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憑いてる。  作者: 受験孔明
白い駅
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61/82

61話 忘れていた名前

61話 忘れていた名前


 真心が去った後も、将太はしばらく動けなかった。


 夕暮れ。


 赤く染まる帰り道。


 通り過ぎる車。


 遠くの信号。


 冬の冷たい風。


 現実の音は、ちゃんと動いている。


 それなのに、将太の中だけが止まっていた。


『久しぶりだった?』


 真心の言葉だけが、頭の中で何度も反響している。


 知っている。


 真心はリンを知っている。


 それも、ただ見たことがあるという程度ではない。


 もっと前から。


 ずっと前から。


 そして、リンもまた真心を知っている。


 あの反応。


 あの沈黙。


 あれは初対面のものではなかった。


 将太は立ち止まり、振り返った。


 真心の姿はもうない。


 人混みの中に消えたわけではない。


 そこにいたはずの輪郭だけが、いつの間にか薄れている。


 まるで最初から誰もいなかったように。


「……田中真心」


 将太は声に出した。


 忘れないために。


 消えないように。


 名前を呼ぶと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


『その名は軽く扱うな』


 三成の声がした。


「分かってる」


『分かっておらんから、何度も呼ぶ』


「呼ばないと消えるだろ」


 三成は何も言わなかった。


 その沈黙だけで、将太は十分だった。


 夜。


 将太は停止世界へ入った。


 久しぶりに、自分から。


 世界が静かになる。


 時計の針が止まる。


 部屋の空気が固まる。


 外の音が消える。


 将太は目を開けた。


 自室。


 机。


 カーテン。


 ノート。


 すべてが静止している。


 足元の影だけが、少し遅れて形を整えた。


『今日は私も聞きたいことがある』


 三成が言った。


「真心のことか」


『リンのこともだ』


 三成の声は低い。


『あの二人は、私たちより先に何かを見ている』


 将太は頷いた。


 駅前広場へ向かう。


 止まった夜の街。


 動かない車。


 歩道で静止した人々。


 赤のまま止まった信号。


 風のない空。


 いつもの停止世界。


 だが、今日は静かすぎた。


 黒衣もいない。


 リンもいない。


 真心のノートもない。


 ただ、駅前広場だけが、ぽっかりと空いている。


 まるで誰かが来るために、場所だけ用意されているようだった。


 将太はベンチの前で立ち止まる。


「出てこい」


 小さく呟いた。


「いるんだろ」


 返事はない。


 静寂。


 止まった世界。


 月明かり。


 数秒後。


「相変わらずだね」


 声がした。


 将太は反射的に振り返る。


 そこにいたのは、田中真心だった。


 制服姿。


 昼間と同じ。


 静かな表情。


 細い肩。


 いつもの横顔。


 だが、違う。


 現実で見る真心とは、決定的に違う。


 影がない。


 月明かりの下に立っているのに、足元に何も落ちていない。


 将太は息を呑んだ。


「お前……」


「うん」


 真心は苦笑した。


「やっと気付いたね」


 三成が前へ出る。


『貴様は何者だ』


 真心は三成を見る。


 そして、少しだけ困ったように笑った。


「それを説明すると長いんだよね」


「じゃあ短く言え」


 将太が言う。


 真心は数秒黙った。


 それから、静かに答えた。


「私は二人目じゃない」


 将太は固まった。


「じゃあ何だ」


 真心は空を見る。


 止まった夜空。


 動かない雲。


 静かな月。


「二人目を知っている人」


 将太の心臓が跳ねる。


「知ってる?」


「うん」


「誰なんだ」


 真心は答えない。


 代わりに、駅前の向こうを見る。


「本当は」


 少しだけ声が揺れた。


「もう会ってるから」


 その瞬間、将太の背筋に寒気が走った。


