが、将太は昨日の光景を忘れられなかった。
教室中の影が、一瞬だけ真心へ向いた。
あれは見間違いではない。
影は真心を知っていた。
そして真心もまた、何かを知っている。
冬期講習が始まる。
講師の声。
問題演習。
解説。
板書。
普段と変わらない時間。
それなのに、将太は妙な違和感を覚えていた。
前を見る。
悠真。
その瞬間だった。
将太は思わず目を見開く。
見えた。
久しぶりに。
悠真の後ろ。
諸葛亮孔明。
静かに立っている。
羽扇を持ち、相変わらず落ち着いた表情をしていた。
「……」
将太は言葉を失った。
ずっと見ていなかった。
いや。
見えていなかった。
『気付いたか』
三成だった。
「何で……」
将太は小さく呟く。
「今まで見えなかった」
『見えていなかっただけだ』
「どういう意味だ」
三成は小さく鼻で笑った。
『最近のお前は何を見ていた』
「何をって……」
停止世界。
白い駅。
影。
リン。
ダンニュク。
一人目。
観測開始。
将太は途中で気付いた。
『そういうことだ』
三成が続ける。
『お前の視線は、奥へ行き過ぎた』
将太は黙る。
『孔明も』
『信長も』
『消えておらん』
『ずっとそこにいた』
そして、少し間を置く。
『お前が別のものを見ていただけだ』
確かにそうだった。
最近は、人よりも影を見ていた。
現実よりも停止世界を見ていた。
憑いているものよりも、憑く前の空白を見ていた。
将太は、悠真本人を見る。
その背後に孔明がいる。
以前と同じように。
だが、以前とは違って見えた。
孔明は悠真を支配しているわけではない。
ただ、見ている。
読んでいる。
戦場を見るように。
その時だった。
孔明の視線が動いた。
真心。
将太は息を呑む。
孔明は真心を見ていた。
微動だにせず。
ただ静かに。
そして、羽扇がわずかに動いた。
『計算外か』
小さな声だった。
だが、将太には聞こえた。
悠真が顔を上げる。
「どうした」
孔明は答えない。
ただ真心を見ている。
将太はさらに後ろを見る。
天堂。
その背後。
織田信長。
こちらもいた。
圧倒的な存在感。
教室にいるだけで空気が変わる。
だが、信長も真心を見ていた。
『なるほど』
信長が笑う。
だが、その目は笑っていない。
「何だよ」
天堂が眉をひそめる。
信長は答えない。
ただ孔明と同じ方向を見る。
真心だった。
将太の背中を冷たい汗が流れる。
おかしい。
孔明も。
信長も。
こんな反応をしたことがない。
怪物が怪物を見ているのではない。
戦う相手を見る目でもない。
もっと違う。
理解できないものを見た時の目だった。
「三成」
「何なんだ」
三成は少し黙った。
そして言う。
『私にも分からん』
将太は固まる。
『だが』
三成の声が低くなる。
『あの二人が同時に警戒する相手など、そう多くはない』
その時だった。
真心がふと窓の外を見る。
何気ない仕草。
ただそれだけ。
しかし、孔明の表情が僅かに変わった。
信長の笑みも消える。
何かがいる。
将太はそう感じた。
真心ではない。
真心の後ろでもない。
もっと奥。
もっと深い場所。
孔明と信長は、それを見ている。
講師の声が響く。
「では、ここは条件の見落としに注意してください。見えているものだけで判断すると、必ず間違えます」
将太は黒板を見た。
見えているものだけで判断すると、必ず間違える。
今の状況そのものだった。
真心は、忘れられた者。
そう思っていた。
だが、それだけでは説明がつかない。
真心には影がない。
教室中の影が真心へ向いた。
孔明と信長が警戒している。
三成ですら分からない。
それは、ただ忘れられた者に対する反応ではない。
休憩時間を告げるチャイムが鳴った。
授業終了。
生徒たちが立ち上がる。
騒がしくなる教室。
麻里と双葉が心陽に声をかける。
悠真はノートを閉じる。
天堂は机に頬杖をつきながら、まだどこかを見ている。
その中で、真心だけが静かだった。
席を立つ。
鞄を持つ。
そして、教室を出る直前。
一瞬だけ立ち止まった。
将太を見る。
何か言いたそうな目。
だが、何も言わない。
そのまま廊下へ消える。
将太は立ち上がった。
「おい」
追いかけようとする。
その瞬間。
『やめておけ』
孔明だった。
教室の空気が止まった気がした。
悠真が顔を上げる。
天堂も振り返る。
将太は固まった。
初めてだった。
孔明がここまで強く制止したのは。
「何でだ」
将太が聞く。
孔明は答えない。
ただ、真心が消えた扉を見ている。
その隣。
信長も同じ方向を見ていた。
笑っていない。
あの信長が。
まるで戦場を見るような目をしていた。
「おい」
天堂が小さく呟く。
「今の何だ」
信長は答えない。
代わりに、低く笑った。
『面白い』
その声に、三成の表情が変わる。
嫌な予感。
そんな顔だった。
そして、孔明が静かに言う。
『計算外だ』
将太は息を呑む。
さっき聞いた言葉。
だが、今度ははっきり聞こえた。
『あれは予定にない』
将太の鼓動が速くなる。
「予定?」
孔明は答えない。
だが、次の言葉だけは将太の耳にはっきり届いた。
『本来なら』
『存在してはならぬ』
その瞬間、将太の背筋に寒気が走る。
存在してはならない。
それは、敵に向ける言葉ではない。
異常に向ける言葉だ。
悠真が低く言った。
「孔明」
孔明は悠真を見る。
「予定とは何だ」
孔明は答えない。
だが、その沈黙は逃げではなかった。
むしろ、答えることを慎重に避けているように見えた。
天堂も、背後の信長へ視線を向ける。
「お前も知ってるのか」
信長は笑った。
だが、やはり目は笑っていない。
『知らぬ』
「嘘つけ」
『知らぬから面白い』
その言葉に、将太はぞっとした。
信長にとって、真心は敵ではない。
知らないもの。
計算できないもの。
予定にないもの。
だから面白い。
だから危険なのだ。
窓の外。
夕日が差し込む。
長い影が教室へ伸びる。
そして、誰も見ていないはずの廊下の向こうで、真心が一度だけ立ち止まった。
振り返らない。
こちらも見ない。
それでも、なぜか将太には分かった。
真心は、孔明の言葉を聞いていた。
次の瞬間、廊下の影が揺れる。
ほんの一瞬。
真心の足元に、巨大な影が重なった気がした。
人ではない。
怪物でもない。
まるで、駅そのものの影だった。
そして消える。
将太は動けなかった。
残り十日。
観測開始。
白い駅。
ダンニュク。
一人目の名前。
その中心にいるのは、もう間違いなく田中真心だった。
だが。
中心にいることと、正体であることは違う。
将太はようやく、それに気付き始めていた。
真心は鍵なのか。
扉なのか。
それとも。
本来、存在してはならない出口なのか。
廊下の奥で、真心の姿が消えた。
その直後。
将太のノートが、勝手に開いた。
ページの端に、文字が浮かぶ。
『計算外を見失うな』
その下に、もう一行。
『田中真心を忘れるな』