「は?」


「どういう意味だ」


 真心は将太を見る。


 初めて。


 少しだけ悲しそうな顔だった。


「覚えてないんだね」


「何を」


「綾小路将太」


 真心が、はっきりと名前を呼んだ。


 その声に、停止世界全体が反応した。


 信号機がわずかに軋む。


 止まった人々の影が震える。


 ベンチの上に、薄く白い線が走る。


「君は一度」


 真心は続けた。


「ダンニュクを経験してる」


 世界が静まり返った。


 三成の表情が変わった。


 将太は言葉を失う。


「……何を言ってる」


「だって」


 真心は小さく笑った。


 だが、その笑みはひどく寂しかった。


「だから私は驚いたんだよ」


「何に」


「まだ生きてるから」


 その言葉と同時に、駅前全体が大きく揺れた。


 遠く。


 停止した人々の群れの向こう。


 黒いコートが現れる。


 一人。


 二人。


 三人。


 同じ黒衣。


 同じフード。


 同じ沈黙。


 そして、さらに奥から。


 四人目が現れた。


 将太は動けなかった。


 四人目の黒衣だけが、他の三人と違っていた。


 歩き方。


 立ち方。


 肩の高さ。


 息のない世界なのに、呼吸の癖まで分かる気がした。


 知っている。


 見たことがある。


 いや。


 毎日見ている。


 四人目の黒衣は、ゆっくりとフードに手をかけた。


 三成が叫ぶ。


『見るな!』


 だが、将太は目を逸らせなかった。


 フードが外れる。


 月明かりが、その顔を照らす。


 将太は息を呑んだ。


「……嘘だろ」


 フードの下にいたのは、自分だった。


 綾小路将太。


 同じ顔。


 同じ目。


 同じ制服。


 だが、表情が違う。


 そこにいる将太は、何も感じていないような顔をしていた。


 怒りもない。


 恐怖もない。


 悲しみもない。


 ただ、見ている。


 こちらを。


 真心を。


 三成を。


 停止した世界そのものを。


「何だよ、これ」


 将太の声が震えた。


「俺なのか」


 真心は答えない。


 四人目の黒衣が、一歩前に出る。


 足音はない。


 だが、距離だけが縮まる。


 将太の足元の影が、ゆっくりと揺れた。


 自分の影が。


 四人目の黒衣の方へ、引っ張られるように伸びていく。


『下がれ、将太』


 三成が言った。


 いつもの皮肉も、余裕もない。


『あれはお前ではない』


「でも俺の顔だ」


『顔だけだ』


「じゃあ何なんだよ!」


 三成は答えられなかった。


 真心が静かに言う。


「ダンニュクに落ちたものは、名前から消える」


 将太は真心を見る。


「でも、全部が消えるわけじゃない」


「どういう意味だ」


「消え残るものがある」


 真心の声が低くなる。


「影」


 将太の背筋が冷たくなった。


「名前を失った後に残るもの」


 四人目の黒衣が、将太を見ていた。


 その目は、将太の目だった。


 だが、そこに将太はいない。


 空っぽだった。


「君は一度、そこに触れた」


 真心が言う。


「でも、戻ってきた」


「覚えてない」


「覚えてないようにされた」


「誰に」


 真心は答えなかった。


 その代わり、視線を三成に向ける。


 三成の顔が硬くなる。


 将太は三成を見た。


「おい」


『違う』


 三成は即座に言った。


『私は知らん』


「本当にか」


『少なくとも、私が見てからのお前にそんな記憶はない』


「じゃあその前か」


 三成は黙った。


 将太の胸が重くなる。


 三成はウィットネス。


 将太に憑いているのではない。


 将太を観測している。


 つまり。


 三成が見る前の将太を、三成は知らない。


「いつだ」


 将太は真心を見る。


「俺はいつダンニュクを経験した」


 真心は悲しそうに微笑む。


「それを思い出すと、君は今の君じゃなくなるかもしれない」


「答えになってない」


「答えたら、戻れなくなるかもしれない」


 四人目の黒衣が、さらに一歩近づいた。


 将太の影が大きく揺れる。


 足元から離れようとしている。


 真心が鋭く言った。


「名前を呼んで」


「誰の」


「自分の」


 将太は息を止めた。


 自分の名前。


 今まで心陽を呼んだ。


 真心を呼んだ。


 天堂を呼んだ。


 悠真を呼んだ。


 だが、自分の名前を呼ぶことなど考えたことがなかった。


 真心は続ける。


「君は、空席じゃない」


 その言葉が、将太の胸に突き刺さった。


「空席だったんじゃない」


 真心の声が震えた。


「一度、名前を失いかけたから、空いて見えていただけ」


 将太は言葉を失った。


 空席。


 誰にも憑かれていない者。


 怪物たちが寄ってくる場所。


 ずっとそう思っていた。


 だが違うのか。


 空いていたのではない。


 欠けていた。


 名前の一部が。


 記憶の一部が。


 影の一部が。


 ダンニュクに触れたことで。


 四人目の黒衣が手を上げる。


 指を一本立てる。


 一人目。


 二本目。


 二人目。


 三本目。


 三人目。


 そして、四本目。


 四人目。


 その指先が、将太へ向く。


 白い駅のアナウンスが、遠くから響いた。


『四人目、確認』


 三成が叫ぶ。


『呼べ!』


 真心も叫ぶ。


「綾小路将太!」


 将太は息を吸った。


 喉が震える。


 自分の名前を、自分で呼ぶ。


 こんなに難しいことだと思わなかった。


 四人目の黒衣が、目の前まで来ている。


 将太と同じ顔。


 空っぽの目。


 何も映していない目。


 将太は歯を食いしばった。


「俺は」


 声がかすれる。


 足元の影が剥がれかける。


 世界が白く歪む。


 真心の姿が薄くなる。


 三成の声も遠ざかる。


 それでも、将太は言った。


「綾小路将太だ」


 その瞬間、影が床に叩きつけられるように戻った。


 四人目の黒衣が止まる。


 空っぽの目が、初めて揺れた。


 駅前広場の遠くで、白い光が弾ける。


 真心がほっとしたように息を吐く。


 だが、まだ終わっていなかった。


 四人目の黒衣は、将太を見たまま、口を開いた。


 声は、将太自身の声だった。


「まだ、半分だけだ」


 将太の背筋が凍る。


「何が」


 四人目の黒衣は、薄く笑った。


「もう一つの名前を、まだ思い出していない」


 将太は動けなかった。


「もう一つの名前?」


 真心の顔色が変わる。


 三成も目を細める。


 四人目の黒衣は、ゆっくりとフードを戻した。


 そして、消える直前に言った。


「一人目の名前」


 将太の心臓が跳ねた。


 一人目。


 名前を失った存在。


 白い柱に刻まれていた、読めなかった名前。


 忘れていた名前。


 それを思い出さなければならない。


 将太は、ようやく理解した。


 これは心陽だけの話ではない。


 真心だけの話でもない。


 悠真や天堂だけの話でもない。


 自分自身も、もう最初から巻き込まれていた。


 いや。


 巻き込まれたのではない。


 たぶん、自分が入口だった。


 真心が小さく言った。


「思い出して」


 将太は真心を見る。


 真心の影は、やはりない。


 けれど、目だけは確かにそこにある。


「一人目の名前を」


 その瞬間、停止世界が崩れ始めた。


 駅前広場が遠ざかる。


 真心の姿が薄くなる。


 三成の声が戻ってくる。


 将太は手を伸ばした。


「田中真心!」


 真心は微かに笑った。


「忘れないで」


 次の瞬間、世界が戻った。


 将太は自室の椅子に座っていた。


 荒い息。


 冷たい汗。


 机の上のノートが開いている。


 そこには、新しい文字が浮かんでいた。


『残り十日』


 その下に、もう一行。


『一人目の名前を思い出せ』


 将太は震える手で、自分の名前を書いた。


 綾小路将太。


 何度も。


 何度も。


 そして、その隣にもう一つ、空欄を作った。


 一人目。


 まだ思い出せない名前。


 だが、その空欄を見ていると、胸の奥がひどく痛んだ。


 まるで。


 そこに書くべき名前を、自分だけが忘れているようだった。

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